「へ、兵士が! 兵士たちがきたぞ!」
誰かの叫ぶ声が聞こえた。次いで、広場に無数の軍靴の音が鳴り響く。地面を叩くその音は人々の楽しげだった声を消し飛ばし、一瞬にして場を緊張に陥れた。
ゼードは即座に視線を跳ねあげる。広場の入口には十数人ほどの兵士が威圧するように立っていた。兵士たちは紫色のプレートメイルを身に着け、聖女ロイナの刺繍が施されたマントを風になびかせている。
聖道院の兵士たちだ。
兵士のひとりが剣を抜くと、その切っ先を広場の人々に向ける。
「このスラムに咒民が数人、紛れこんでいると聞いた! すぐにでてこい! さもなければ」
兵士は怒鳴ると、近くで固まっていた老人に剣を振りおろした。抵抗する間もない。老人は斜めに切り裂かれ、空間に血飛沫が舞いあがる。
「ぐああッ!」
地面に倒れた老人のまわりを血だまりが広がっていく。その一部始終を目の当たりにした人々は次の瞬間、蜘蛛の子を散らすようにその場を逃げ惑い始めた。
賑わっていた広場は、一変して混乱にのみこまれる。
「なんとしても咒民を捕らえよとのお達しだ。そのためなら手段は問わないと。さあ、でてくるのだ!」
兵士は血濡れの剣を払い、叫ぶ。後ろに控えていた兵士たちも呼応して武器を抜き放った。
ゼードはすっくと立ちあがり、老人のもとへ走る。
だが、老人がすでに事切れているのは一目瞭然だった。苦々しく表情をゆがめ、ゼードは顔をあげる。このままでは兵士によって大勢の人が傷つく。黙っているわけにはいかない。
「――くそッ!」
兵士のもとへ足を踏みだした彼の腕を、ティルナが途端につかむ。
「ゼード! 待って!」
「離せ、ティルナ! こんなこと赦されねえ! 追っ払ってやる!」
「だけど!」
わかっている。下手に兵士と接触して、ゼードが闇医者だとバレてしまうことを怖れているのだろう。だが、連中をなんとかしなければ。この場の人々が傷つくのは時間の問題だ。
するとゼードはハッとして上空を見やった。空には大きく黒煙が立ちのぼっている。赤く染まる空は、夕日だけの影響ではないことを煙が物語っていた。
微風に乗り、焦げつくような臭いが鼻を突く。
「火が! 火の手があがってる!」
周囲の者たちが騒然とする。煙は瞬く間にあちこちの方角からうねり、人々の顔を強ばらせた。それはティルナも同じだった。息をのみこみ、彼女は西の空を見あげた。
「あっちの方角、孤児院が……!」
愕然とするティルナに、ゼードは即座にうなずいて彼女の肩を叩く。
「ガキどもの安否が心配だ。すぐに行け」
「でも」
「心配すんな。ここは俺がなんとかする」
ティルナは唇を噛みしめ、両手をぎゅっと握りしめた。熱を伴った風が彼女の緩やかな金髪を揺らす。同様に揺れていた瞳が、ゼードを見て決意の色を宿した。
「ごめんなさい!」
逃げ惑う人々に混じり、彼女はその場を駆けだしていく。それを見送ったあと、ゼードは苦々しく舌打ちを漏らした。広場は悲鳴と怒号に包まれている。兵士たちが得物を手に広場の捜索を始めていた。露店に並んだ織物や食べ物を無情にも荒らし、即席の屋根を破壊し、軒を連ねる店を蹂躙していく。
「……まさか、もう気づかれたのかよ」
ロアンヌがこのスラムに潜伏していることをだ。小声でつぶやいたゼードに、そばへ寄ったロアンヌが首を振る。
「ゼードさま。違います。あの兵士は先ほど、咒民が『数人』と言いました。きっとアキウスたちがここにきているのです!」
彼女はまわりを窺い、緊張した声をひそめる。
「アキウスを見つけねば。彼をとめねばなりません。私は――」
その時、まるで地震のごとく地面が揺れ動いた。あたり一帯が激しく鳴動し、逃げ惑っていた人々が思わずその場でよろけて立ちどまる。それは兵士の連中も同じだった。彼らは驚いた様子で周囲をとっさに見やっている。
なんだ、これは。ゼードは揺れる視界に吐き気を催しながら、今なお続く波のような感覚に顔をしかめた。兵士たちがなにかしたのか? いや、彼らの態度からして違う。では、いったいこれはなんだ?
