それから数日が経ち、季節が春の空気をまとってきたころ。
ゼードはロアンヌとともにアキウス捜索に動いていた。とりあえずできることは、スラムでの聞きこみ調査くらいである。ゼードは自身が描いた似顔絵をスラムの通行人に見せ、この人物に見覚えはないかと訊いて回っていく。
結果は芳しくなかった。というか、怪訝な顔をされて素通りされるだけだった。
白昼の陽光が穏やかにスラムへ差しこんでいる。林立するバラックの屋根を白く照らし、合間に生える草木は春を知らせるように茂り始めている。
そろそろ歩き疲れただろ、とゼードは廃材の山にいったん腰をおろした。となりに座ったロアンヌが申しわけなさそうに頭をさげる。
「すみません、ゼードさま。ずっと付きあわせてしまっていますね」
咒民だと発覚するわけにはいかないため、彼女はネアから借り受けた外套のフードを目深に被っていた。表情は見えないものの、神妙な面立ちでいることは想像でわかる。
「あの男をこのままにはできねえだろ? 早く見つけたいとこだな」
ロアンヌは顔を上へ向ける。露わになった白く細い顎が日の光に反射して輝いた。彼女は小さく吐息をつくと苦々しげに続ける。
「アキウスは人に復讐するため、あの駐屯村を襲いました。きっとそう遠くない日に、人にとってよくないことを起こすはず。ですが、それがなんなのか。アキウスは咒民の村にいた時からなにかを準備していました。それがわかっていればよかったのですが」
「わからんことは考えても仕方ねえよ。とりあえず、今できることをするっきゃない。そうだ、首都にも聞きこみに行ってみるかな。俺とシエンで捜索してみる」
川の検閲所で使用する許可証の期限はまだ一か月ある。首都ならば、スラムよりは情報を得ることができそうだが。酒場に潜んでいる情報屋に話を聞くのもよいだろう。金はかかるが仕方ない。
アキウスの企みがなんなのか知る由もないが、事態が起きる前に見つけだしたいところだ。
ロアンヌは力なく頭をさげる。フードから水色の真っすぐな髪が垂れさがった。
「……すみません」
「あーもう。謝んなくていいって! とりあえず笑っとけ!」
「笑う、ですか?」
「笑ってりゃなんとかなるさ。ま、強面の俺に言われても説得力ねえかも」
「それは……ふふ」
「待て待て、俺の顔で笑うのはなしだ。あ、そうそう。今日は広場にキャラバンきてんだよ。あいつももう少しでくるはずだが」
「あいつ、ですか? それは――」
ロアンヌが首をかしげた時、はつらつとした声がその場に響いた。
「あ、いたいた! ゼード、お待たせ!」
点在する民家の間を縫うようにティルナが手を振って走ってくる。彼女はふたりのもとに着くと、息をあげながらも楽しそうな笑顔を浮かべる。ゼードのとなりに座るロアンヌを見て、彼女はさらに顔を輝かせた。
「あ、このかたが以前言ってた人?」
ゼードが紹介しようとすると、ティルナは彼の言葉を待たずにロアンヌへ向き直る。
「はじめまして! わたし、ティルナっていうの。ゼードの友人よ」
「あ、はい……」
ロアンヌはやや圧倒された様子だ。迷うような素振りのあと、廃材から立ちあがり、礼儀正しく一礼する。
「私はロアンヌと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「ロアンヌさんね! ねえねえ、ロアンヌって呼んでもいい?」
「え? はい、その……」
どうしていいかわからないのか、ロアンヌがしどろもどろに言葉を濁す。ティルナはそんな彼女などお構いなしで距離を詰めてくる。
「わたしたちね、歳が近いと思うのよ。だから仲良くしてね。よし、じゃあ早速だけど行きましょ! キャラバンはもうとっくにきてるんだから!」
言うが早いか、彼女は肩口の金髪を揺らして歩きだす。
まるで小さな嵐のようだとゼードは思うのだった。
キャラバンによる露店は、スラム街の中心部にある広場で行われていた。行き場を失った鉄くずや木片、あらゆる廃材が山となって散らばる寂れた場所だ。途中で建設をやめた鉄塔がそばに建っていることから、スラムの子どもたちが登ったり隠れたりなどの遊び場にしているという。無論、大人には内緒でだ。スラムでも、より荒廃した場所のひとつといっていい。
それが今はどうだ。キャラバンの者たちによるものだろうか。廃材は整理され、広場は多くの人々が行きかうことのできる場所に変わっている。つくりかけの鉄塔には色とりどりの旗が微風に揺れていた。即席でできた屋台や店が広場のあちこちに軒を連ねている。見目麗しい色合いの織物や、食べ物を焼く煙が立ちのぼっているのが遠目からでもわかった。
広場は人々で溢れていた。まるでちょっとした祭りのようだ。
ゼードのとなりでティルナが子どものように目を輝かせていた。彼女のそばを歩くロアンヌは、大勢の人々に圧倒されたのか露わになった口をポカンと開けている。
「これは……すごい人の数ですね」
