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第四話

 ふ、と目を開いた時、見覚えのないカーテンと見覚えのない天井がぼやけた視界に入ってきて、シンはしばしぼんやりとしてから幾度か左手で目を擦った。

 と、僅かに皮膚を引っ張られるような痛みがあって、左腕に点滴が刺さっていることにようやく気付く。またぼんやりとその点滴の針を眺めていたシンは、本当にようやく、ゆっくりとここが病院である事を理解した。

 総司に連れ出された直後に連れ込まれた、あの病院だ。カーテンだと思ったものは、恐らくはベッドを隠すためのものだろう。

 なんでこんな所で寝ていたのか。それも少し、ゆっくりと考えて身体の痛みとほてりで理解する。

 ヒートではないだろうが、とにかく身体中の関節という関節が痛くて、頭の奥が鈍く痛んで目眩もした。ヒートとは違うこの感覚は、まだαだった頃にも覚えのある風邪のものだろう。

 αの時にはまだ身体が頑丈だったから体調自体を崩す事はそうそうなかったのだけれど、どうしてか季節の変わり目とインフルエンザには弱くって、シンは年に一度か二度だけ高熱を発する事があった。

 しかしそういう時も、橘家は誰かが看病するという事はしない。熱が40度を越えなければ普通に出勤するし仕事もする。インフルエンザの時は流石に規定日数は休まなければならなかったが、その日数分だけ評価が下がるのは仕方がない事だった。

 それが橘家というものなのだから、仕方がない。シンは、身体が頑丈で熱なんか出したことのない妹が羨ましくて仕方がなかった。橘の後継者はもう彼女に決まっているだろうが、悔しいと思ったのはほんの数分だけだ。

 Ωになった段階で、橘では人権がない。

 それは、この身に痛いくらいに刻みつけられた現実だった。

 病院にだって、橘に居る間は来たことなんかはほとんどなかった。病院といえば【勇者】として任務で負った傷を治療するためのもので、体調不良を診てもらう場所なんかではなかったのだ。

 ここに連れてきてくれたのは総司で間違いはないだろうが、ヴィランの彼に家から連れ出されてからの方がずっと大事にされているような気がして、人間らしい生活をさせてもらっているような気がして……おかしな気持ちになる。

「……ぅ」

 ぼんやりと天井を眺めていたシンは、不意に喉元まで上がってきた吐き気に反射的に点滴のことも忘れて両手で口元を覆う。

 勢いよく起き上がって身体を丸めて必死に吐き気をこらえようとすると、勢いよく起きたせいで点滴の管を引っ張ってしまったのかポールが倒れて酷い音をさせてしまった。が、それを気にする事なんかは出来ない。

 腕を引っ張られて、針が皮膚の下でズレて出血をしても、その痛みよりも吐き気の方が強くって目をぎゅっと閉じて吐き気をこらえるしか出来なかった。

 吐きたくない――

 もう喉元までやってきているモノを何度も唾液を飲み込みながらやり過ごそうと必死になるが、しかし胃が何度も痙攣して呼吸すらも出来ない苦しみに涙が浮かぶ。

 吐きたくない、吐きたくないっ!

 口元に爪を立てて必死に抗っても肉体の反射はどうしようもなくって、シンは結局堪えきれずに口をおさえたまま激しく嘔吐していた。

 喉の奥から何かが引き摺られてくるような不快感と共に吐き出されるのは、やはり花だ。今度は蓮ではなく、黄色い三枚の花弁の内側に赤い斑点模様のある不思議な形の花で、流石にこの花の名前は分からない。

 しかし、ゲホゲホと咳き込みながら何度か吐き出していると黄色の花の間にいくつか蓮の花も落ちていって、ただでさえ具合が悪いというのに花の青臭いニオイが鼻につく。

「起きたのか?」

「う、ぅ……ゲホッ」

「……! アンタ、それ」

 二度、三度。こらえきれぬ吐き気に負けて花を吐き出していると、物音に気付いたのかマスクをつけた助手が一切の遠慮もなくクリーム色のカーテンを開く。

 倒れた点滴のポールに、布団いっぱいに吐き出された二種類の花。

 シンは「あぁ見られてしまった」と思うのと同時に、酷い頭痛と目眩で眼の前が薄暗くなり始めていた。マトモに点滴が作用しなくなった所にこの嘔吐だ。体力が一気に奪われてしまったのかもしれない。