ロアンヌが空を仰ぎ、なにかに気づいたのか驚愕に目を見開いていた。
「これは、マナの波動……!? まさか」
マナ、だと? 突発的にいやな予感が襲ってくる。眉をひそめるゼードに視線を移し、彼女は口早に言い放った。
「ゼードさま。ここら一帯で一番、見晴らしのいい丘はどこですか!?」
「……南の高台だ。スラムだけじゃなく、首都も遠目に一望できるが……」
なぜ、そんなことを訊くのか。尋ねようとした彼の声は、ロアンヌの緊迫した囁きに掻き消される。
「アキウスたちのしようとしている行いがあれだとすれば……あれだけは、あれだけは決して行ってはいけない!」
状況が理解できず、困惑するゼード。彼女は懇願するように叫んだ。
「そこへお連れください、ゼードさま!」
「わかった。こっちだ!」
彼女はこの事態を少なからず把握しているみたいだ。だったら手を貸すべきだろう。地揺れが収まり、人々が再び兵士から逃げるただ中で、ゼードたちは人を掻きわけて広場を南下していくのだった。
☆
なだらかな丘を駆け抜け、スラム南の高台までふたりはやってくる。そこからは狭いスラム全体を一望できた。初春の風に吹かれるスラムは相変わらず貧しく、寒々しい様相を呈している。今にも吹き飛びそうな掘っ立て小屋。林立するトタン屋根の民家。あちこちに廃品の連なる、舗装されていない道。まばらに点在する錆びた鉄塔。
それらが今は火の手に包まれ、四方八方に黒煙が立ちのぼっている。
高台の脇には墓地があり、また西に視線を向けると首都の建築物がおぼろに見える。首都中央にそびえる時計塔が、ここからでも威風堂々と建っていた。
高台の奥には先客がいた。外套に身を包んだ彼らはこちらに背を向け、一様に手を上空へかざしている。そのうちのひとりは、鮮やかな青髪を風になびかせた痩身の青年だ。
「やめなさい! そのマナを解放すれば――ッ」
ロアンヌが叫び、駆け寄らんとした時。空間が再びうねるように揺れ、ゼードとロアンヌは地面に膝をつく。ビリビリと肌を焼く感覚に彼は顔をゆがめた。いったい、なにが起きているというのだ? 空気が震えているのがわかる。地震とはまた違うもののようだ。
ゼードは訝しげに彼らへ目をやる。
アキウスは振り返った。
暗い笑みをその顔に浮かべて。
「お楽しみだな、人間ども」
「アキウスッ!」
ロアンヌはアキウスに寄ると、思いきり彼の頬を平手打ちする。鋭い音が高台に響いた。
アキウスは唇の端に血を滲ませながら、それでも不敵に笑っている。
「――自分の行いが、わかっているのですか?」
彼女の様子は明らかに必死だ。なにがどうなっている。アキウスはなにをしたのだ? ゼードは剣呑な雰囲気で対峙しあうふたりに困惑した。
アキウスはうなずき、眼下に広がるスラム街を見おろす。
「俺たちの役目は終わりだ。あとは高みの見物といこうか。貴様たちもいずれは――くく、楽しみだよ」
それから鼻を鳴らし、彼は周囲に鋭く目線を送る。
「さて、帰らせてもらうか。ここにいては兵士に捕まる。ロアンヌ、貴様もまだ死にたくはないだろう。死にたくなければ俺たちとくるのだな」
「お断りします。あなたと一緒にしないでください」
「ふん、相変わらず愚かな女だ」
その言葉にあわせるようにゼードたちの後ろからやかましい軍靴の音が響き渡った。聖道院の兵士たちは、アキウスらの姿を見ると武器を構え、間髪入れず突撃してくる。
「顔の紋様! いたぞ、スクリエルさまから殺せとのお達しだ。行け!」
揃って咒民たちに肉薄する兵士を、アキウスは疎ましげに睥睨した。彼が手を振り払うと空間がわずか震え、なにもない中空に青い刃が出現する。その黒魔法に驚き、動きをとめた兵士たちに、凶刃が容赦なく飛来した。
盾ごと肉を切り裂かれ、彼らは悲鳴をあげてその場に倒れこむ。後続の兵士が怯みを見せた。その隙をつき、アキウスたちは兵士の包囲を掻い潜って高台から走り去っていった。