「おや、これまた別嬪さんを連れてきたね」
ネアは意外そうに整った眉をつりあげ、ゼードの背後で控えるロアンヌを見やった。それから彼に視線を移すと、探るような目でまじまじと凝視してくる。
「どういう風の吹き回しだい? アンタが女性と帰ってくるなんて。まさか、攫ってきたとか言うんじゃないだろうね」
「先生、俺のこの善良な顔を見ろ。俺がそんなことする悪党に見えるか?」
「ああ、見えるね」
「即答とかさあ……相変わらずひでえ師匠だよ……」
スラム南近郊の地下にあるドクターズギルド。そのアジトに、ゼードとロアンヌは足を運んでいた。ここはネアとゼード、そのほか少数以外に知る者のいないところだ。隠れ蓑としては絶好の場所だろう。途中、首都とスラムを分かつ川の検閲所でひと悶着あるかと思ったが、スラムに流入する人間には特に興味がないらしい――兵士たちは、ゼードが貸した外套で顔を隠すロアンヌをとめることもなかった。乞食や犯罪者、貧しい者たち。似たような身なりの人間があとを絶たないからだろうか。ゼードたちは無事にスラムへ戻ることができた。スラムに入るなり、シエンは次の仕事を探すといって別行動となった。
薄暗い室内は相変わらず煙で白くぼやけている。煙草をやめる気はまったくないらしい。部屋の右にあるカウンター席には、例によって灰皿に山盛りの吸い殻が残されているし、室内は煙のつんとした臭いが充満している。
ゼードはロアンヌに顔を向けた。彼女はどこか不安そうに室内を眺めている。無理もない、と思う。今までずっと北の渓谷にあるという村に閉じこめられていたのだから。それがこうして外にでて、しかもやってきたのは治安が悪く狭いスラム街だ。しかも地下の謎めいた空間に案内されている。
医療器具のたくさん収まっている棚が部屋の左側を占めていた。医療机の上には救急箱が置かれており、ロアンヌはどこか複雑そうな顔でそれらを見やっていた。
「で? さっさと本題に入ってくれないかね。アタシは煙草を吸うので忙しいんだ」
「お願いがある。こいつをちょっと匿ってくれ」
「……匿う、ね。わけあり女かい」
「本人を前にその言いかたはどうかと思うぜ」
思わず難しい顔をするゼードにネアは闊達に笑う。
「あはは。冗談だよ。でも、似たようなもんだろう?」
「あ、あの。私はロアンヌと申します。よろしくお願いします」
礼儀正しくネアに一礼するロアンヌ。顔をあげた彼女の頬が、天井をぼんやりと照らす照明で浮き彫りになる。彼女の頬を走る青黒い紋様にネアも気づいているだろう。
「ま、わけありもわけありの物件だ。ロアンヌは咒民なんだ。先生も知ってるだろ?」
「さあ?」
「おい、先生……」
「別にアタシはこの国の出身じゃないからね。この国の事情にもさして興味はない。咒民とかなんとかってのもよく知らないけど。ま、匿うくらいならできるよ」
「え、いいのか?」
事情の説明も聞かずに承諾するとは。器が大きいというか、なんというかだ。まあ、それがネア先生でもあるのだが。
「その代わりと言っちゃなんだが、アンタが留守の間に仕事が山積みだよ。アタシひとりじゃ手に負えない。とっとと片づけてきな」
「ああ。じゃ、いったん頼むぜ」
ゼードはロアンヌに目を向ける。
「ロアンヌ、アキウス捜索は仕事が終わってからだ。少し待てるか?」
「ゼードさま……はい、よろしくお願いします」
「ま、突然の長旅で疲れただろ? 俺の隠し部屋でよければ使ってくれ。こっちだ」
ゼードは部屋の奥へ進んでいく。奥の間には扉のない小部屋があり、そこにも医療道具やカルテなど資料の詰まった棚があった。彼の仕事部屋だ。古びた木机が壁に沿って設置され、反対側には小さめの診察台が置いてある。一応、寝ることはできる代物だ。
棚から溢れた資料の紙束が、むきだしの木床に雑然と転がっている。
ゼードはそれらを雑に避けつつ、ロアンヌに振り返って苦笑した。
「わりぃな、汚くて。色々とそのまんまだわ。我慢してくれ」
「そんな。なにからなにまで、なんとお礼を言ってよいか」
ゼードは肩にかけた革鞄を机に置くと、棚のカルテを漁る。数日前に診察した患者は貧血症状のある老人だったか。また再診に行かねばならない。今も彼の診察を待っている患者はたくさんいるだろう。
その様子を見て、ロアンヌは控えめな声音で尋ねた。
「ゼードさま。お仕事というのは、やはりお医者さまとしての?」
「ん、そうだぜ。一年前からここを拠点にやってんだ」
「……ご立派ですね」
