彼が闇医者の助手になったのは、20年ほど前の事。まだ彼が10歳にも満たない頃だった。
通常、第二性が発現するのは10歳から13歳の間と言われているが彼の発現は通常よりも早めで、しかもΩであった事が原因だったのか通知書を受け取った瞬間から両親の彼を見る目は今までとは真逆に切り替わったのだ。
それまでは、良い両親だったと思う。彼は優秀な子供であったし、αを望んでいた両親にとっては「この子は間違いなくαである」と確信出来るくらいには幼いながらも利発で見目も良かった。
だからこそ、実際にΩであると知った瞬間の両親の怒りたるやすさまじいものがあったのだ。
特に母親からの拒否感は激しく、彼の性器を何度も刃物で切りつけて、あまつさえまだ身体の小さな彼を「Ωなんて使い物にならない」と好事家と知られているのαのヴィランに売り払おうとさえしたのだ。
父もそれを止める事はなく、母からの激しい折檻を受けて身動きの取れなくなった彼の目の前で「今度こそ優秀な子供を作ろう」と母とまぐわった。
性器を傷付けられ、痛みと恐怖で動けなくなった彼の眼の前で行われる両親の色事を、彼は泣くことも出来ず呆然と見ている事しか出来なかった。
そんな日々を変えてくれたのが、今や「闇医者」と呼ばれている男だった。
今はヴィランを中心に普通の医者に通えない患者を多数抱えている闇医者の男は、元々は彼の小学校の養護教諭をしていた医者だった。
第二性の発現と共に学校における校医・養護教諭といった立ち位置の人間の立場や必要性は色々と変わっていき、その時偶然そこに居たのがその男だったというだけだったのだが、通常よりも早く第二性が発現した彼の事を知る事の出来る立場の者が学校に居たというのは、後に男の助手になった彼にとっては本当にラッキーな事だった。
通知書を受け取った翌日から学校に来なくなった彼を心配した男が家を訪問してきた時に両親が居なかった事もまた、大きな幸運だったのだろう。
ヨレヨレで血で汚れたのTシャツ一枚しか身に着けず、しかも性器を中心に下腹部に複数の切り傷をつけた子供を見つけた時の事を闇医者は後に「あれは人生で一番の修羅場だった」と語っている。
その後、何も考えずに彼を連れて家に戻り、そのまま学校にも戻らずに出奔した日々の事は決して修羅場だと言わない闇医者に呆れはしたが、「これで僕もヴィランだ」とだけ言って笑ってくれたその表情にどれだけ救われただろうか。
生家を捨て、それまでのキャリアや名前も捨てて、闇医者と助手として裏社会で生きる事になった事を、二人は後悔はしていない。
そのおかげで自分と同じような境遇のΩを救う事も出来たし、【勇者】が救うことの出来ないヴィランになるしか道がないかもと追い詰められた人間に手を差し伸べる事だって出来た。
今持っている名前も偽名だし戸籍だって偽物だけれど、助手は今の生活にとても満足している。うなじに残る歯型共々、この20年間は生まれ直した何より愛おしい時間と言っても過言ではなかった。
だからこそ、ガサゴソと音を立てるビニール袋の中身を見てはため息が出てしまう。
じっくりとタブレットに表示されている「花吐き病」の詳細を見つめている橘シンは、呆然と涙を落としながら時折鼻をすするばかりだ。
ちゃんと読めているのかは、彼の手の動きで分かるからまぁいい。
だが、この手元にあるビニール袋の中身をどうするべきか。助手は少しばかり悩んだ。
ビニール袋の中にある「花」は、蓮とチグリジアの花だ。蓮は誰だって知っている花だし、チグリジアは以前に一度見たことがあったから良く知っていた。勿論、その花の持つ意味も知っている。
蓮の花言葉は「私を救って下さい」。
そしてチグリジアの花言葉は――「私を助けて」。
こんなにも助けを求めているというのに、この馬鹿は花吐き病の事をαに知られたくはないというのだから、本当に馬鹿で愚かだ。
花吐き病は片想いをこじらせた時に起こるもので、大体は感染性のもの。しかし【勇者】や【ヴィラン】のように特殊な能力を持っている人間がその力を使う事が出来なくなり、またその理由が今回のようなものが原因の時にはこういう形で体外に出てくる事は無いわけではないという。
例えば、ヴィランに恋をして戦えなくなった【勇者】。
