全身を持っていかれそうなほどに強く吹いた風は、氷の剣の軌道を逸らしていた。剣はゼードの横を掠め、後ろの樹木に当たり轟音を響かせる。その衝撃で地震のような揺れが村の地面を襲った。
思わず屈みこんだゼードは吹きすさぶ強風の中でハッと顔をあげる。いったい、なにが起きたのだ? 事態を確認しようと手を顔で庇いつつ、あたりを見回した。となりに立ったシエンが呆気に取られた様子で前方を見ている。自然、ゼードもそちらに視線を向けた。
「――お前は!?」
呆然と叫ぶ。前方――男と対峙するように、女性がゼードに背を向けて立っていたのだ。強く吹く風が彼女の真っすぐな長髪をさらさらと揺らす。陽光に反射して輝く美しい湖畔のような水色の髪。頭頂部で結わえ、背中に流している。身につけるのはスリットの入った白のロングドレスだ。彼女は振り返り、ゼードをその金色の双眸で見つめてくる。
陶器のごとく白い顔には、男と同じような紋様が刻まれていた。
「お怪我はないですか?」
凛とした声音。ゼードがなにか答えるより先に女性は向き直り、相対する男に顔を向けた。
「アキウス。こんなことはやめなさい。いったい、なにを考えているのです? たとえこの場で彼らを傷つけたとて、なんの解決にもなりはしません」
アキウス。そう呼ばれた男は、女性を忌々しげな眼光で睨んでいる。
両者は互いにけん制しあうように視線を交錯させる。まわりを囲う残りの兵士たちは動揺と困惑でその場を動けないでいる。それはほかの咒民たちも例外ではなく、予想外の展開に顔を強ばらせていた。
「愚か者が。人間などを庇うとは」
「引きなさい、アキウス」
吐き捨てるアキウスにぴしゃりと女性は言い放つ。
「こんなこと、私は認めません。確かに人間は私たちを迫害してきた。けれど、ここで復讐に走っても誰も報われません」
「……問答は不要だ。俺には成すべきことがある。邪魔をするなら跳ねのけるだけ」
彼は女性に向けて手を払う。例によって氷の刃が手の内から放出し、彼女めがけて弧を描く。
女性はドレスの裾を翻し、後ろにステップを踏んで回避した。
「アキウスッ! 待ちなさい!」
アキウスと咒民たちは女性の隙をついて走り抜けていく。彼らの前に現れる増援の兵士。だが、アキウスが行使する黒魔法が盾をすり抜け、容赦なく兵士の肢体を切り裂く。
村の襲撃が目的ではなかったのか? 村の入口へと突き進む彼らの姿は次第に小さくなり、見えなくなっていった。あるいは、北の流刑地からの脱出が目的だったのか?
ゼードとシエンの後ろで成りゆきを静観していたフードの青年が得心したようにうなずく。
「……村をでたところで、どうするつもりなのでしょうね。私たちからは逃げられないというのに。それにしても」
青年はどこか楽しげに女性へ顔を向ける。低く忍び笑いをした。
「これは傑作ですね。咒民は人間を憎んでいると聞いていましたが。まさか、人間を庇う咒民が存在するとは」
咒民――やはり、彼女も咒民なのか。ゼードは思わずシエンと目をあわせた。シエンはわけがわからない、というふうに緩くかぶりを振る。
女性は青年にゆっくりと向き直った。その動きにあわせ、周辺にいた兵士たちがとっさに彼女を取り囲む。距離を取って無数の切っ先が彼女に突きつけられる。
硬い表情で周囲を見回し、女性は青年に視線を戻す。
「私はロアンヌ・マウスリンと申します。仲間の非礼をお許しください」
ロアンヌは、深々と頭をさげた。
青年が意外そうな調子で口を開く。
「ほう、謝るのですね。私たち人間はあなたがたを追放し、魔物だと世間に流布してさえいるのですよ。敵、といってもいいのでは?」
「私は……あなたたちとの和平を望む者です。確かに、あなたたちの行いは私たちにとって赦されないことかもしれません。ですが私は、憎しむだけではなにも解決しないと思っています。できるなら、双方の誤解を取り去り、手を取りあいたい。そう思っています」
「和解、ですか」
うなずき、考えるように露わになった顎へ手を当てる青年。ロアンヌは無数の切っ先を気にもせず、彼に一歩近づいた。
