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第16話 素晴らしき日々

 スクリエルの言ったことは本当なのか。本当に病の原因は咒民が放った瘴気によるものなのか。ゼードは足早に歩き、スラムに急いでいた。外は夜の闇に包まれ、春先の冷たい空気が外套の内側に入りこんでくる。

 ドクターズギルドへ続くスラムの寂れた小広場では、新聞屋と思しき男が「号外!」と何度も叫んでいる。集まったまわりの人々に新聞を手渡していた。暗がりの中でも、人々が驚きに目を見張っているのがわかった。それに構うことなく通りすぎ、ゼードは真っすぐギルドへ帰路につく。


「お疲れ。どうだい、なにか情報は得られたかい?」


 カウンター席には例によってネアが座り、帰ってきたゼードを出迎えた。


「先生、大変なことになったぜ」


 ゼードはスクリエルの演説内容を彼女に説明した。話を聞くうちにネアの表情もだんだんと深刻なものに変わっていく。


「なるほどね。瘴気、と。それに、正式に咒民狩りか」

「このままにはできねえよ」


 即座にゼードは言い放つ。瘴気についても、咒民狩りについてもだ。ロアンヌの安否だって心配だ。事態は大きく動こうとしている。このまま指をくわえて傍観しているわけにはいかない。だが、今の自分にできることはなんだ?

 その思考を読み取ったのか、ネアは切れ長の瞳を細める。


「医者として、今はできることをするしかないね。歯がゆいけどさ」


 その言葉には答えず、ゼードはティルナの眠る部屋に向かおうとした。その背にネアが思いついたように声をかける。


「あ、ゼード。待つんだ」


 ネアはカウンター席から立ちあがると、振り返った彼の胸に小瓶を押しつける。中に透明な液体の入っている代物だ。受け取ったゼードは首をかしげる。


「これをやるよ。いざという時に使うといい」

「なんだこりゃ?」

「――まわりの連中に気をつけな」


 ネアがぴしゃりと言った。その瞳が一瞬、鋭い光を宿す。彼女は声をひそめ、いつになく真剣な顔でゼードを見据えた。


「なにやら、嗅ぎまわってるっぽいからね。アタシたちも安全じゃないってことだ」




 奥の間は寝台の近くに置かれたランプにぼんやりと照らされていた。寝台に眠るティルナのそばで、シエンが椅子に座りこんでうつむいている。近寄るゼードに気づいた様子で顔をあげた彼は、小さくため息をついた。

 その横顔はこの数日で幾分やつれたようにも見える。どこか虚ろな瞳で寝入るティルナをじっと見ていた。かなり憔悴しているみたいだ。

 ティルナは息苦しそうに浅く呼吸を繰り返している。額に滲む汗が白い頬を伝っていく。


「全然、回復しないんだ。このままでは、ティルナは」


 緩くかぶりを振ったシエンが、つぶやくように言った。


「彼らの……聖道院の力が必要だ」

「あ? なん、だと?」


 今、なんと言った?

 ゼードは眉をひそめる。


「彼らがつくっているという薬のことだ。まだ試作段階みたいだが、それを手に入れることができれば、もしかしたら……」

「シエン、ふざけんじゃねえ。冗談も大概にしろ。あれは咒民の命を犠牲にしてつくられてるものだ。そんなもんにすがる気か? お前も咒民を道具扱いするつもりなのか?」

「――奇麗ごとを言ってる場合じゃないだろう!」


 シエンは突如として椅子を蹴って立ちあがった。飛ばされた椅子が部屋の壁に当たり、大きな音を立てて転がっていく。シエンはゼードの胸倉に掴みかかっていた。その勢いに気圧されたゼードの背が後ろの棚にぶつかる。衝撃で棚からカルテや医療道具がいっせいに落ちた。

 鈍痛が背に走り、胸倉を掴まれて呼吸がとまる。優男とは思えない強い力にゼードは顔をしかめた。シエンの固く握ったこぶしが震えている。奥歯を噛みしめるように顔をゆがめ、吐き捨てるようにシエンは言った。


