「先生、私は大丈夫かねえ?」
使い古しのボロボロ布団。その上に座った老人が、不安げに青年の顔を見あげてくる。細くしわがれた手が小刻みに震えているのを見て、青年――ゼード・クラスタインは両目を胡乱げに細めた。
「さてな。ま、ただの貧血だろ。唇の色からしてそうさ。薬だしとくから飲んどいて。寿命で死んだらそれまでだがな」
「ああ、ありがとうございます。ありがとうございます……ここに先生がいてくれて本当によかった」
老人は崇めるように手をこすりあわせ、何度も頭をさげてきた。
場所は年季の入った一室だ。狭い室内は古びた木材の匂いに満ちている。ろくな家具もないその様相は老人の貧しさを如実に表していた。
外を吹く風が部屋をわずか揺らしている。老人は顔をあげた。
「なにかお礼ができればいいんだけど、あいにくお金がなくてねえ」
「まあ、もらえるんなら金は欲しいけどよお。じいさんマジでなにも持ってなさそうだもん。仕方ねえから今日はまけといてやる。気にすんなよな」
首にさげていた聴診器を外しながらゼードは苦い笑みを浮かべる。
「じゃ、俺はそろそろ行くわ。最近、連中の見張りが厳しくてね――」
彼が言いながら鞄の側面に聴診器をしまいこんだ時。室内に再び揺れが走る。
部屋の奥にあるひび割れた窓硝子がカタカタと鈍い音を立て始めた。
老人はとっさに窓へ顔を向けると、しわだらけの面立ちをふとしかめる。
ゼードも自然と眉を寄せた。
「あーあ。やっぱ近くにいやがるか。面倒だな……」
「先生。しばらくここに隠れていったらどうかね。先生は私たちにとって大切で、必要な人なんだ。あんなやつらに捕まっちゃ、私も死んでも死にきれぬ」
「なに言ってんだよ。亡霊になってでてくる気か? まあ、このあと予定があってさ。気持ちだけ受け取っておくよ。やっぱ帰るわ」
軽い口調で言い、ゼードは薬を処方すると家をでる。
晴れ渡る青空の下、見慣れた景色が彼の目に映った。荒廃した町並みの様子だ。無造作に建ち並ぶトタン屋根の民家はどれもが古びて煤けていた。中には掘っ立て小屋みたいな粗末な家やバラックもあった。その向こうに見える錆びた鉄塔が、今は用途を失い打ち捨てられている。
民家の隙間を埋めるように廃品があちこちに積まれており、塗装のされていない道の上に放置されていた。その間を細く伸びる道は、兵士の残したいくつもの足跡がくっきりと形を保っている。
ゼードはそばにある廃品の山を一瞥する。木箱や鉄くずなどのガラクタの中に埋もれる硝子片が、陽光を反射しながら彼の姿を映しだしていた。
鋭い眼光に、尖った顎をした精悍な顔立ち。猛禽類のようだ、と昔はよく例えられていたっけ。前髪を無造作に後ろへ撫でつけた短髪は赤黒く染まっている。長身でがっしりとした体躯を古びた外套に包み、これまた年季の入った革の鞄を肩にかけていた。
渋い表情を浮かべているのを自覚しつつ、ゼードは歩きだす。
「……ん」
すぐ近くで声が聞こえた。同時に足音も耳に届いてくる。バラック小屋を突き当たったゼードの向かいから兵士が歩いてきた。その数は五人。兵士たちは紫の鎧に身を包み、腰に帯剣している。紫は聖道院(せいどういん)の象徴だ。やはり、また見回りの数が増えている。
「おい、お前」
ゼードは何食わぬ顔で素通りしようとするものの、すれ違いざま兵士のひとりに呼びとめられた。兵士はじろりと彼を見ると、ぞんざいな口調で言い放つ。
「このあたりに闇医者がいると聞いたが。知らないか?」
「ほーん、闇医者? 知らねえな。なんだ、それ」
「とぼけるな。このスラムにいて、闇医者の存在を知らないわけがないだろう」
「いやいや、本当に知らねえんだよ」
ゼードは頭をボリボリと掻き、大きく首をかしげてみせる。
「俺はここの新参者だからさ。えーと、聖道院のお医者さまとは違うってことか?」
「おい、その小汚い鞄を見せろ」
別の兵士が肩にかけていたゼードの鞄をひったくる。やれやれ、と肩をすくめるゼード。中を確認すると、やがて兵士は乱暴な手つきで鞄を彼に返し、舌打ちを漏らす。
「行くぞ。時間を無駄にした。こんな汚いやさぐれ男が、医者なわけがなかったな」
「おいおい、聞き捨てなんねえな。お前らだってまるで芋が潰れたような顔してるってのに」
兵士はその瞬間、ゼードを突き飛ばした。後ろによろけた彼に迫り寄り、侮蔑の眼差しで睨んでくる兵士たち。
「あまり我々を怒らせるなよ? お前みたいなスラムの底辺など、いかようにもできることを忘れるな」
「はいはい、すんませんでした」
大きく舌打ちしつつ彼らは去っていく。ゼードは鞄を一瞥し、ぽんぽんと手で払った。
布で何重にもカモフラージュしているとはいえ、医療器具の入った鞄である。禁忌とされる医療器具を持っていると知られれば、闇医者として活動している事実が発覚して流刑地送り。
最悪の場合は極刑だ。
ゼードは遠くなっていく兵士たちの後ろ姿を見やり、肩をすくめる。
「毎日ご苦労なことだぜ。ま、あいつらの目は節穴だね。それだけがまあ、救いかな」
その間も至るところを徘徊する兵士の目を掻い潜り、民家の密集したスラム街から少し外れの小広場に辿りつく。広場には例によって廃品が山と積まれており、ゼードは地面に盛りあがる木屑に目を落とす。