「私たちはきっと共存できるはずです。もともと、医魔法と黒魔法は同じ力の源泉――マナを使うもの。違いはそのマナの強さと扱いだけです。確かに私たちは……普通の人間とは違う。力の使いかたを誤ればアキウスのように人を傷つける。身体に持つ紋様を、不気味だと言われるのも仕方ないとも思います。ですが、それだけです。それ以外は、あなたたち人となんら違いはないのです!」
状況が把握できない中、彼女の言葉だけが村の広場へ悲痛に響いた。
再びロアンヌが深々と頭をさげる。
「お願いいたします。私たちを、どうか――」
青年が声をあげて笑ったのはその時だった。とっさに顔をあげた彼女はその嘲笑に顔を強ばらせる。ふたりのやり取りを見ていたゼードは、場が凍りつくのを感じた。
青年は鼻を鳴らしたあと、至って穏やかな口調で言った。
「まさか、あなたがたは自分たちが人間……だと思っているのですね。いいですか、咒民は人間ではない」
ロアンヌの顔がサッと蒼白になる。青年はため息をつくと、やれやれと首を振ってみせた。
「咒民はこの小国にとっての異物。そして私たち聖道院に『使われる』だけの実験動物です。それを和平とは勘違いも甚だしいですね。同等の立場にいるとお思いですか? キャラバン隊を通して最低限の生活をさせているのです。感謝していただかなければ。まあ、それも『使用』するまでですけれど」
彼女は口を開きかけたが、声がでてくることはなかった。絶句する彼女に、青年は深く被ったフードをゆっくりと肩へおろしてみせる。露わになった顔は透けるように白く、切れ長の黒い瞳が真っすぐにロアンヌを見据えた。
スッと通った鼻筋に形のよい薄い唇。長い黒髪は艶やかで、女性にも見える秀麗な見目をしている。彼は繊細に編みこまれた金色の頭飾りを正すよう触れると、よく通る声で言い放つ。
「私は聖道院幹部のひとり。『処分屋』のスクリエル・ノア」
ゼードのとなりでシエンが目を見開く。驚いたのはゼードも同じだった。
スクリエル、という人物が幹部のひとりであることは周知の事実だ。こうして実際に姿を見るのは初めてのことだが。スクリエルといえば、この小国で知らない者はいない。かつて奇病から小国を救った聖女ロイナの親縁・ノア家の末弟だ。二十年近く前、現聖道院最高顧問から勅令を受け、九歳にして幹部となった青年である。
まさか依頼主が、この国の医療と政を司るトップのひとりだったとは驚きだ。
「ちょうどいいです。咒民の血肉がほしかったところだったので。やりなさい」
破顔したスクリエルは顎をしゃくった。兵士が慌てて肉薄する。その槍の切っ先がロアンヌを捉えた時、ゼードはとっさに動いていた。兵士たちの間を縫うように割りこみ、彼女の前に立ち塞がっていたのだ。兵士が突きだした槍を双短剣で叩きつけ、攻撃の軌道を逸らす。
アキウスによって裂かれた身体の傷からは血が流れ続けている。今は痛みを感じている暇はなかった。ゼードは短剣を逆手に構え、兵士たちを苦々しく見やる。
「な、なにをしているんだ。ゼード!」
愕然とするシエンのそばで、スクリエルが感心した様子で言う。
「どういうつもりです? 傭兵よ」
柔和な問いの中にかすかな鋭さが混じっていた。驚いているのはゼードの後ろにいるロアンヌも同様であり、彼女ははっきりと息をのんでいた。
「あ、あなたは……どうして」
「あー、わっかんねえよ。なんか、身体が勝手に動いちまった。けっ……どうするかね」
先ほど、アキウスの攻撃を彼女が庇ってくれなければ死んでいただろう。それに。
彼女たちのことを忌々しい魔物とはどうしても思えなかった。黒魔法を使うとはいえ、どう見ても人間にしか見えない。
それを、魔物だなどと。
聖道院は嘘をついていたことになる。
スクリエルは目を眇め、一転して冷ややかな声音で言う。
「……私たちと敵対しますか、愚かな」
「おい、とりあえずふたつ疑問がある」
ゼードはスクリエルを真っすぐに見据えた。
