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第22話 その身に這う紋様

 脳を炎で炙られている感覚だった。

 灼熱感が頭の中を轟音とともに駆け巡っていく。天地が理解できない。身体が浮遊しているようだ。そんな夢うつつが、永遠に続いているような気がした。

 視界は暗く赤い。なにも見えない。絶望を具現化したら、あるいはこんな色なのだろうか。

 かすかに聞こえてくるのは声のような、微細な音。それは絶望のただなかで、耳朶に寄り添うごとく響いてくるのを感じた。


「……ド。……ドさま」


 その声に答えなければいけないと思う。わかっているのに、泥に浸かったかのように全身が重い。まぶたを開けることも口を開くこともできない。身体がすべてを拒絶している。このまま眠り続ければ、やがてすべてから解放されるのだろうか?

 大切なものばかりが離れていく。

 助けられなかった弟。救えなかったティルナ。とめることのできなかったシエン。

 彼らの姿が走馬灯みたいによぎっていく。手を伸ばしても届かない遠い彼方。こんなはずではなかったのに。どこで道を違えてしまったのか。


『あの人がもし、暴走することがあったら、とめてやってね。それができるのは……あなたしかいない』


 ティルナの言葉が脳に反響する。細く切れ切れな声音で託された切実な想い。彼女はわかっていた。シエンの弱さを。彼を愛していたからこそ、その脆さを最期まで心配していたのだ。

 そうだ。だからこそ。俺は――俺は、違えてしまった道を正さねばならないのだ。それがティルナの望みなのだから。

 今、意識を失っている場合ではない。


「――ゼードさま!」


 声が再び脳裏にこだました。凛とした女性の声だ。重いまぶたを持ちあげると、ぼんやりとする視界に女性の顔が映る。心配そうに眉を垂らし、何度も呼びかけてくる。


「ゼードさま……」

「……あ? ここは」


 でた声は掠れていた。喉がひどく痛い。顔を苦渋にゆがめ、ゼードはうめき声を漏らした。

 寝台の上に寝かされていることに気づく。力なく顔だけを動かして周囲を見やると、見覚えのない簡素な木造の室内が映った。変哲のない木造りの机や棚が見え、棚の上には手づくりらしき編みぐるみがいくつか飾られている。

 寝台のそばにある木椅子にはゼードの赤い外套がかかっていた。ボロボロに破れた箇所が拙く縫ってあるのが見える。


「ゼードさま、目覚めたのですね。よかった」

「お前、ロアンヌ……か」


 女性、ロアンヌは安堵した様子で息をついた。


「ええ。私です。ロアンヌです。本当に目覚めてよかった。ここは、私の家ですよ」

「……ロアンヌの家」

「すみません。先の戦いで、少し家が燃えてしまって。お見苦しくて申しわけないです。一応、修繕も少しずつしているのですが」


 確かに部屋のあちこちが煤けているし、奥にある玄関扉は半焼している。

 ロアンヌの家――ということは、ここは咒民の村か?

 ゼードは慌てて起きあがろうとした。ロアンヌが即座にとめる。


「お待ちください。まだ動かないで。『安定』していないのですから」

「安定、だと?」


 その瞬間だった。全身を焼くような痛みがゼードを襲ったのだ。愕然と目を見開く。額に脂汗が浮かびあがった。痛みに思わずくぐもった声が漏れ、呼吸が荒くなる。視界がゆがんで霞んだ。脳内が酩酊するように激しく波打っていた。