周囲にひと気はない。あたりを窺いながら木屑を手で退ける。すると鉄製の丸蓋が現れた。その凹凸に手をかけて持ちあげると、鈍く軋んだ音を立てて蓋が開く。奥には地下に続く階段があった。ゼードは慣れた様子で中に入っていく。
反対側から蓋を閉じ、階段をおりた先には仄暗い一室が広がっていた。
部屋の右側には酒場によくあるようなカウンター席が設置されている。左側には二列並んだ棚があり、そこにはガーゼや綿棒、エタノール、医療用ハサミ、メスなどの医療道具や医療に関連する資料、薬品の入ったカゴが整然と揃えられていた。
聞くところによると、定期的に東の隣国から入手しているという話だ。どの道具も今の小国では手に入らない貴重な代物だという。
奥のほうには診察用の寝台があり、カウンターを除けばそこは医務室そのものとなっている。聖道院の兵士に発見されたら、一発で逮捕となる部屋だ。
ドクターズギルド、とゼードが呼んでいる場所である。といっても、ここを使用しているのはふたりしかいないわけだが。
天井に吊された電球が部屋の白い壁をぼうっと照らしていた。その下で、煙草の煙が細く立ちのぼっており、ゼードは再び肩をすくめる。室内はつんとした煙の臭いが充満していた。
どうやら、相変わらずのようだ。
「ネア先生」
室内に足を踏み入れながらゼードは呼びかける。煙草の主はカウンター席に腰かけたまま、彼に目を向けた。軽く手をあげてくる。
「……お、アンタか」
女性にしては低い声でネアが囁く。彼女はくわえていた煙草をそばに置いた灰皿に押しつけたあと、両手を軽快に打ち鳴らしてみせた。
「お疲れさん。今日も兵士が出回っていたようだね。危なかったろう」
ネア先生――ネア・ハンセンという。ゼードにとっては医術の師である。
歳は三十代前半といったところか。黒く長い髪が、背中に真っすぐ流れている。ぱっつんと切った前髪の下で、猫のようにしなやかな赤い瞳が照明灯に照らされて輝いていた。すらりとした身体をカーキ色の上着に包み、下は細身のパンツに踵の高いパンプスを履いている。
一見すると見目麗しい女性だが、ゼードはそばの灰皿に山盛りとなった吸い殻を見やる。
「まったくもって危なかったぜ。さっきも捕まりそうになったし」
「どうせ変に堂々と歩いてたんだろう? アンタの身なりはスラムじゃ目立つしね」
「誰もが振り返る美男子ってことか?」
「そんなことは誰も言ってないよ。鏡を見て反省しろ」
「ひでえなあ……あ、てか。吸いすぎですよ、師匠。煙草。医者の不養生って言葉を知らないんですかね」
思わず目を眇めたゼードへ、ネアが意外そうに眉をつりあげた。
「なんだい? 心配してくれているのかい」
「ま、仮にも師匠だしな」
「仮にもは余計だよ。相変わらず、可愛くない弟子だね」
ネアがくゆらせた煙草をそのままにどこか不貞腐れた顔をする。頬杖をついた。
「そんじゃあ、ま、お仕事ご苦労さん。今日の依頼はこれで終わりだよ。あとは帰ってゆっくりしなさいな」
灰皿に煙草を押しつけ、新しい煙草を懐から取りだしながら彼女はふと顔をあげる。
「そうだ。今日はどこに帰るんだい?」
「とりあえず孤児院に顔出しだな。最近、行けてねえから」
「そうかい。せいぜい兵士に捕まらないよう気をつけなよ。アタシらが闇医者だってバレたら大変だからね」
言葉とは裏腹な軽い調子で片目を瞑るネア。それから自嘲するように息を吐いた。
「にしても、闇医者ねえ。アタシらもずいぶんと悪者にされたものだよ」
「……そうだな。いっそのこと、新しい宗教でも興して戦うか?」
すべてはロイナ教を信仰する聖道院の決めごとだ。この小国では現在、誰も逆らうことができない。
聖道院。大気や、人の体内に満ちる力の源泉――マナを利用する術、『医魔法』によって治療を施す医者の大組織だ。百五十年前、聖女ロイナによって興った医魔法はそれまでの医療を大きく覆した。彼女はまるで奇跡のごとく、当時の小国に蔓延していた疫病を治したというのだ。衛生観念の表れにより、疫病はその後も沈静化している。
そんなロイナを祖とするのが聖道院である。小国の政の半分を牛耳ており、今では聖道院の意見なくして政治は成り立たない。それほど医魔法はこの国にとって重要かつ高尚なものとなっている。
それは従来の医療の衰退を意味していた。いつしか、これまでの医学はロイナ教の行いに背くとして禁忌とされたのだ。それまで発展していた外科や内科の技術も衰え、医術を学ぶ学校の数も次第に減っていった。
医魔法以外による医療行為は現在、固く禁じられている。それを行う者たちを聖道院は『闇医者』と定義し、厳しく取り締まっていた。
ゼードとネアは、そんな闇医者というわけである。
「まったく、おかしな話だね。まあ、いい。アタシらはアタシらで、こっそりとやらせてもらうだけさ。治療をやめるわけにはいかない」
「ああ。ここには俺たちを必要としてくれる連中がいるからな。やつらを無下にはできねえよ」
真剣な顔をするゼードに肩をすくめ、ネアは顎をしゃくる。
「さ、とっとと帰んな。子どもたちが待ってるんだろ」
「ああ。んじゃあな」
「……おっと。ゼード」
彼の背にネアの声がかかる。先ほどよりも低い、どこか気づかうような声音だ。
「アンタ、本当に気をつけなよ? 変な騒動を起こすんじゃないよ」