彼女が危篤になったのは、それから数日後。奇しくも彼女の誕生日だった。
駆けてくる足取りがゼードの耳朶に響く。息を切らして部屋に入ってきたシエンは、寝台の上に横たわる彼女を見て叫んだ。
「ティルナッ!」
ゼードとネアが見守る中でシエンは寝台に屈みこみ、彼女の手を握る。シエンの手がはっきりと震えているのがわかった。
「ティルナ。死なないでくれ。ティルナ……君はこれから幸せになるんだ。スラムから抜けて、私と一緒に首都で暮らすんだろう? そう約束したじゃないか。だから……!」
ティルナの呼吸は弱まってきていた。室内を悲壮な沈黙が覆う。彼にかける言葉が見当たらない。もはやどうすることもできないと、ゼードもネアも半ば悟っていた。
シエンは寝台のシーツに顔をうずめる。
「私は……君がいないと、どうにもならないんだ……」
「シエン? そこにいるの」
ティルナがぼんやりとまぶたを持ちあげた。焦点の定まらない瞳が虚空をさ迷う。顔をあげたシエンは、今にも泣きそうな声で呼びかけた。
「ティルナ!」
彼はティルナの手を握りしめたまま、懐から小さな瓶を取りだした。無色の液体が入ったそれは傍目から見てもなんらかの薬なのは明らかだった。
「シエン、そりゃあ」
「聖道院からもらったものだ。これを飲めば、君は治る! また、元気になるんだよ」
ゼードはその言葉に目を見開いた。
まさか、聖道院が製造途中だという例の薬なのか? 咒民の血肉を利用した秘薬だと聞かされている。製造した薬はすべて聖道院で占有しているとのことだったはずだ。
それが、なぜ。
シエンは小瓶の蓋を開けるとティルナの口もとに持っていく。
だが、彼女はゆっくりと首を振るのだった。
「――ごめん、ね。道を、誤らない、で」
「な……ティルナ。どうして……なんで……」
愕然と目を見張るシエンにティルナが続ける。
「お願い。あなたは、光の下を歩くのが似合ってる。だから、お願いだから道を、誤らないで」
「わ、私は……」
「愛しているわ。今までも、これからも……ずっと、あなたを見守ってる」
遠くを見る彼女はその顔に微笑を浮かばせる。どこか名残惜しそうにひとつひとつ言葉を紡いでいく。
「でも、残念だなぁ……もっと、一緒にいたかったのに。そう、あなたと、ゼードと、子どもたち……ずっと、ずっと一緒に」
目尻から一筋、涙が伝っていく。瞳がゆっくりと閉じていく。呼吸が静かに引いていく。
「シエン? わたしは、ここだよ。ずっと、一緒にいる……一緒に、歩いていくの……ずっと……一緒、なんだから……」
その言葉を最後に呼吸はとまり、ティルナが目を開けることはなかった。シエンは彼女に温もりを与えるように手を握りしめ続ける。やがて、震わせた肩をそのままによろよろと立ちあがると、無言で寝台から振り返った。持っていた小瓶が落ち、その液体が床にドッと溢れだす。
シエンは重い足取りで部屋をでていこうとする。
「待て、シエン! どこに行く気だ?」
「……い……」
「なに!?」
彼の声音は小さく聞き取れなかった。訝しげに眉をひそめるゼードに、シエンはふと背を向けたまま顔だけを彼にあわせる。
その両眼は猛禽類のごとくぎらつき、ひどく血走っていた。
そんな彼の顔など、かつて見たこともなかった。
「赦さ、ない」
シエンはこぶしを強く握りしめる。
「話は聞いている。すべての元凶は咒民にあるとね。だったら私のすることはひとつだけさ」
深く息を吐きだすと、彼は静かに吐き捨てる。
「やつら全員……殺してやる」
この言葉を皮切りにシエンは部屋をでていった。ゼードはそのあとを追おうとして、寝台に眠るティルナを見やる。おそらく、こうなることがわかっていたのだろう。あの人が暴走することがあればとめて、と彼女は言っていた。自分の死をすでに理解し、それでいてシエンの安否を憂いていたのだ。
ああ、最後までティルナらしい話だ。
寝台のたもとに転がった小瓶。溢れた薬液が木床に浸潤して染みをつくっている。それを一瞥してネアは声をひそめる。
「この薬。決して、無償で譲り受けたものではないだろうね」
ゼードは苦々しく目を細めた。ネアの言うとおりだ。シエンはいったいなにと引き換えにこの薬を手に入れた?
いやな予感が胸を掠めていく。
唇を噛みしめるゼードにネアが目を伏せて言った。
「ティルナのことはアタシに任せときな。アンタは――」
「ああ、頼む。俺はシエンを追う!」
彼はうなずくと部屋を飛びだしていく。
――外は曇天が迫り、雨が降り注いでいた。小広場にシエンの姿はすでになく、代わりに周辺を包囲していたのは多数の兵士だった。
「あいつがそうか!?」
「お前だな。スラムで活動している闇医者は。即座に捕らえるのだ!」
叫ぶ声がこだまし、兵士たちはいっせいにゼードのもとへ迫ってくる。
目を見開く彼を間断なく左右から拘束した。
「ぐっ……離せ! なんだってんだよ、邪魔だッ! 今はそれどころじゃねえんだよ!」
「はは、残念だったな。密告を受けたからには捕らえねばならないからなあ」
「密告だと……!?」
ゼードは兵士の拘束を振りほどこうともがくが、数人に腕や足をがっしりと掴まれて身動きが取れない。彼らはゼードの手足を縄で縛りあげて引きずっていく。
激しく降る雨がゼードの頬を叩き、全身があっという間に濡れそぼっていった。
兵士たちの後続には幌馬車がとまっていた。馬車まで連行されたゼードは、そのまま粗暴な手つきで幌の中に押しこまれる。勢いで倒れこむ彼を無視し、兵士のひとりがにべもなく言い放った。
「行け!」
馬車が動きだす。起きあがろうとしたゼードは乱暴に動く馬車に体勢を崩して幌の中で転倒した。強く縄で縛られており、身動きも取れない。
雨が幌を打つ重い音が内部に反響する。
「くそ……!」
ゼードは奥歯を噛みしめ、絶望的な状況に顔をゆがめるのだった。