 なんだ、これは。こんな症状は今まで感じたことがない。身体がおかしい。いったい。

 胸を押さえて身をよじるゼードに、そばに立ったロアンヌの顔は神妙だった。


「無理もありません。あなたは意識不明の重体だったのですから」


 そうだ。あの時、シエンに斬られたのだ。肩から斜めに切り裂かれた瞬間を思いだす。飛びあがった鮮血が鮮明に脳裏へ残っていた。

 ロアンヌはゼードに護符のような札を握らせた。なんとも拙く縫われた代物だ。


「これを握りしめてください。少しは楽になるはずです」

「なんだこれ? 昆布か?」

「ち、違います……私がマナをこめてつくったお守りのようなものです。少しは体内のマナを落ち着かせることができるでしょう」

「体内の、マナ……だと? だが、俺には――」


 ゼードにはマナが欠如しているはずだ。それはいやというほど突きつけられた現実だ。

 ロアンヌは言いよどむ。


「それは……その」

「なんだ? なにかあったのか?」

「勝手なことをしてごめんなさい」


 彼女は深く頭をさげる。意味がわからず困惑するゼードに、ロアンヌが囁き声で続ける。


「あなたに『血』を投与しました」

「血?」

「ええ。私たちの……血です。そうしなければ、あなたは死んでいた。あなたを救うにはこうするほかなかった。ごめんなさい」


 そこで初めて気づいた。

 あれだけ深く斬られたはずなのに、衣服越しの身体には傷ひとつ残っていないのだ。まるで斬られたことが夢だったかのごとく。それだけではない。ゼードは力なく自分の腕を持ちあげる。袖を手早く捲ると、露わになった腕には無数に走る青黒いそれが――幾何学模様にも似た紋様が浮かんでいる。ゼードの腕を縦横無尽に巡っていた。

 これは、まるで。


「あなたは、咒民となってしまったのです」


 一度は顔をあげたロアンヌが、改めて頭をさげる。


「申しわけありません。でも私は、あなたを救いたかった」


 身体の痛みに意識は相変わらずぼんやりとしていた。身体を刺す鋭い感覚。血を薄めた秘薬を投与したわけではないだろう。完全に傷が癒えていることから、きっと濃度そのままの血を入れたのだ。この身体の変異。おそらくは拒絶反応だ。常人には咒民のマナは強大すぎる。

 意識が戻ったのも奇跡のはずだ。俺は、順応したということなのか。

 この回復力。秘薬として聖道院が利用せんとするのもうなずける。

 ゼードは額に脂汗を浮かべながらなんとか上体を持ちあげた。汗で衣服が肌に張りついている。少しでも身を動かすと鋭い痛みが走った。視界が波打つ感覚にめまいを覚える。

 吐き気がした。


「咒民に、なった……だと。この、俺が?」


 その事実は脳にうまく入ってこない。呆然と腕を見おろすことしかできなかった。それなのに肉体の奥底では、なにかが、渦巻いている感覚がするのだ。これが、まさか。

 ゼードは首を振り、改めて部屋を見回した。質素な木造りの室内には、今はゼードとロアンヌのふたりしかいない。寝台のそばにある窓から差しこむ陽光が薄く部屋を照らし、彼の身体に浮かぶ紋様を際立たせていた。

 顔をあげ、ゼードはロアンヌを見やる。


「そうだ……シエンは? 兵士たちはどうなった?」

「兵士はアキウスたちと協力してなんとか追い払いました。シエンさまも撤退しています。ですが、いずれまた攻めこんでくるでしょうね。あれは第一隊にすぎない」


 悲しげに目を伏せるロアンヌに、ゼードはうなずく。


「ああ。連中の目的は咒民をひとり残らず滅ぼすことだ。シエンだって……またやってくるだろう。あいつは」


 復讐に身を焦がすシエンの悲痛な顔を思いだし、口をつぐむゼード。彼の切っ先は本気でゼードを殺しにかかってくるものだった。すでに癒えているはずなのに斬られた身体が痛むような気がした。思わず胸を押さえる。