「このままじゃティルナはどうなる? 死者だってでているんだ。死ぬのをみすみす見ていろっていうのか、君は!」

「そんなことはひと言も言ってねえだろ! 俺だって助けたいって死ぬほど思ってる! だから突破口がないか探してきた。だが、だがな……!」


 聖道院のつくっているという薬。

 それに手をだすということは、ロアンヌを裏切ることになる。


「病院だって! 君たちの治療だって! ティルナを救えない! 私は彼女が助かればそれでいい。悪魔にだって身を売る覚悟だ!」

「――うるさいね! なんの騒ぎだい!?」


 駆けつけてきたネアは、腰に手を当ててふたりを同時に睨み据える。


「病人のそばでなにを揉めてんだい。静かにしな!」

「ネア。君も、ゼードも、役立たずだ。私は私のやりかたでティルナを助ける。たとえ倫理に反していても……」


 掴んだゼードの胸倉を振り払い、シエンはその勢いのまま部屋を飛びだしていく。

 反動で体勢を崩したゼードがその背を目で追った。


「おい、待て! どこ行く!?」


 声は室内に反響して消えていく。静まり返った中でゼードはよろよろと体勢を整えた。掴まれた首や打ちつけた背が軋んだ。外套の襟を乱暴に正し、その場で立ち尽くすしかなかった。


「ピリピリしてやがるね。気持ちはわかるけどさ。……と、水を換えてくる」


 ネアは寝台近くに置かれた水差しを手に部屋をでていく。ゼードは息をつき、床に散らばっているカルテや書類、医療器具を乱雑に棚へ戻した。それから床に倒れた椅子をティルナの寝台そばに置き、ドカッと腰かける。

 襲ってくるのは深い疲労感だ。

 いったい、どうすればいい。


「……ゼード」


 か細い声が部屋に響いた。ゼードがハッとしてティルナの顔を見ると、彼女はうっすらとまぶたを開いたところだった。白い額に一筋の汗が流れ落ちる。彼女は虚ろな瞳で、ゆっくりとゼードを見やっている。

 切れ切れに息を吐きだしながら、彼女は顔に笑みを浮かべる。


「まったく、珍しく荒れてるわね……シエンってば」

「わりぃな、うるさくして」


 ゼードはティルナの額の布を取ると、足もとに置かれたバケツの水へ浸す。その様子を目で追いながら、彼女が弱々しく声を絞りだした。


「あなたはよくやってくれてる……わよ。だから、謝らないでいいの。というか、感謝、してるんだから」


 呼吸は変わらず荒く、声をだすのも辛そうだ。熱も引くことはなく、ここ数日で容体はさらに悪くなっている。それでも彼女はゼードの顔を見て微笑を浮かべていた。一番辛いのは彼女だろうに。ふと見ていられなくなり、彼は視線を逸らした。浸した布がバケツの水に波紋を広げるのを、じっと見続けるしかなかった。


「シエンがね、心配なの」

「……心配?」

「いつの日かも……言ったわね。あの人、向こう見ずなところがあるし、思いつめやすいから。だから、実はいつも心配で」

「だな。冷静に見えて、意外と熱しやすいんだよな」


 絞った布をティルナの小さな額にそっと置いてやる。彼女は細く息を吐きだすと、ゼードを真っすぐに見て囁いた。


「あの人がもし、暴走することがあったら、とめてやってね。それができるのは……あなたしかいない」


 暴走? いったい、どういうことだろう。意味を理解しかねたゼードは問おうとするが、それよりも先にティルナが口もとをほころばせた。


「ふふ、変なの。最近、夢をよく見るの。あなたたちがいて、子どもたちも元気に遊んでいて……なんの心配もない夢。なんの不安もない夢」


 ゆっくりと目を閉じる彼女。寝台そばに置いたランプが、彼女の繊細なまつげを照らし、細く目もとに影をつくる。


「わたしの望んだ平和が……そこにはあるんだ。あなたは堂々と医者をやってる。シエンはずっとそばにいてくれる。平和な世界。わたしの、求めていた世界」


 ゼードはとっさに、シーツの上に置かれたティルナの手を握りしめた。強く握れば儚く壊れてしまいそうな、華奢な手指。ずいぶんと痩せてしまった。

 彼女の熱がゼードの手にじわりと伝わってくる。


「あなたたちと過ごした時間は、実に楽しい日々だったわ。大変なこともあったけれど、それでも……そばにあなたたちがいたから、なんとかやっていくことができたの。だから……ありがとう、ね」

「おいおい。変なこと言ってんじゃねえよ。そんな言葉、まるで……」


 まるで別れの言葉のようじゃないか――


 喉からでそうになる声を堪える。代わりに、彼女の手を握る指に力をこめた。

 そうすることしか、できなかった。

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