総司の帰宅を待って眠い目を擦っていた真は、水を飲んだり炭酸水を飲んだり窓をちょっとだけ開けて冷たい風を頬に当てたりと何とか眠気を我慢したものの迫りくる睡魔との戦いに負けそうになってしまっていた。
総司はいつ寝てもいいと言っていたし、ソファで待っていたのに起きている事ができなかった真を責めた事なんかは一度もない。けれど、養われている身としてはせめて出迎えくらいは――と思って失敗するという事を、ここ3ヶ月ばかり真は繰り返していた。
なんとも情けない話だ。総司は「仕方がないよ」と言ってはくれるのだが、最早消し炭になっているはずの真のプライドが、その「仕方ない」を許せない。
だが一度こうなってしまうとどうしたって眠気に頭が持っていかれてしまうので、真は意識をはっきりさせるために仕方なくリビングに置いてあるリモコンを手に取った。
橘家から連れ出された真と総司の生活において絶対と決めた約束はただ一つ。使ったものは元の場所に置いておく、という事だけ。だからリモコンはいつも同じ場所にあるし、使ったならここ、という目印のリモコンケースも置かれていた。
ただ、このリモコンケースにはエアコンや照明のリモコンまで一緒に入っているせいで最初真はどのリモコンを使ってテレビをつければいいのか分からずに無駄に照明をつけたり消したりしてしまったものだ。
人間、ほんの数年でも文明から遠ざかれば知っていた事もわからなくなってしまうのだなと愕然としたのは、その時。
当然知っているはずの事が分からなかった事は真にとってはとてつもないショックで、思わず泣いてしまった所を総司に慰められたのは恥ずかしい記憶だ。自分は総司よりも年上なのに、あの若者に甘やかされるばかりだなんて、なんと情けない。
総司と出会い、連れ出されてからもうすぐ4ヶ月。長いようでいて一日の殆どを眠って過ごしている真にとってはあっという間の日々だ。
実家の地下に監禁されていた時には一日があまりにも長くって、辛くって、早く死にたいとばかり思っていたし父の帰宅なんかはただただ恐ろしいばかりだったというのに、今は総司の帰宅が待ち遠しい。
一人で家に居るのは、怖い。
以前発作のようにヒートが起きた時に隣家のβが部屋から溢れた真のフェロモンに誘われて部屋に来た事があったのも、一人が嫌な理由のひとつだ。
出会ったばかりだし、何故総司が自分を連れ出してくれたのかも真にはわからない。真がヒートを起こしている時にも抑制剤を規定量以上飲んでまで我慢してくれていたし、そんな状況でも総司は真の世話だけはしっかりしてくれたので少なくとも悪感情はないと思うのだが、その思惑までは真は分からないままだった。
最初は橘への人質というか、身代金目的の誘拐なのではないかと思ったりしたこともある。
だが「自分に払う金は橘にはないと思う」と紙に書いて見せた時に思い切り叱られたので、多分目的は金ではないのだろうと真も今では理解をしていた。
でも、じゃあ何で助けてくれたのだろうか。
チャンネルのボタンを適当に押して流れていく番組をぼんやり眺めていると、ニュースに切り替わった画面の中で妹が涙ながらに「兄を返して下さい」などと言っている場面にぶち当たった。
2歳下の妹とは、比較的仲が良かった……とは思う。だがお互いに成人すると、橘の後継者争いをする中で彼女は表立って真を敵対視し始めた。
可愛かった子供の頃の妹とはまるで違う敵意に戸惑った真はただ彼女の前に出来るだけでないようにするしか対処が出来ず、そのうちヴィランに拉致されて決定的に接触がなくなってしまった。
彼女はきっと、自分がΩにされた事は知らないだろう。
だが、彼女に最後に会ったのは真が
真がΩにされたのは、5年前のこと。
当時23だった真は支援している【勇者】の支部に顔を出して様子を伺った後、【勇者】たちの戦闘痕の補修工事の手配をしてから家に戻る際にヴィランに襲われた。
突如襲ってきたヴィランに抵抗しきれなかった瞬間に――いや、完全にこの辺にいるヴィランたちをただのチンピラと同じ存在だと軽んじて全てを部下に任せようと放置を決めたその時に、運命は切り替わっていたのだと思う。
