あれからの記憶は、もはや曖昧だった。ただおぼろげに覚えているのは、身体のあちこちを殴打される感覚。腹を、胸を、手足を、顔を、鈍痛が襲う。おそらくは兵士たちだろう、彼らの罵声が遠巻きに聞こえ、口の中に血の味が広がっていく。
それに不快感を覚えながら、ゼードは虚ろな意識の中に沈んでいた。
――夢を、見ていたような気がする。
すべては過ぎ去った記憶だ。戻れない、かつての朗らかな思い出。ティルナの笑顔を見ることはもう叶わない。彼女は死んだのだから。
目尻を伝っていくそれに、ゼードは自分が泣いていることをぼんやりと察した。
ふと、目尻になにかが触れるのを感じた。まぶたをうっすらと持ちあげる。
薄暗い景色が眼前に広がった。その中に女性の顔が映っている。彼女は心配そうに眉を垂らしながら、ゼードの目尻に再び触れた。
こぼれ落ちる涙をぬぐってくれていたのは、水色の長髪を肩に流した美しい女性。
「ゼードさま。お気づきになりましたか?」
「お前は……ロアンヌ?」
ロアンヌは、横に倒れるゼードのそばに寄り添うように座っている。
彼女は神妙にうなずいた。
「はい、ロアンヌです。意識が戻ってよかった。見たところ深手は負っていないようですが、あまり動かないでください」
「どうして……お前。てか、ここは?」
意識が徐々に覚醒していく。身体に触れる床はひんやりと冷たい石造りだ。狭い一室――牢屋のようだが。張り巡らされた鉄格子の向こうで、松明の火が壁に設置されて揺れている。
ゼードは周囲を見やる。ふと脳裏に遡上してくるのは、雨打つ曇天の中で兵士に連行される光景だった。
「そっか……俺、捕まったんだっけか」
言いながら彼は身を起こした。兵士に散々殴られた全身が軋むように痛み、思わず顔をしかめる。拘束は解けていた。外套を確認する。懐に潜めていた双短剣はなくなっていた。どうやら没収されたみたいだ。
そばに座るロアンヌへ視線を移す。彼女の手には赤黒い痣ができていて、ゼードはハッとした。
「ロアンヌ、怪我してんじゃねえか。どれ、見せてみろ。頭は打ってねえか?」
こんな時でも医者の性分には逆らえない。ゼードはロアンヌの手を取り、診察する。ロアンヌは遠慮した様子で首を振るが、そんなのお構いなしだ。
ゼード同様、兵士にやられたのだろう。痣は各所にできていた。治療してやりたいが、鞄も奪われてしまった。どうにもできないのが歯がゆかった。
ロアンヌは整った眉を再び垂らす。息をつくと、その場で深々と頭をさげる。
「……申しわけありません。私は彼らをとめることができませんでした。和平と言いながら、私にはなにもできませんでした。自分の無力さが赦せない」
自分を責めるように苦々しい顔をするロアンヌに、ゼードはポツリと言う。
「瘴気のことだな」
「そうです。アキウスは仲間と結託し、首都に瘴気を放ちました。こんなこと、絶対に赦されません。無差別に人へ危害を加えるなど、とめられなかった私も同罪です」
彼女は消沈した声で続ける。
「私は、どうしたら……」
それきりロアンヌは口を閉ざし、その場を重苦しい沈黙が覆った。
ゼードは唇を噛み、囁く。
「……ティルナが死んだ」
顔をあげたロアンヌの表情がサッと凍りついた。
彼女の息をのむ音が、はっきりと牢屋に反響する。
「今のお前さんに言うのは酷かもしれねえが、瘴気にやられてな」
「そんな。ティルナさまが。本当に、申しわけ……ありません」
「なんでロアンヌが謝るんだ。悪いのは」
――悪いのは、なんだ?
アキウス……反対派の行いか? スクリエルをはじめとする、聖道院の行いか?
