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第一話

「シンさーん、起きてる?」


 朝。高瀬総司の朝は同居人が息をしている事を確認する事から始まる。

 最近始めたバイトは高時給なだけあって拘束時間が長く、出来るだけ多く金の欲しい総司にとっては願ってもない時給ではあったが同居人を見守る事が難しいのだけが難点だった。

 朝、出勤前に同居人が生きている事を確認してから起こし、朝食がある事を伝えて可能ならばホットミルクを飲ませる。その時に同居人の身体の傷の状態を確認できれば尚良い。

 バイト先は近所なので昼に戻って来る事もできるが、仕事が詰まっている時には戻って来る事は難しくてここしばらくは戻れていない。それでも、用意してある昼食は毎日綺麗になっていて皿も洗われているのできちんと食べているようで安心する。

 夜は、同居人が起きている時に戻ってこれれば御の字だ。何しろまだ身体が万全ではない同居人は身体を回復させるためか眠っている事が多くって、夜だって20時まで起きている事が出来れば夜ふかししたと言えるレベルだ。

 今どき小学生だってそんな時間に眠りやしないのだが、今の同居人にとってはそれが限界なのだろう。

 それでも毎日眠気には抗っているのか、ソファで眠っていることが多いのが総司には嬉しかった。

 毎日20時に仕事を終えて戻って来る総司の顔を見たいと思ってくれているのだろうという事が、言葉にはしないがそう思ってくれていると分かる行動が、何よりうれしいのだ。

 同居人――橘シンをあの橘邸から連れ出して、すでに3ヶ月が経過していた。

 あの日、シンを連れ出した総司はそのまま現場を離脱してすぐに家に帰宅して身を隠した。襲撃に加わっていたヴィラン仲間は一斉襲撃のために招集された無作為のメンバーであり、総司の本名も住所も何も知らない者しか居ない。

 なんならあの日マスクで顔を半分隠していた総司の素顔だって知っている者は居ないだろう。それでも気にしないくらいには、適当に選ばれた者たちだけだったのだ。

 確認されたのは、【勇者】に登録されていないかどうかだけ。

 それも口頭での確認だけで、襲撃をしたら後の行動は特に制限もされていなかったからあのまま離脱していても何の問題もないだろう。

 それでも完全に安心は出来ないと思った総司は、両親に頭を下げて即座に引っ越しを敢行した。

 救出直後で寝込んでいたシンを連れているというのはあまりにも大きなハンデだったが、ワンルームで適当に暮らしていた部屋に二人で居るわけにもいかない。

 だから、総司は両親に頭を下げて「再出発のために」と説得してあの日総司が遭遇した事故の賠償金の中からいくらかを融通してもらった。

 両親的にはこの賠償金は折角勝ち取れた少ない金だからと総司の足の治療費に使ってほしかったようだが、まずは精神の安定のためだと頼み込んで引っ越しに使わせてもらった。

 ワンルームではなく2DKの部屋で、今まで住んでいた部屋とは全く関係のない地域へ。それでも、引っ越しの際にはシンに負担がかからない程度の場所へ。

 そうして決めた部屋は大急ぎで決めたにしてはなかなかいい部屋で、ベランダから手を伸ばせば触れる事が出来そうな距離にある桜の木が総司のお気に入りだった。

 まぁまだ寒い時期なので緑の葉どころか葉っぱの一枚もついていないけれど、後何ヶ月かすればきっと美しい桜が見える事だろう。その少し後には毛虫に悩まされるだろうが、そこはアパートの大家に頑張って頂きたい。

 シンは、突如外に連れ出した総司に対して文句も質問もしてはこなかった。

 やせ細った身体で目つきだけは鋭くギラギラとしていたシンは、しかし起きていられる時間はとても少なく一日の大半を眠ってばかりだった。

 総司がその理由に気付いたのは、引っ越しをする前に足を運んだ闇医者の所で発覚した。

 この闇医者はヴィラン御用達の元医者で、学会を追放されてからは裏でこっそりと闇医者を営んでいる変わった男だ。しかし元々は正しく医者だったためか口が堅く、ヴィランが利用しても秘密が守られるということで裏では相当人気のある医者で。


「まだ身体がΩに適合してないようだねぇ」


 まだ40そこそこなのに髪がすっかりと白髪交じりになっている眼鏡の医者は、横に立っている若い助手の手から計測結果を受け取りながらそう言った。

「彼は元々はαだったみたいだが、ビッチングでΩになっているようだね」

「びっちんぐ……?」

「αが、度重なる性行為によって第二性を強制的に変質させられることだ」

 返事をしたのは、若い助手の方だった。短い髪に変なマスクをつけた助手は、恐らくは総司とそう年齢も変わらないだろうが口元が見えない分だけ年齢がよく分からなかった。

 やけにまつ毛が長いから女なのかもしれないが、スラッと細身の身体は男のようにも見えてどうにも判然としない。それでも怪我の治療をコイツがしてくれている事も多いので、総司は意味がわからない言葉も黙って受け入れた。