「ゼードさま。ひとまずお休みください。血が完全に肉体へ順応するまでに時がかかります。ですので、安静になさって――」

「だが、だがな。こうしてる間にも、スクリエルのやつらはまた村へ攻めこんでくるかもしれねえ。ゆっくりしてるわけにゃあ……」

「ご安心ください」


 眉をひそめるゼードに対し、彼女は穏やかな笑みを浮かべる。


「みんなで協力して、村の周囲に魔法結界を張りましたので」

「魔法結界?」

「ええ。防壁のようなものですよ。おそらく、少しの時間稼ぎはできましょう」

「そう、か……」


 自分にはなにができるだろう。シエンは再びやってくるはずだ。その時、また今回のように無様な醜態を晒すわけにはいかない。やつをとめねば。だが、どうすればいい。

 家の玄関扉が開いたのはその時だった。ノックもせず、乱暴な足取りで室内に入ってきたのはひとりの男だ。海のように深い青の短髪。顔に走る無数の紋様。その眼光は切れ長で鋭く、男は不機嫌な表情を隠すこともせず大きく舌打ちした。


「目覚めたか」

「アキウス、なんです。その態度は?」


 ロアンヌが彼に振り返って胡乱な視線を送る。

 アキウスは肩をすくめた。


「別に。様子を見にきただけだ。その感じだと、血の投与は成功したようだな」

「ええ。おかけで一命を取り留めることができました」

「はっ……咒民になった気分はどうだ?」

「なんだと?」


 憎々しげにゼードをじろりと見やり、アキウスは吐き捨てる。その顔には相変わらず敵意がはっきりと感じられた。人間に対する敵意そのものだ。


「その身体の紋様、不気味だろう。身体を巡る強いマナも……貴様たちが迫害してきたものに貴様はなったのだ」

「アキウス! ゼードさまは私たちを迫害などしていません! それ以上なにか言おうものなら赦しませんよ!」


 アキウスは鼻を鳴らして一蹴した。一触即発の雰囲気の中、睨みあう両者。穏やかに室内を差しこむ日差しが場違いだった。

 声をひそめ、アキウスが言い放つ。


「俺は後悔していない。首都に瘴気を放ったことをな。人間など消えてなくなればいいのだ」

「アキウス……そんなことを言いに、わざわざここまできたのですか」

「ふん。せいぜい苦しむことだな」


 彼はゼードを一瞥すると、つかつかと部屋を去っていった。ロアンヌが疲れた様子でゼードに向き直る。


「申しわけありません。根が、深いのです。ここにいるみんなは、かつて不当に世間から虐げられ、この僻地へ送られたので。ただ、強いマナを持つだけで。それだけで。アキウスも例外ではありませんから」

「大丈夫だ。ロアンヌ、俺なら……」


 押し黙るゼード。ロアンヌは強くかぶりを振り、目を閉じる。


「けれど、瘴気を放った事実は赦される行いではありません。だから私は、せめてもの償いをしたい。こんな事態になってまで和平を望むなど、きっと傲慢でしょう。ですかせめてみなさまに……聖道院の方々にだって、謝罪したい」


 そこで口を閉ざし、瞳を開けて、縋るようにゼードを見つめる。


「それも、赦されないことでしょうか」


 部屋に沈黙が満ち、彼女の言葉はその場で溶けて消えていく。

 今のゼードには持つ言葉がなかった。それが歯がゆく、また情けない思いだった。

 聖道院と咒民の確執はもうどうにもできないところまできているのだろう。互いに憎しみあう両者。ロアンヌひとりの気持ちでは、きっと今はどうすることもできない。

 憎しみと復讐は連鎖していく。シエンの顔が再び脳裏をよぎった。ゼードは唇を噛みしめる。

 ティルナ、俺はどうすればいい。俺にできることは。


「どうすればいいのか、俺にもわからん。なにが正しいのか、なにが正解なのかてんでわかんねえよ。だが、俺にはやるべきことがある。それだけは確かなんだ」


 ゼードは膝にかかったシーツを握りしめた。


「シエンを、聖道院の連中をとめる。少なくともこのままじゃ村が壊滅する。それは避けたいとこだ。だから」


 ひと呼吸置き、ゼードはロアンヌを真っすぐに見つめる。


「ひとつ、頼みがあるんだが」

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