首謀者は、慎専属の運転手だった男だった。
20ほど年上で、子供の頃から世話になっていた男のことを真は第二の父のように慕っていて、【勇者】としても有能な彼が居るからこそ自分は自分の身を守ることを優先する事が出来ていた。
なのにあの時、運転手の男は慎の腕を掴むとキツく首を締め上げ、真の声を奪った。
鮮やかすぎる手際だった。【勇者】としての訓練を受けてきていた真の特殊能力は声を使うもので、だからこそ強力なものだったが、声を失えばただの無力な人間でしかない。
彼は最初からその瞬間を狙っていたのか、真の声を奪うと同時に意識が落ちるまで首を絞めあげ、目覚めた時にはもう抵抗の術を失っていた。
声も出ず、背中で指の一本一本までを拘束された状態では身を捩る事しか出来ず、さらに強力なαのフェロモンに押し潰された真は、何も出来ずに蹂躙された。
どこまで意識があったのかは覚えていない。わかるのは、自分が「壊された」という事だけだ。
同じα同士でも、自分より強いαのフェロモンを受ければ失神したり抵抗する術を奪われるというのはよくある事で。今思い返しても、自分がΩに変質してしまうほどに「壊された」のも勿論だが、自分よりも強いαに屈服させられたというのも悔しくて悔しくてたまらない。
しかもあの場には運転手の男も居て、あの男もまた息子のように可愛がっていた真をおもちゃのように扱った。抵抗する真を殴り、肩を外し、抵抗の術を奪ってから笑いながら蹂躙したのだ。
お陰様で真は早々に自分の生存も今後誰かを信じるということも放棄して、早く殺される事だけを祈りながら目を閉じた。もう全てがどうでもよくて、今までの自分の人生の意味すらもわからなく、なって。
その後のことはもう思い出したくもない。
救出されたと分かったのは病院だったけれどあの運転手の男は変わらず橘家に居たし、退院する時にだって普通に真のために車のドアを開けたのだ。ニヤニヤと、真を蹂躙した時と同じ笑顔を浮かべながら、いつものように、何も変わらずに。
変わったのは、橘家の中での真の立ち位置だけだ。
自分よりも強いαに屈服させられた真の事を両親は決して許さず、橘の汚点だと癒えていない身体を殴り、蹴り、あの真っ暗な部屋に閉じ込めた。自分がΩになっている事を知ったのは、あの部屋に入れられてからちょうど3ヶ月が経過した時だ。
もしかしたら父はあの時にはもう分かっていたのかな、なんてニュースの画面を眺めつつ思う。だから、真が救出された事をどこにも知らせずに今更に騒いでいるのかもしれない、とも。
それから5年、真はあの部屋で過ごした。
総司に連れ出されて新聞を見て初めて5年も経過していると知った時には動揺して泣いてしまったけれど、今はもう何の感慨も沸かない。
ヴィランどもに潰された喉も、今ではすっかり馴染んで最初から口がきけなかったのじゃないかと思うくらいにどうでもいいものになってしまった。
むしろ、今こうして自由にテレビを見ることが出来ている方が違和感だ。あの暗闇の中では時間の流れも分からず、食事だって一日二日もらえないのは当たり前で、生きている価値といえば父のストレス発散の道具になっていた事くらいのものだろう。
殴られたり火で炙られたりと好き勝手扱われた身体の表面の感覚は、最早鈍い。火傷の痕だとか切り傷だとか、そういうものの治療をしてくれた医師に「痛くないのか」と聞かれてきょとんとしてしまったくらいには、痛みなんてものはまるで感じられなかった。
ただ、熱が出るのは困る。
熱が出ると、身体のどこが痛いとかではなくただただ動けなくなってしまうので厄介なのだ。
ただでさえ総司を待つ事くらいしか出来ない自分が更にポンコツになる感覚は、言葉に出来ない。
総司のために何かがしたい、とは思う。
だが、23までは御曹司として生きてきた真に出来る事なんて米を炊いたり風呂を沸かす事くらいで、それだって監禁されていた5年間の中で記憶が薄れていってしまっていた。
自分は何も出来ない。
それを改めて突きつけられる日々は、時々泣いてしまいそうになるくらいには情けない時間だった。