 ビッチング。αが恋人との性行為や、望まぬ乱暴のためにΩへと変質してしまう非常に珍しい特殊な現象。元α、と聞いた時には、総司は「そりゃそうだろう」と納得はしていた。

 何しろあの橘の御曹司だ。

 連れ出した時には分からなかったが、医者に来る前に軽く調べれば橘にはある日突然表舞台から姿を消した長男が居る事がわかって、本人に確認をしてみれば黙って頷いたので間違いはないだろうと総司は踏んでいる。

 【勇者】たちに支援を行っている事を誇りとしている橘コーポレーションは、突然Ωになった長男を受け入れる事が出来なかったのかもしれない。

 一族の恥として、あんな脱出不可能な地下室に閉じ込めて飼い殺しにしようとしていたのかも、しれない。

 本人が何も言わないので分からないが、おおかたそういう事だろうと総司は思っていた。橘の後ろ暗い話は少し調べればいくらでも出てくるのだ。今更ひとつ増えた所で驚きはしない。

「あと、彼が言葉を発しないのは声帯が問題しているようだねぇ」

「声帯……?」

「あぁ。古傷だけどね、ナイフか何かの鋭い刃物で声帯を破壊された痕跡がある。恐らくは2から3年くらいの間だろう」

「……もう喋れねぇって事スか」

「……そうだね。アレは、相当腕の良い治療系の特殊能力者を探さない限りは治療は難しいだろう」

 シンは検査が終わると疲れ切ってしまったのかベッドで眠っていて起きる気配はなく、その話は聞いていなかったが、それでよかったと総司は思う。

 橘家の汚点とも言えるΩになった元αの長男の、潰された声帯。それは、「何故ビッチングが起きたのか」と「彼に寄り添う番がいない」という事で答えが出てしまっているような気がして、総司は深くため息を吐き出した。

 シンに何があったのかは知らないし、聞くつもりもない。

 そういう事を知りたくて彼をあそこから連れ出したわけではないから、どうだっていい話だ。

 しかし過去に色々あったのだろう彼が明らかに怪しい総司についてきたのは、いささか不用心と言わざるを得ない。まぁ彼としても「これが最後のチャンスだ」と思ったのかもしれないし総司だってそう思わせるような言い方をしたのだけれど、なんとも複雑な気分だ。

 だって、初めて会う怪しい男に――家を襲撃してきたヴィランに大人しくついてきてもいいと思ってしまう程度には、あの地下室での暮らしが過酷だったという事なんじゃないのか、それは。

「今フェロモンが出ているのも、Ωへの変質の結果ヒートが安定していないからだろうね。今は抑制剤が効いているけど、今後もフェロモンがダダ漏れなようなら外には出さない方がいいだろうねぇ」

「それってなんとかならねんスか」

「うーん……Ωのフェロモンは性行為でのみ落ち着くものだからねぇ」

 うーん、なんて言いつつ、医者の返答は自分に対する圧力だと、総司は思った。

 性行為で落ち着くものをなんとかしたいなら、お前がするしかないだろうと言いたいのだ。だが、それを医者の立場からストレートに言う事は出来ないからぼかしているだけ。

 総司は、無意味に頭をガリガリとかいていた。

「一先ずは半月分の抑制剤を出しておくよ。一日二回、朝と夕方に服用する事。もしこれで落ち着くならそれでもいいけど、落ち着かなかったらいよいよちゃんと対処をしなければいけないよ。この半月で問題がなければ市販の薬に切り替えてもいいから」

「……はぁ」

「はぁ、じゃない。お前の連れているΩだろう」

 市販薬の名前を書いたメモを受け取りつつもなんだかぼんやりしている総司の返答に、助手が苛ついた表情で腕を組む。

 総司アルファの連れているシンオメガ。Ωのフェロモンは性行為でのみ落ち着かせる事ができるもので、その効果は勿論βとの行為よりもαとの行為の方が効果的に決まっている。

 お前が連れているΩだろうというのは、シンのフェロモンが無作為にαを誘わないように対処しろという忠告とイコールだ。

 自分の意志で橘から連れ出したのだから連れ出した責任を負うのもまた総司しか居ないわけで。それならば、いざという時には腹を括るしかないなと、受け取った抑制剤の束を受け取りながら総司は口をへの字にひん曲げた。


「シンさん、起きて」


 幸いあれからシンのフェロモンは抑制剤で落ち着いてくれてはいる。

 今も、総司の帰宅を待っていたらしいシンはすやすやとソファの上で丸くなっており、うなじに顔を埋めてもフェロモンが暴走している気配もない。

 しかし3ヶ月が経過しても一向にヒートが起こらない事を考えるともう一度医者を受診したほうがいいのかもしれないと、総司は苦々しい気持ちで思っていた。

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