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第三話

 なんとかスポーツドリンクを飲み下した所で力尽きたのかぐったりと意識を失ってしまったシンを抱えてベッドに戻ると、さっきは慌てていて見えていなかったシンの格闘の痕跡があちこちにある事に気付いて総司の眉間に深いシワが寄る。

 恐らくはトイレまで我慢が出来なかったのだろう痕跡を掃除するためにかぐちゃぐちゃになったタオルが何枚か廊下の端に積まれているし、カーペットの上にも必死に擦ったのだろう痕跡が一箇所ある。

 シンが普段使っているコップは出来るだけ軽く取っ手のあるものにしているが、それもカーペットの上に転がって中に残っていた飲み物をぶちまけてしまったようだった。

 中身が牛乳とかジュースではないのは、匂いを嗅げばわかる。恐らくはただの水か、白湯だったものだろう。

 シンは腹が温まるからと白湯を飲むのを日課にしていて、電気ケトルがコポコポとなり始める直前にスイッチを切るのが随分上手になったと自慢していたのはほんの2日前の事だ。

 毎日少しずつ何かが出来るようになっていく。

 それがシンの自信になっているのか、ここ最近は顔色も良くなってきて家の中をウロウロしている様子もあったというのに、それがいけなかったのだろうか。

 ベッドに押し込んだシンの手首に赤外線計測の体温計の光を当てると、体温は38度を越えていたので眉間のシワがさらに深くなる。

 ただでさえ身体がまだ万全ではないシンのことだ、これだけ熱があればそりゃあ辛かった事だろう。

 確か引っ越してきたばかりの時に買ったものがあったと、額に貼るタイプの冷感シートを冷蔵庫から引っ張り出して額に貼り付けてやる。

 いつも微熱がある時に使っているそれは残り枚数が少なくて心配になった。しかもシンは額にシートが貼られる時のひんやりした感触が苦手だったはずなのに、それに反応する体力もないのかピクリとも反応してはくれなかった。

 これは、明日一番に病院に行くべきかもしれない。

 もしこれがヒートであったとしてもそうでなくても、闇医者の所に行くのは確定だ。携帯を取り出してΩの輸送にも対応してくれるタクシー会社に配送の予約を入れつつ、廊下に放置されていたタオルを回収して洗濯かごに放り込む。

 あのタオルも、てっきり嘔吐してしまったものを片付けようとしたものだと思っていたが別に嫌な匂いはしなかったのでそうではないようだ。逆にほんのりいい匂いのするソレは、もしかしてフェロモンの香りだろうかと思いはしたがソレを判断出来る材料は今の総司にはない。

 花弁を潰したような甘酸っぱい香りと、なんだかねっとりと鼻腔に残る甘すぎる香り。後者はたまに擦り寄ってきたΩの女ヴィランからはよく似たようなニオイがしていたなと不快になったが、花のような香りは嫌いではなかった。

 これがシンのフェロモンの香りならばいいが、そう判断するのは早計だ。

 まずは病院に連れて行って体調を整えて……出来ればフェロモンについても、相談をしなければ。

「シンさん……もうちょっと我慢してね」

 そういえば無意識に彼を自分のベッドに運んでしまったと、今更に気付く。彼のベッドもあるのだからそっちに運べばよかったのに、自然と自分の使い慣れているものに運んでしまったのだろう。

 発熱しているというのにとても静かに眠っているシンの様子が心配になった総司は、少し悩んでから風呂をシャワーだけで済ますと夕食も食べずにシンと同じベッドに入り込んだ。

 そのまま、シンを抱き締めて自分の体温を分け与えるようにして、布団を掛け直す。

 どうか朝まで何もありませんように。

 そう願いながら、いつでもシンの異変に気付けるように気を張りつつ目を閉じた。



「風邪やヒートの類ではないかなぁ。多分、急に寒くなったから身体がびっくりしたんでしょう」



 翌日。予約したタクシーが着くよりもずっと前に外出準備を整えた総司は、闇医者のねぐらから少し離れた場所のコンビニでおろして貰った後にシンを背負ってコソコソと闇医者のねぐらに滑り込んだ。

 表向きはただのマンションであるこのロビーを通り抜けて裏口から出て駐輪場を通ったその先が、闇医者のねぐらだ。正式な診療所でもなんでもない闇医者のねぐらに営業時間はあって無いようなものだが、闇医者が確実に居る時間というのもと外に出ている時間というのは存在している。