「ね、すごいわね! さあさあ、見て回りましょう!」
意気揚々と歩きだすティルナに、ゼードとロアンヌが続く。
「――あ! これって!?」
ティルナはすぐに屋台のひとつを前にして立ちどまった。串焼きを売っている屋台だ。湯気と煙をあげて様々な種類の串焼きが網の上に並んでいる。主に肉や野菜だが、ティルナが目に留めたのはスラムでは滅多に見ることのない海産物だった。
「これ、トレイユで有名な食べ物よね? 確か、えーと」
彼女が注目しているのは、白い身に茶色のタレと焦げ目がついた香ばしそうなそれだ。
考えこむティルナにゼードはうなずく。
「これはイカだぞ。俺の親父もよく仕入れてたっけ」
「そうそう、それ! こんなところでお目にかかるなんて」
「すみません、トレイユとは?」
ロアンヌが真面目に挙手をして質問してくる。
「ええ。東の港町のことよ」
ティルナは両手をあわせ、想いを馳せるように言う。
「ゼードの故郷でもあるの。そうそう、ゼードとはトレイユで出会ったのよね。わたしがずっと昔、母さんとトレイユに出稼ぎへ行った時だったわ。この人ってば裏町の連中とつるんで悪いことばかりしていたんだから。わたしもあの時、ゼードたちに絡まれて――」
そこで彼女はハッと我に返り、慌てて首を振った。
「と、今はそんな話なんていいわね。せっかくだし、これ買いましょう?」
ティルナは元気にイカ焼きを三つ注文すると、ゼードとロアンヌにひとつずつ配った。串焼きを手にキャラバンの露店を見て回る三人。あたりは大勢の人々で溢れ、明るく賑やかだ。活気に満ち、様々な香辛料の匂いと声に包まれていた。兵士が駆け回っているいつものスラムとは大違いだ。
広場を晴天が覆うように広がっている。柔らかな初春の日差しは絶好の祭り日和である。
それからも各店舗を一通り回った三人は、休憩のため即席でつくられたベンチに腰かけることにした。曇りなく青かった空には、夕焼け色が混じりつつある。
色々と見ているうちに、ずいぶんと時間が経ってしまったらしい。
ゼードの横に座り、ティルナは両腕をあげて伸びをした。
「あ~、楽しかった。こんな機会は滅多にないわねえ。ロアンヌもどう? 楽しめたかしら」
「そうですね。できるなら、村のみんなもこのような生活に戻れたらいいのに、と思います」
「そう、ね。話はゼードやシエンから聞いてるわよ」
ティルナは神妙な顔をする。
「あなたたちは聖道院の連中に狙われて……」
気まずい雰囲気が流れ、となりあう両者は沈黙した。それを先に破ったのはロアンヌのほうで、彼女はティルナに向かいあうとふと口もとに優しい笑みを浮かべる。
「それよりも、先ほどの話。続きを聞かせてもらえませんか?」
「え? 先ほどって?」
「トレイユの話です。ゼードさまと初めて会った場所だとか」
ああ、と得心した様子でティルナはうなずき、苦笑いした。
「もう十年以上も前よ、ゼードと出会ったのは。この人ってば、そのころ裏町のならず者たちに混じって悪さしていてね。実家の商売も手伝わず、喧嘩ばかりしてたのよ」
遠い記憶を思いだすようにティルナは目を細める。
夕刻時になると人の波も落ち着きつつあった。ところどころで店じまいをする露店もでてきている。即席でつくった店の屋根に西日が反射し、ゼードたちを赤く染めていた。
「なあ、聞いてくれよロアンヌ。ティルナのやつ、裏町にくるや否や、いきなり俺のことぶっ飛ばしたんだぜ?」
「えっ?」
ゼードは商家の生まれだ。小国東方の港町トレイユで、海産物を主に取り扱う貧乏な店の息子だった。幼いころはそれがいやで仕方なかったっけ。手伝いもせず、毎日のように店を飛びだしては裏町で悶々とした日々を送っていたのを覚えている。
そんなゼードのもとに、ある日ティルナが現れたのだ。
「い、意外です。こんな華奢に見えるのに、たくましいのですね」
「ちょっと待って、ゼード! 余計なことを言わないで」
ティルナがゼードの肩を軽く叩いてくる。
その顔は不満げに膨れていた。
「本当のことだろ? 俺ら全員を蹴り技で倒したのはよ。あれはもう神がかり的な所業だったぜ。いや、神そのものと言っていい」
「そ、それは……だいたい、倒したっていうか、軽く遊んであげただけよ?」
「その発言がもう怖えよ」
ゼードは遠い目をする。だが、コテンパンにやられて目が覚めたのは事実だった。彼女の手を取り、悪党から足を洗ったあの瞬間。彼女に誘われて一緒に首都学院の門をくぐることになった。あの出会いは、すべての始まりだったのかもしれない。
ティルナが観念した態度で深くため息をつく。
「でもその時、ゼードは強いって思ったの。だったら裏町でくすぶってるなんてもったいないでしょ。国のためにその力を使ったほうがいいと思ったの。その時、はね」
一呼吸を置くと、ティルナは赤く染まる空を見あげ、どこか憂いをこめて言う。
「でも、今の聖道院には疑問が残るわ。だって――」
その刹那だった。
突然、広場に悲鳴が響き渡ったのは。