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第一話

 最近シンの様子が少しおかしいというのは、総司も一応は把握をしていた。

 一緒に暮らし始めて4ヶ月を超えた頃、まずは総司の帰宅を待たずに眠っている事が多くなった。

 これはまぁ、安全のために半年目を目処にまた引っ越しを視野に入れたほうがいいかもしれないと総司も残業を入れ始めて帰宅が遅れていたから、理解は出来る。

 しかし、朝起きてくるのも遅くなり始めたのは心配だった。

 シンは早く寝る分起床も早い。総司は彼の睡眠スパンを深夜に起きてしまうらしいという事と、しかしすぐにもう一度寝直しているという事までは把握している。しかしそれまでは総司が起きるまでには彼も起きてテレビを見ていたりしたので、夜中に起きずに朝も遅くまでぐっすり眠っているというのは心配の種になっていた。

 体調が悪いのか?

 それとも、フェロモンのせいで身体に負荷がかかっているのか?

 聞きたいが、それでシンの地雷を踏んでしまっても嫌なので、言えないままもう一週間は経過している。

 そもそも彼は、通常3ヶ月に一回起こるというヒートも起こしていない。これは抑制剤を飲んでいるから、というのもあるのかもしれないが、シンがΩになってからは数年は経過しているようだと聞いてからは違和感も大きくなっていた。


『通常、Ωを自覚してから1年以上が経過してもフェロモンが不安定であるという事はないのね。短くて半年、長くても1年が経過すればヒートの時期も安定してくるはずなんですよねぇ。まさかΩになったのが数年前だったとは……』


 先日、シンに内緒でこっそり闇医者を受診して話を聞いた時には、あの医者は驚きながらそんな事を言っていた。

 てっきりΩに適合していないのだとばかり思われていたシンが、とっくに適合しているはずの期間を過ぎているだなんてあの医者の目をもっても見抜けなかったのだ。

 総司はシンが何年あの地下に居て、何年Ωとして虐げられてきたかはよく知らない。その期間だけは本人もはっきりとは言葉にしてくれていなかったから、てっきりまだΩになったばかりで安定していないものだとばかり思っていたのだ。

 もしそうでないなら、彼は何故ヒートを起こしていないのだろうか。

 先日あったフェロモンの暴走がヒートなのかと勘違いをしていた事もあるが、あれは1日で治まったからヒートと呼ぶには短すぎるように思える。

 総司は以前一度Ωのヒートに遭遇した事があるが、あの時は周囲のαがみんなラット化してΩに群がっていて、総司はすぐに逃げたから良かったものの自分も危うかったと記憶している。

 なのに、そういえばシンの先日の暴走の時には総司は彼のフェロモンには一切誘われなかった。

 抑制剤が身体に合っていたから、なのだろうか。とにかくシンの事が心配で、甘い匂いは感じたものの彼に乱暴を働こうなんて少しも思わなかった気がする。

 はて、これは一体どうしたことだろうか。

 首を傾げながら、総司はすやすやと眠っているシンを起こさないようにそっとベッドから抜け出した。

 総司とシンは、当然ながら恋人でもなければ番でもない。しかし隣人を煽ってしまったフェロモン暴走事件からシンが一人で眠るのを怖がるようになり、ベッドだけは共にするようになっていた。

 一応部屋はそれぞれあるしベッドだってそれぞれのものがあるのだけれど、結局使っているのは総司のベッドだけだ。

 身長が平均よりも高めの総司が「部屋の広さよりも睡眠の快適さ」と大きめのベッドを選んでいたお陰で、二人で並んで寝てもベッドに窮屈さは感じない。

 勿論大の字で寝る事なんかは出来ないが、小さくなって眠るシンを抱え込むようにすれば身体も十分伸ばすことが出来るくらいのサイズだった。

「シンさん。オレ起きるよ」

「ンン……」

 シンは声帯を深く傷付けられているせいで声を発する事が出来ない。

 喉に大きく残っている傷が気になって闇医者に真っ先に見てもらった時に言われた言葉は総司の中に大きな衝撃を残し、橘への怒りは主にこの喉の傷に関するものになっていると言ってもいいだろう。

 もしかしたら、この怪我を受けてすぐに治療を行っていたら声までは失わなかったかもしれないと聞いてしまっては、傷をつけたかもしれないヴィランへの怒りも、治療をせずにあんな所に閉じ込めていた橘への怒りも、どちらも同質のものになってしまったのだ。