 ここに入り始めてすぐにはそのタイミングを逃してイライラしていたものだったが、今ではそんなミスはしない。

「熱が高くて……」

「解熱剤を出そうねぇ。水はちゃんと飲めてる?」

「自力では難しいみたいなんで、オレが飲ませてる」

「うーん、じゃあ薬を飲ませるためのゼリーも処方しておくからそれで飲ませて上げてねぇ。スプーンいっぱいだから水よりも飲ませやすいと思うよ。それから、出来れば飲ませる水にもとろみをつけたほうがいいかも」

「とろみ……片栗粉とか?」

「専用のとろみ剤っていうのがあるから、それも出しておくね」

 シンの熱は、翌日になってさらに上がって39度近くに上がっていた。今は点滴を受けて落ち着いているようだったが、夜には静かだった呼吸が苦しそうなのを見るとなんとも可哀想で仕方がない。

 ついでに栄養剤の点滴も頼んで、総司はそういえば財布に金がどのくらい入っていたかと少しばかり焦る。

 バイト代が出たばかりなので金の心配はしていないが、まだ口座から下ろしていない。

「あ、そういやセンセ。オレ、Ωのフェロモンのニオイする?」

「そりゃあね」

「マジか……オレわかんないんだよ、シンさんのフェロモン」

「君、番居たっけ?」

「居ない」

「だよねぇ? それで、フェロモンがわからない? こんなに濃いニオイなのに」

「やっぱ、シンさんのフェロモンってつえーんだ?」

 首を傾げつつ聞くと、闇医者は「うーん」と唸って伸ばしっぱなしの顎髭を撫でる。ザリザリと不衛生なその顎髭は朝の洗顔をサボったような有り様でちょっと小汚く見えるが、何となく生えかけの髭を触ってしまう気持ちはわかるので何も言わずに医者を眺めた。


「彼はねぇ、ヒートをそもそも狂わされているんじゃないかって思うんでよねぇ」


 しかしぼんやりと闇医者を眺めていた総司は、その言葉にハッと我を取り戻した心地になった。

「狂わされてるって……どういう?」

「彼の境遇は聞いた限りだと、恐らくは最初にΩ堕ちした時にそういう類の薬を使われて弄ばれたか……それか、Ωになってから利用するためにそうされたかのどっちか、かなぁ」

「そうされた、って……」

「Ωの利用方法、君は分かるでしょう?」

 闇医者の言葉に、総司は黙り込んだ。

 Ωの利用方。それは、どの時代、どの世代にあっても「子を産ませる」というものが真っ先に出てくるだろうものだった。

 地位の高い家系にはαが生まれやすいが、時折突然変異的にΩが生まれるとそのΩは大体悲惨な末路を辿ると言われている。理由は簡単なことで、「優秀な血統のΩが珍しい」からだ。

 優秀な血統にはαが多い。

 その優秀さは代々アスリートだとか、代々官僚だとか、【勇者】の家系だとか、そういうものだけれど、そういう家系はαか、悪くてβな事がほとんどで。

 そんな中で生まれたΩに求められるのは「優秀なα」と「優秀なΩ」の「優秀な子」を産む役目。それには血筋も番も婚姻も関係なく、とにかく産めるだけ産ませるというのだ。

 第二性が発現したばかりの頃に聞いたそんな裏の世界の事情は、テレビの中でしか存在しないものだろうと総司は思っていたものだった。しかし実際自分がヴィランになって裏の世界の方が近くなると、あながちそれは嘘ではないという部分も見えてくる。

 風俗だとかそういうのに堕ちてくる年嵩のΩのほとんどは、そういう家系の「使い古されたΩ」ばかりだからだ。

「そういう風に使われていたΩは、いつでも子供が産めるように強制的にヒートを起こす薬剤を投与されたりずっと行為をさせられたり……とにかく扱いは酷いものでねぇ……ヒートが安定している方が珍しいくらいさ」

「……シンさんは……」

「幸い、と言っていいのかは分からないけど、彼には出産の痕跡はないねぇ。でも、だからこそ、薬を沢山使われていた可能性はあるからねぇ」

 なんて奴らだ。橘の裏の姿を知ると、そんな言葉しか出てこない。

 しかし、でも、彼のヒートが狂っているのなら何で自分にはシンのフェロモンがわからないのだろうか。

 せめて彼のフェロモンを感じ取る事が出来れば、体調を崩した時にもすぐにわかるかもしれないのに。

「……悪い、先生。金下ろすの忘れてたから、ちょっと金下ろしてくる……シンさん、頼んでいいか」

「それは勿論。点滴もまだ終わらないから、しばらくは預かるよぉ」

「……うん、頼むわ」

 なんで、なんで自分だけわからないんだ。

 闇医者に聞いても答えの出ないその問いを胸の中で何度も繰り返しながら、総司は闇医者のねぐらを出てフラフラとコンビニのATMを探した。

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