「こいつらが聖道院に『使われる』だけの実験動物ってのはどういう意味だ? それに……咒民は魔物じゃなかったのかよ。これじゃ想像と違う」
「そのままの意味ですが。咒民は実験に使うためのただの道具です」
「なんだよ、実験って。気味悪いこと言いやがる」
「彼らの身体に秘められた強いマナは、使いかた次第では『秘薬』になる可能性があります。もしかしたらあらゆる病気を治す特効薬になるかもしれません。それはこの国の医療の発展にもつながります。だから私たちは定期的に咒民を捕らえ、殺し――」
「実験台にしてるってのか?」
片手をあげたスクリエルが悪びれた様子もなく微笑む。
「そうです。すべてはこれからの聖道院のためです。咒民は忌避すべき対象ですが、使いようもあるということですね」
使いよう。その言葉がゼードの胸の奥に嫌悪感にも似た感情を抱かせる。医療の発展のためとはいえ、無実の者たちを犠牲にしている聖道院の行い。魔物とあだ名し、咒民をマウス扱いしている所業。
アキウスの怒りはもっともなのではないか、そう感じるほどだ。
……というか、単純に胸糞が悪い。
「邪魔をするなら容赦はしませんよ。みなの者、傭兵もろとも殺すのです。残念ですがね」
スクリエルが言うと、取り囲んでいた兵士たちがゼードとロアンヌに勢いよく近づいた。いっせいに得物を振りかぶってくる。ゼードは眼前へ迫った刃に短剣を交差させて受けとめ、思いきり兵士を蹴りあげる。そばではロアンヌを狙い、別の兵士が槍を突きださんとしていた。
身構えた彼女にその切っ先が届く寸前、兵士は悲鳴をあげて倒れこむ。
「逃げよう! とりあえず村をでる。急いでくれ!」
「シエン!」
ロアンヌを狙った兵士はシエンの振るう大剣に叩き潰されていた。勢いをそのままに彼はゼードと対峙していた兵士をも横ざまから切り裂く。ほかの兵士が怯みをみせた。
その痩躯からは想像できない力強さだ。
「おい! お前も早く! こっから逃げるぞ!」
「え!?」
ロアンヌが目を丸くする。ゼードは彼女の腕を乱暴につかみかかった。
「もたもたすんなッ!」
彼女は戸惑ったような顔を浮かべるが、ゼードになされるまま一緒に走りだした。三人は崩れた包囲をくぐり抜け、村の入口に向かって疾駆した。事態を静観するスクリエルの横を過ぎていく。彼は音もなくゼードたちに向けて手を突きだす。それに呼応するように、兵士たちの声が後ろから響き渡る。
「追え!」
「殺せ!」
シエンを先頭に走る三人の前に増援が駆けつけてくる。シエンが立ちふさぐ兵士の腹へと一気に大剣を叩きつけた。うめきをあげて倒れる相手の横ざまから、すかさず槍の一撃が飛んでくる。ゼードはその槍へ向けて短剣を投擲していた。それは槍の刃に当たると勢いよく兵士の手もとを狂わせる。隙をついて地面に転がる短剣を拾いあげると、ゼードは再び駆けだす。
村の入口付近、厩舎の前にも兵士が数人ほど待ち構えていた。三人の姿を見るや各々が武器を手に突撃してくる。
「ふっ!」
大剣を振り回し、かかってくる兵士の先をとるシエン。叩きつけるような斬撃は敵の身体を易々と吹き飛ばす。ほかの兵士がたじろいだところにゼードが短剣を薙ぐ。シエンが先制して相手の勢いをけん制、ゼードが後ろから敵の隙を狙う――それは、ともに傭兵として活動していた時によく使っていた戦法だ。体格的に逆では、と思うのは野暮である。
ゼードの攻撃は、籠手の隙間をついて兵士の腕を切り裂いていた。相手は後退する。その一瞬を逃さず、シエンが追撃の一手を繰りだした。
あっという間に地面へ伏す兵士たち。村の入口はすぐそこだ。スクリエルをはじめ、兵士が追随してくる気配はもうない。
「行くぜ。ここにいたら死ぬだけだ」
ゼードは肩で息をするロアンヌに向かって呼びかけた。その時、彼女の瞳が揺らいだのがわかった。だが、すぐに気丈な表情となり、強くあいづちを打つ。
「はい……!」
晴天だった空は赤く染まりつつある。血の臭いに反応しているのか、幾羽もの鴉が中空を不気味に旋回しているのだった。