 シンを連れ出してから出来る限り医者には通わせているが、あまり外に連れ出せない事もあってか治療の進捗は芳しくない。

 元々呻く程度には声が出せていたが、それは傷ついた声帯を呼気が震わせているだけのものでしかないのだ。

「朝飯、食べる?」

「ん……」

 寝ぼけ眼を何度か瞬かせながら、シンが小さく首を振る。食べなきゃ駄目だよ、とは言っているが、やはりあまり食事に対しては積極的ではないようだ。

 シンは未だに肋骨は浮いているし、身体の表面こそ痣は消えたものの肌に張りはなくガサガサしている所も多い。火傷の跡はもう消えないところもあるようだし、変にくっついてしまっている所は一度医者の手で折ってから再度正しくくっつけないといけないらしく、その処置も出来ていない状態だ。

 痣が消えただけ良かった。そう思うようにはしているが、治っていない所が多すぎて見ていて痛々しさは残っている。

「……せめてコーンスープだけでも飲まない?」

 コーンスープ、と言うと、ようやくシンは薄く目を開いた。

 この家に引っ越してきてすぐの時に、食事をとろうとしない彼にふわふわの食パンとコーンスープを出したことがあるのだが、彼は存外それを気に入ってくれていた。

 今ではどれだけ食欲がない時でもコーンスープに浸した食パンの白い所だけは食べてくれるので、インスタントのものだがコーンスープの素だけは切らさずストックをしてある。

 最近では時間がある時にはコーンスープを自作してみたりもしたが、素人の手作りスープはやはりインスタントには敵わなくって、それでもシンが全部飲んでくれた時にはとても嬉しかったものだ。

 こうしているとなんだか恋人同士みたいだな、なんて思ったりもするが、総司は「自分だけは彼をそういう目で見てはいけない」と思うようにしていた。

 Ωとして今まで散々に苦労してきた彼に、「Ωだから」という理由で連れてきたと思われないようにしたいと総司は思っている。

 ではどうして連れてきたのかと言われると未だに説明は出来ないのだが、それでもそんな勘違いだけはして欲しくなくって、彼の背中や風呂上がりの姿にほんの少し欲情しそうになってもグッと奥歯を噛み締めている総司だ。

 Ωとαが一緒に居るからって、番にならなければならないという理由はない。

 αはΩのフェロモンを管理する責任がある、なんて言われたりもするが、そんな動物と飼い主みたいな関係性はごめんだった。

 もう少し、シンがこの環境で落ち着いて、総司もゆっくりと今後を考える事が出来るようになった時に。

 その時にお互いそういう気持ちになったなら番になってもいいかもしれないが、今そういう関係になってはいけないと、そう、思うのだ。

 多分それは、彼をとても、大事にしたいと思っているからで。


「お前さ、すっげーΩの匂いするよな」


 そう思っていたのに、バイト先の同僚にそんな事を言われて総司は飲んでいた缶を思い切り凹ませてしまった。

「は……へ? そんな匂い、します?」

「するする。時々めちゃくちゃムラムラするもん」

「えええ、気付かなかったんスけど……」

「薬局にフェロモンの匂い消すスプレーとか売ってんだろ。気をつけたほうがいいぞ」

 呆れ顔の先輩は、確かαだと公言している人だった。

 今日は総司の働いているライブハウスでぎっちりとライブスケジュールが組まれていたお陰でもうすでに時刻は22時を過ぎ、着ていたTシャツは汗だくで絞れてしまいそうだ。

 このライブハウスはそういう時にきちんとバース性で別れて着替えが出来るようにロッカー室だけはとても広くて、もっと高時給バイトはあったがそこが気に入って総司はここでのバイトを決めていた。

 ライブハウスでのスタッフなんて、人の入れ替わりは激しいし重労働だしで人が長く居着く事は少ないバイトだ。バンドが好きだったり自分も音楽活動をしていたりする人間以外は、そうそう馴染みの顔ぶれにはならない。

 その中にあって珍しく彼は何度か顔を会わせる馴染みのαだったので、総司は指摘されて少しばかり冷や汗を浮かべてしまった。

 名前は……名前は、なんといったっけ。


「あのさ、それ、マジで気をつけたほうがいいぞ」

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