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第四話

 けれど、一人では何も出来ずただソファに座っている事しか出来ないシンを「しょうがないでしょ」と肯定してくれていた総司のお陰であまり思い詰めずにいられた、と思う。

 わからない。αだった時代には常に自分に自信があって自己肯定感だって物凄く高かったはずだが、暗黒の5年間とΩになった事で意識まで変化してしまったのではないかと、自分でも思っている。

 何より、ここ数日あまり体調がよくない。

 総司にそれを言うのは憚られて日中は出来るだけ横になって耐え、夜に起き出してこうやって総司を待っているのだけれど、やはりどうにも胃の調子がよろしくない。

 そういえば最近、医者のすすめで固形物を食べる事にチャレンジし始めたのだっけと思い出すが、それが原因なのかも分からなかった。

 監禁時代に食べていたものは、正直何だったのかよく分かっていない。真っ暗な中で口の中に押し込まれる物がちゃんとした食べ物だったかどうかも怪しいし、時折酷い匂いのベタベタした物も食べさせられたので腐ったものを食べていた可能性もある。

 それを思うとちょっと固形のものを食べただけで腹を壊したというのはあまり考えられないような気がするし、何よりこの胃の調子の悪さは腹を下している時のものとはちょっと違う気がした。

 常に吐き気はあるけれど、発情ヒートのそれとも感覚が違う。もしかしたら風邪でもひいたのかもしれないが、それならそれで総司に伝えるのはやはり気が咎める。

 何も出来ないポンコツのくせに体調を崩すなど、ついに総司に呆れられて捨てられても仕方のない所業だ。

 この体調で捨てられれば、流石に生きていく自信はない。仕事のないΩは身体を売ったりしてなんとか金を得ると聞いたことがあるが、αだった時代には心底に軽蔑していたその方法でしか生きていく事も出来なくなるだろう。

 それだけは、避けたい。

 なけなしのプライドが、身体を売って金を稼ぐ事を全力で拒絶していた。最早綺麗な身体でもないのだから今更といえば今更なのだけど、それでもほんの少しばかり残っているプライドだけは守りたいと、思ってしまう。

 何より、総司に捨てられるのは嫌だとシンは思っていた。

 彼はシンにとって何者でもない。ただ自分を見つけて外に連れ出してくれた人だという、それだけのことだ。総司にとってはただの気まぐれかもしれないし、今養ってくれているのだって何らかの目的があっての事のはず。

 それでも、それでもいいから、と、思ってしまう。

 総司に捨てられたらもう、ボロボロの心を守り切る自信がない。

 勿論そんな事を総司に伝えれば酷く重いだろうという事は分かっているので彼に伝えるつもりはないけれど、いつだって捨てられる覚悟だけは決めておこうとは、思っている。

 捨てられたら今度こそきちんと自分で自分に引導を渡そう。そう思って、キッチンにある包丁やペン立てに刺さっているカッターなんかの刃物の位置だけはきちんと、覚えていた。

 自分のこういう思考は良くないものだという事は、シンとて分かっている。しかし番の居ないΩの精神的不安定さは少し前に総司に連れて行ってもらった病院で説明されていたし、そこで貰った第二の性についての冊子にも重要な話としてきちんと書かれてもいた。

 Ωの抱く不安感は、不安定なヒート周期やフェロモンのゆらぎ、そして性行為をしない事による飢餓感がそうさせてるもの、らしい。

 まさかΩにとって性行為が必須なものであると知らなかったシンにとっては衝撃的な話ではあったが、Ωが「満たされる」のであれば性行為でなくても良いという話を聞けば納得をするしかなかった。

 番を持たなかったり捨てられたΩが風俗や売春で己の身体を安売りする理由は、きっとそこにあるのだろう。

 愛されないのならばせめて身体だけでも必要とされたい。

 自分が存在している理由が欲しい。

 そんな気持ちがΩを肉体だけの関係に誘うのだろう。

 シンとて、もしも総司が自分を抱いてくれたのならばこの飢餓感やネガティブな思考は薄れるのだろうかと考えたことは、ある。

 そして「薄れるだろう」という結論を出すまでにそう長い時間は必要なくって、イコール今の自分は本当にいただ総司のお荷物でしかないという結果までオマケでついてくるのだ。

 そもそもが、総司とシンの間にはそこそこの年齢差がある。総司が小学校を卒業する頃にやっと入学をする年齢になる総司と十代の頃に出会っていたなら、こんな子供に守られるなんてとんでもないと激怒する所だ。

 逆に言えばまだ若く未来ある総司に自分という存在の責任をとらせるなんてとんでもない事だ、と思う。もうすぐ30の大台に乗るシンは、決して自分はブサイクではないだろうとは思っているがあの溌剌とした若さを前にしてしまうとどうにも駄目だった。