聖道院が運営する病院は小国の都市各地にある。そこでは聖道院に所属する医者たちが医魔法での治療を行っていた。ただ治療費は高額であり、スラムに住む貧困層が行ける場所ではない。そこでゼードやネアはスラムに潜み、病院に行けぬ者たちにできる限りの医療を提供している。
「まあ、そうだな。このスラムや辺境の町じゃ、病院に行けず苦しむ連中も多い。俺の弟だってそうだったし」
「弟さんがいたのですね」
「ああ。死んだがな。流行り病であっという間に天国さ」
「あ……」
ロアンヌが気まずそうにうつむいた。ゼードの視線は机の上に飾られた写真立てに移る。写真立ても、中の写真もすでに年季が入って色あせていた。当時の撮影機に向かってはにかんだ笑みを浮かべるのは、ゼードと同じ赤髪の小柄な少年だ。歳はその時で十三だったか。ゼードが首都学院の医魔法科に入学した年度でもあり、よく覚えている。
今でも弟のことを思いだすと、柄にもなく胸が絞めつけられる。深い悔恨が津波のごとく襲ってくるのだ。
ゼードが医魔法を扱うことができれば、助けられた命だった。実際はなにもできず見殺しにしたといっていい。それが結果であり、事実だ。薄くなっていく呼吸の音を聞いていることしかできなかった。すべてはゼードに医魔法を扱うためのマナが、力がなかったせいだ。
寝台の上、弱々しく咳きこむ小さな弟の姿が脳裏によみがえる。助けなければ、と思った。あの時はただ必死だった。必死に詠唱をし続けた。弱ったその身に手を当てて、身体から消えかかる生命の渦を回復させようと必死だった。
『お兄ちゃん、もういい……』
その声を忘れるはずもない。今も耳朶に残り続けている。
――弟のような存在を減らしたい。偶然にも酒場でネアに出会ったのはこの時である。そして『医術』を知ったゼードは決意する。聖道院に目をつけられようとも、あんな思いはもうしたくない。誰にもさせたくないと強く感じたのだ。
両親もその時を境に裏切ることになった。両親はゼードに聖道院の医者となることを期待していたのだから。辺境の町での貧しい生活の中、なけなしの金で首都学院の医魔法科に入れてくれた彼らの期待に応えることはついにできなかった。
それで両親との関係が断絶しようとも、ゼードの決意は変わらなかった。
大切な人をこれから守っていくためならば。
「……私にも」
ゼードのそばに立ちながらロアンヌがふと囁いた。
「私にも大切な人がいました。その子は自らの命も省みず、私を助けだそうとしてくれたことがあったのです」
記憶を思いだしているのだろう。彼女は遠い目をする。それからハッとしてゼードを見た。
「あ、すみません。つい自分語りをしてしまうところでした」
「別に構わねえよ。お前さん、苦労してそうだしな。聞かせてくれよ」
「……私はもともと、宿場町マドアの町娘でして。幼いころより身体には奇特な紋様が現れていて、周囲から疎まれていました。でも、そんな私に差別なく接してくれる少年が、ひとりだけいたのです」
彼女は目を細めた。少年と触れあった当時を振り返るようにだ。ゼードにその光景はわからない。ただロアンヌは慈しむように唇をほころばせていた。
「私が咒民として北の流刑地に送られる時、その子だけは必死に庇ってくれました。そして、聖道院への反逆だとして、その子は私の目の前で殺されました」
そこで言葉を切ると、ロアンヌは真っすぐにゼードを見る。金色の透き通った瞳には強い意志の光が宿っている。少なくとも彼はそう感じた。悲しみの先にある、決意の眼差しだ。
「確かに絶望はしました。でも、やがて思ったのです。あの子は私を最後まで差別せず信じてくれた。だから私も憎しみに囚われず、咒民として人間がたにできることがあるのではと」
「それが和平ってやつか?」
「ええ。あの子のおかげで私はなにかを憎まずに済んでいる。こうして和平の道を模索したいと思えるのです」
「そうか。お前さん、いい女だな」
「え!? ええと……」
ロアンヌは真っすぐな女性だ。出会ってから短い期間ながらもそれだけはわかる。彼女の言葉に嘘はなく、どこまでも真摯に生きていると実感する。劣悪な差別を受けてこようとも、彼女の瞳に宿る光は濁らない。そんな彼女を追放、まして道具扱いするなど、聖道院の行いを赦せるはずもない。
彼女の想いに触れて、かつては咒民を魔物だと信じこんでいた己を恥じる気持ちになる。
彼女たちは、れっきとした人間だ。
ロアンヌに向けて、ゼードは屈託なく笑う。
「お前さんならできるさ。きっとな」
ロアンヌは軽く目を見張っていた。暗がりの中で、その頬が朱に染まっていることにゼードが気づくことはなかった。