 そんなシンを見てまず最初にポールを立たせた助手は、即座にディスポーザブル手袋を装着するとシンの手から点滴針を引き抜き、新しい針を用意して再び正しい位置に点滴を戻す。

 今度はさっきよりもテープを増やして抜けないようズレないようにしっかりと点滴針を固定すると、今度は大きなビニール袋を持ってきてベッドの上に散った花を乱暴に、しかし丁寧にビニールの中に回収して布団を新しいものに取り替えてくれた。

 その手際の良さは慣れを感じさせて、よろよろと再び横になっていたシンはぼんやりする視界でそれを見守るしかない。

「いつからだ」

 汚れた布団と花を回収されて隣のベッドにあった別の布団をかけられながら、シンは視線だけを助手の方に向ける。

「花、吐き始めたのはいつからだって聞いてんだ」

「…………」

 あぁ、花のことだったのか。

 ぼんやりと考えていたシンは震える手を何とか広げるとパーの形にした手を一度見せて、パタリと倒して、またパーを見せた。五本指を二回。10日前だ。

 助手は正確にその意図を察してくれたのか、小さな声で「じゅう」と言ってから考え込むように口を閉ざしてしまう。その視線は、吐き出した花を詰めた袋に落とされていた。

 詳しい状況を話そうにも、今のシンにはとても無理だ。まだ気持ち悪いし、周囲はぐわぐわと回っていてとても文字を書けるような体調ではない。

 それに、誰かにバレてしまったという衝撃が凄くって、辛くって、なんだかとても泣きそうな気分になっている。

 知られたくなかった。気付かれたくなかった。

 こんなおかしな病気かもわからないものなんか、誰にも――

「あのヴィラン野郎は知ってんのか」

 ヴィラン野郎。総司の事だろう。シンは、自分で出来る限りの動きで首を振った。

 つい昨日、花を吐いている最中に総司が帰宅してあわやというシーンがあったが、足音がした瞬間に急いでトイレの水を流したので何とか花を見られなくて済んだ。お陰であの時に吐いていた花が何だったのかを見る事は出来なかったが、それでいいとシンは思っている。

「言えないんか」

 その問いに、また頷く。

 ただでさえこんな身体で、Ωで、ろくに彼に還元する事も出来ていない出来損ないだ。

 これ以上おかしな事情を抱えさせたくはない。

 外に連れ出してくれた彼に、これ以上の迷惑を、負担をかけるのは、嫌だ。


「このままだと、お前死ぬぞ」


 しばらくの沈黙の後に、助手にはっきりとそんな事を言われても、シンは断固として首を振る。

 総司にこの病気の事が知られても何が出来るでもないだろうし、気味悪がられるだけだろう。ただでさえ迷惑な居候なのに、ここで総司に捨てられたらシンはそれこそ死ぬしかなくなってしまう。

 橘は自分を探し続けているが、決して愛情があって探しているわけではないだろうから戻れるわけもない。

 そんな時に、シンに捨てられてしまったら――

 また一人になったら、体調の事もそうだけれど生きていようという気持ちが折れてしまう、気がする。

 シンの気持ちを察してかどうか、助手は深くため息を吐き出すとビニール袋の口を縛って脇に置いてから、シンの額の冷却材を取り替えた。

 一瞬だけヒヤリとした感触にほっとため息が出る。

「お前の罹患している病気は、花吐き病だ」

「…………?」

「正式な名称は嘔吐中枢花被性疾患。死に至る可能性の高い、感染性の病だ」

 助手の言葉に、シンの目が僅かに見開かれる。

 助手が言うには、花吐き病は本人の体液が花に変質するという厄介なものだという。基本的には体内から出たもの――特に吐瀉物が花になる症状が顕著だが、末期になると血液や涙まで花になって花に包まれて死亡した例もあるという。(*1)

 それはなんとも美しい死に様だ、とは思うが、治療法がないのはいかんともしがたい。感染性というのも恐ろしい。思わぬタイミングで嘔吐をして総司が触れてしまったなら、彼にも花吐き病が感染してしまうという事だ。

 それは、とても、恐ろしい事で。


「身体を循環出来なかった体液が花として吐き出される関係から、悪化していくうちにどんどん吐き気も強くなっていくし吐いていけば身体もどんどん弱る。罹患してもう10日だというなら、この発熱も花吐き病が関係しているのかもしれない」


 隠しておく事は出来ないぞ。

 助手はそう言って、花吐き病の発症原因の項目をタブレットに表示させて、シンに見せつけた。

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