ゼードは言葉を失い、口をつぐむしかなかった。アキウスたちのした所業は確かに赦されない。彼らの放った瘴気が原因で大勢の人々が病に臥しているのだから。だが、その元凶が聖道院にあるという現実も理屈では理解できる。
強いマナを持つ彼らを魔物と蔑称し、追放していたのは聖道院なのだ。彼らを利用し、秘密裏に実験や秘薬の製造をしていることはスクリエルが悪びれもなく言っていたではないか。
すべては聖道院の仕打ちに咒民が耐えかねた結果なのはわかっている。だが、ティルナは咒民による瘴気に倒れた。それも、また事実だ。
そして、ロアンヌの和平を望む気持ちが、本物であることもわかっているのだ。
ゼードは苦しまぎれに笑ってみせた。
「ああ、すまん。……わっかんねえよ。頭が混乱してる。どうしていいんだか、な。誰のせいなのか、誰のせいにすればいいのか、てんでわかんねえわ」
「ゼードさま。私たちが、憎いですか」
ロアンヌが向けてくる悲痛な眼差しを受け、ゼードは目を伏せた。
「なんでそんなこと訊くんだよ。……憎くないといえば嘘になる。だが」
憎むことは簡単だとゼードは思う。でもそれではシエンやアキウスとなんら変わりがない。
シエンの顔が脳裏をよぎった。
やつら全員、殺してやる。地を這うような低い声で彼は言った。
その目は血走り、正気を失っていた。咒民への憎しみに身を焦がしたその姿は、復讐を誓った者のそれだった。アキウスたちの憎悪が連鎖を起こしているのだと、ゼードにはぼんやりと理解できる。
看過はできない。
その時だった。牢屋の前に兵士が数人、乱雑な足音とともに姿を現した。
「でろ。連行の時間だ」
「あ? おい、どこに連れてく気だ? つか、ここはどこだよ」
「ふん、じきにわかる」
兵士は冷然と言い放つだけだ。ほかの兵士が牢屋に入りこむと、乱暴にゼードとロアンヌを立たせ、拘束したまま歩かせる。
石造りの階段をのぼり、牢をでたふたりの目に飛びこんできたのは真昼の陽光だ。
その眩しさに目を細めるゼード。とっさに周囲を見回す。ここは……首都ロイナの広場か。
先日スクリエルが演説をしていたところだ。
広場には大勢の人々が押し寄せるように集まっており、ただならぬ熱気に包まれていた。兵士とともに地上にでたゼードとロアンヌを見るなり、人々の罵詈雑言が飛ぶ。
ロアンヌの顔は青ざめていた。悪趣味なものである。ゼードは気張って広場の連中に舌をだすが、連行していた兵士に脇腹を強く突かれてしまった。
そのまま設置された高台に連れていかれる。ここは以前、スクリエルが立っていた例の場所だ。今は兵士が数人ほど立ち並び、あのいけ好かない『処分屋』もそこにいた。
高台からは群衆をぐるりと見通せる。なんとなくこれから起きることを理解した。ロアンヌは唇を噛みしめて黙っている。その表情は強張っていた。
下の広場からは、依然として怒号と罵声が嵐のように飛び交っている。
兵士に後ろ手を拘束されたままのふたりに、スクリエルがほほ笑んで一歩ほど進みでる。
「お久しぶりです。また会えて嬉しいですよ。確かゼード、という名前でしたね?」
「俺は全然嬉しくねえやい」
「ふふ。まだ減らず口を叩ける余裕があるのですね。なんともたくましいことです、スラムの闇医者よ」
闇医者め! と叫ぶ声がした時、飛んできた石がゼードの額に当たった。くそ、痛い。ゼードは思いきり舌打ちしてみせた。
彼の額に一筋の鮮血が流れるのを優雅な眼差しで見やり、スクリエルは続ける。
「仲間に裏切られた気分はいかがでしょうか? 今、どんなお気持ちなのですか? 詳しく聞きたいところですね」
「やっぱ、シエンのやつが密告したんだな」
「彼も大いなる悲しみを背負った者。大切な恋人が亡くなってしまったのですから。同情いたしますよ。彼には、せめてもと復讐の機会を授けてあげました」
「――なに!?」
「おっと、お話はここまで。民衆が待ちかねているのでね。さあ、始めましょう」
すると、控えていた兵士が声高に叫ぶ。
「これから、闇医者ゼードと咒民ロアンヌの公開処刑を実施する!」
この高台はつまり、処刑台というわけだ。ゼードは苦々しく歯を噛みしめる。兵士は問答無用でゼードとロアンヌをその場に跪かせる。別の兵士がふたりの首筋に剣の刃をあてがった。
刀身の冷やりとした感触が首筋に伝わる。
「はは……マジかよ」
ゼードの背に冷や汗が伝う。ロアンヌも、じっと唇を噛みしめて耐えている様子だった。
群衆の騒ぎ声がさらに膨れあがる。「処刑だ、処刑だ!」と誰かが大きな声で叫び、それに呼応してみながこぶしを振りあげる。
まさか、ここで終わるのか。俺は。俺の人生は――
絶望に心が塗りつぶされていく。
だが、刃が振りおろされることはなかった。兵士の構えた剣はそのまま地面を転がっていったのだ。次いで兵士が悲鳴をあげて倒れこむ。その悲鳴は次々に響き渡り、後ろに控えていたほかの兵士たちも血飛沫をあげて地に伏していく。
「なんです!?」
スクリエルの驚愕した声。その時、青い氷のような刃がゼードの視界を横切った。兵士たちの間隙を縫って飛来したそれは、スクリエルの横ざまを突っ切っていく。彼の長い髪が風圧になびき、スクリエルは目を見開く。
驚いたのはゼードも同じだった。
この刃……見たことがある。ゼードはすかさず顔をあげた。
高台にひとりの男が軽々と飛び立ってきた。男は手を翻し、兵士たちに容赦なく刃の雨を降らせる。黒魔法だ。周辺にどよめきが起きる。
ロアンヌが信じられないといった様子で目を見張った。
「アキウス!?」
青髪の男――アキウスは周囲を睥睨し、大きく鼻を鳴らす。
「ふん。腐っても同胞だ。死なれては夢見が悪いからな」
「あ……」
「さっさと去るぞ。俺が道を切り開く。ついてこい。ちなみに、貴様はついでだ」
横目でゼードを見やるアキウス。ゼードは息をのみこんだ。
「アキウス……お前」
アキウスはそれ以上なにも言わず、刃を現出させながら高台をおりていく。群衆が恐れおののいたように逃げ惑い始めた。身を庇いつつ、ゼードとロアンヌはそのあとに続く。打って変わって混乱に陥った広場を一行は突き抜けていく。後ろでは、無事だった兵士が追撃に動こうとしていた。スクリエルが慌てて指示をだす声が飛ぶ。
その間にもアキウスを先頭にゼードとロアンヌは駆ける。広場を抜けると、道路の隅にとまる荷馬車の御者台から声がした。
「こっちだ! さあ早く!」
ゼードとロアンヌはアキウスとともに、考える間もなく馬車に乗りこむのだった。