 短く揃えられた髪に、意志の強そうな太い眉。身体だってアスリートだったというだけあって、近年水泳に励んでいたらしく立派な筋肉がついていた。

 橘邸を連れ出された時にヨロヨロとしか歩けなかったシンを抱えて小走りになっていた総司はきっとモテるのだろうなぁ、とも思う。そういう要素が人間の形をしているのだ、高瀬総司という男は。

 彼がヴィランだったなんて信じられない。

 ニュースを見ていても眠気がやってきてソファに仰け反ってなんとか眠気を誤魔化しつつ、シンは思う。

 彼がヴィランになった経緯は一応聞いている。その経緯を「その程度」と笑うような事は勿論しないけれど、それらを聞いても総司は「ヴィランらしくない」とどうしても思ってしまうのだ。

 だって、生粋のヴィランであったなら、あんな場所であんな格好をして閉じ込められていたシンは、とっくに乱暴された後に殺されていてもおかしくはなかった。

 当時まだ総司がシンの事を「橘の御曹司」であると気付いていなかったからというのもあるのだろうが、それでも、知っていたとしてもきっと彼は自分を殺さなかったのだろうなとも思ってしまう。

 理由は、わからない。

 わからないけれど、なんとなく、そうであればいいなと、思ってしまって。

 はぁ、と、ため息をつく。最近総司が居ない時は、こうしてぐるぐると答えの出ない事を考えるようになってしまっていた。

 内容は決まって総司の事だ。

 何で自分を助けてくれたのかとか、何で番にするでもなく自分を置いてくれているのだろうとか、なんで自分を抱かないのだろう、とか。

 考える事は沢山あるし、逆に考えたくないことも沢山ある。テレビをつけたはいいが思考にどっぷりと溺れきって戻ってこれないことだって、この4ヶ月の間に何回かあった。

 その度にすごく気持ち悪くなって、でもろくなものを食べていない今のシンには吐けるものだってないからただただ気持ちの悪さだけが胃に溜まって何度も何度も唾液を飲み込んで我慢をするだけになってしまう。

 吐き気は総司が帰宅すれば自然となくなったのでフェロモン由来のものかもしれないというのも自覚はしているけれど、それを受け入れるかどうかはまた別の話だ。

 Ωにされてもう5年と少し。それでも、やはりαとして生きてきた時間が長いからか「自分はΩである」と納得するのは、難しい事だった。

 馬鹿らしい、とは自分でも思う。

 とっとと受け入れて、とっとと認めて、フェロモンの制御だとかそういうのに集中しなければいけないというのだって、分かっている。

 こんな年増のΩだ。早く総司を開放して一人で生きる手立てを作るなり、せめて自分を養ってくれるαを探すなりしなければいけないというのだって、わかってはいるのだ。

 でも、シンはいつだってこのソファの上で膝を抱えて丸くなるだけしか出来ない。

 早く、早くと焦れば焦るだけ身体は言う事をきかなくなるし、総司から離れる事を考えるだけで血の気が引くような心地にだってなってしまう。

 愚かだ。馬鹿者だ。

 今はただ、助けてくれた人間に依存をしているだけ。そんな自分の都合に、あの若者を巻き込んではいけない。

 まして彼の怪我の治療にあてるべき金を自分に使わせるなんて、あってはいけない事なのに。


『息子を無事に返してくれれば、報奨金を出しましょう。罪にも問うことはしません。私が求めているのは、ただあの子が無事に戻って来るという、それだけなのです』


 テレビから流れてくる父の声に、ついにシンはソファの上で背中を丸めて嘔吐していた。

 いけない、と思った瞬間にはもう遅くって、父の声だと脳が理解すると同時に胃袋がビクリと跳ねて喉の奥から堪えきれなかった吐瀉物が唾液と共にフローリングの床を叩く。

 あぁ、やってしまった。

 何度か嘔吐してようやく吐き気がおさまったシンは、急いで片付けないと総司にこの無様な姿を見せてしまうという事だけを考えていた。

 カーペットでなくてよかっただとか、フローリングでも急がないと染み込んでしまうだとか、嘔吐したせいでクラクラする頭でそんな事ばかり考えてしまう。

 だから、気付くのが遅れてしまった。

 よろよろと立ち上がってまずはトイレットペーパーを持ってこなければと立ち上がった時にうっかりと、よろけてふらついた足が自分の吐瀉物を踏んでようやく、シンは己が吐き出したものが思っていたものと違う事に気がついた。

 蓮の花だ。

 どうしてか、吐瀉物があるべき場所に蓮の花が何個か、花開いた状態で落ちている。花弁が落ちているもの、揃っているものかはまちまちで、けれどその姿は今まで宗教画だとか絵画の中で何度も見たことのある蓮の花に間違いは、なかった。

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