例えば、戦闘で死亡した恋人を忘れる事の出来ない者。
以前に助手が見た花吐き病の患者は、後者の者だった。【勇者】との戦いで恋人を喪ったヴィランの女はただのβでしかなかったが、恋人のαを恋しがって泣いて泣いて花を吐いて――そして死んだ。
彼女が何度もチグリジアを吐いていたから助手はこの花の意味を知っていたし、この花を吐く人間の心がボロボロなのも良く分かっている。
きっとシンの心も今はいっぱいいっぱいなのだろうとも思うが、しかしその状況で花吐き病の事をαに告げないのは、本当に理解が出来ない。
「ちゃんと話せばいいだろうが。そんで、噛んで貰え。好きなんだろ?」
「…………」
「花吐き病の完治と番契約は無関係じゃないだろう。お前だってきちんとしたΩになれるかもしれないし、アイツにだって負担にはならない」
「…………」
花吐き病のページを繰り返し繰り返し読みながら、シンは黙って助手を見上げたきり黙り込んでしまった。
Ωは総じて自己評価が低い場合が多い。今では育み育てる性、などとは言われているが、昔のような「産むだけの性」という認識だって未だに色濃く残っている所はある。
助手の生家がそうだったように――橘家がシンをそう扱ったように、今尚Ωは虐げられる事の方が多くってどうしたって自己肯定感が高いまま成長する事なんかは出来ないのだ。
そんなΩにとって一番自己肯定感が上がる瞬間こそが番を得る瞬間であり、番に愛される事。
幼い頃に受けた行為のせいで性行為に対して消極的だった助手の認識を変えたのもまた闇医者が根気よく付き合い、愛してくれたことだ。
つまりは、αからΩに転落したシンの心を癒やすのだって番の愛が一番でしかなくって……その番の候補であり、シンが花吐き病を罹患する原因になった「拗らせた恋の相手」はすぐ近くに居るのだから全ての解決は眼の前なわけだが、「拗らせた恋の相手」だからこそシンはそれに頷かないだろうなというのも、助手には分かってしまう。
助手としては番になる気のないΩを養うαがどこに居るんだ、という話ではあるのだが、あのトンチキヴィランはきっとそういうことは気にせずとりあえずシンを外に連れ出したのだろうなというのも分かるから、頭痛がする。
だって、4ヶ月一緒に居てヒートだって起きているのに一度も何もしていないだなんて、助手には信じられない話だ。
いくら抑制剤を飲んでいるにしてもあれだけΩのニオイをプンプンさせているのに自覚がないというのも理解が出来ない。実はとっくに番になっているんじゃないかと疑いもしたが、残念ながらシンのうなじに噛み跡はなく真っ更なまま。
なんなんだマジで。
「何度も言うが、花吐き病を隠すのは困難だぞ。好いた相手のことを考えると吐き気が強まるっていう話も聞く」
「!」
「だから……せめて出来て、花吐き病の原因をぼかすくらいしか出来ないんじゃねぇか」
しかし助手は、あの闇医者の助手だ。
番同士ではあるが、仕事上のパートナーでもあり彼が培ってきたものを自分が崩してしまうのは絶対に嫌だと、助手は思っている。
だからこそ、本当に業腹だが知ってしまった以上は出来る事をやってやるしかない。
「アイツに、花吐き病の原因を"フェロモン異常で、番を得ない限りは治らない"とかそういう風に誤魔化すことなら出来る」
仕方無しにそう言ってやれば、シンの目が輝いたのが本当に馬鹿みたいだと、助手は思った。
この男が花吐き病を知られたくないのは、自分の中にある恋心を知られたくないから。
この男が番契約を躊躇してしまうのは、Ω特有の「契約をしてもすぐ捨てられるのでは」とか「自分は彼には見合わない」だとか、そういう後ろ向きな気持ちから。
絶対そうだと思っていた助手だったが、「花吐き病を隠せる」と言った瞬間に喜んだ表情を見て更にその確信は強くなる。
馬鹿だ、本当に馬鹿だ。
Ωっていうのは、どうしようもない馬鹿な性なのだということが、痛いくらいに分かる。
だってその気持ちは、助手も闇医者と番になる時にずっとずっと、何日も何日も泣きながら考えて悩んでいたこととまったく同じなのだ。これは、同じ馬鹿じゃないとわからない。
本当に、本当にどうしようもない馬鹿としか言いようがなくって、喜ぶシンを前にして助手は少しだけ泣きたくなった。