地下室でぼんやりとしていたのは、男のΩだった。
匂いでわかる。隠しもしていないフェロモンは鼻から入って脳を突き刺すようで、総司は一瞬クラリと目眩を起こして必死に頭を振って意識を保った。
年の頃は総司と同じくらいか少し上だろうか。ヨレヨレの浴衣一枚のその身体は痩せていて足首の枷のせいで肌がそこだけ黒ずんでいる。
ボサボサに伸びた髪に隠れているが顔は恐ろしく整っていて、意志の強そうな目尻は少しキツく上がっていてぼんやりしていなければきっと鋭い視線を送ってきていただろうと総司は思った。今はその目も隈が濃く落ち窪んでいるが、それでも尚顔の造形が崩れていないのは凄い事だと素直に感心してしまう。
それにしても、フェロモンに混じって臭ってくるこれは恐らくはそこそこ長い事風呂に入ってないための異臭だろうか。よく見れば彼が尻に敷いている布団はぺたんこで、垢なのか茶色っぽい色にくすんで汚れている。
橘は地下にこんなΩを飼っていたのか。
Ωに優しい企業だとばかり思い込んでいただけにショックで、そこでようやく総司は橘コーポレーションへの幻想を捨てきれていなかった事に気がついた。
自分を捨てた企業だというのに、Ωだというだけで優遇してくれるとでも思っていたのだろうか。だとしたら、自分はとんだあまちゃんだ。
軽く舌打ちをしながら、ゆっくりとΩに近づいていく。
よくある座敷牢だとかそういうのではないが、こんな構造をしていたら逃げ出す事は出来なかっただろうしよく見れば足首の鎖はすぐ近くにあるトイレへの往復くらいしかマトモに動く事もできなさそうな長さだ。
トイレだけきちんと水洗のものがつけられているという事に逆に吐き気を覚えつつ、ぼんやりとしているΩの視界に入るように天井を向いている目の前に立ってみる。
Ωは、僅かに目を揺らしただけで何の反応もしなかった。
「おい、生きてるんだろ」
Ωからの返事はない。しかしΩは返事の代わりのようにゆっくりと首を前に動かして、また動かなくなった。
生きてはいる。しかし表情の変化はなく、変化といえば頭の動きに合わせて流れる髪くらいのものだろうか。無視されたわけではないが反応がないことに苛立って今度はしゃがんでΩの視界に入るようにすると、Ωはやっと少しだけ、総司を見た。
「今、橘家はオレの仲間が始末してるところだ」
反応はない。ゆっくりとした呼吸の音だけが、聞こえる。
「お前、このままここに居たら殺されるぞ」
いや、殺されるだけでは済まないだろう。何しろΩだ。今は子汚い姿をしているが顔はいいから綺麗に整えられた後に売り払うかリーダーのペットにされるかのどちらかの道に向かうだろう。
Ωは男でも妊娠出来るから、これだけ顔のいいΩであれば子供を産むための道具としては引く手あまたかもしれない。子供だけ仕込んで産ませれば、最低限この顔の遺伝子を継いだ子供が生まれてくるという事だから顔のいい子供を求めているαたちには人気も出るだろう。
つまり、このΩの行く先に待っているのは地獄だ。
今ここに居るのだって地獄には違いないだろうが、連れ出されても地獄。いっそのことここで死んでしまった方がこのΩのためになるのじゃないかと思ってしまうくらいには、悲惨な末路しか想像は出来なかった。
産み育む性、だなんて言われているが、実際のΩの扱いなんてそんなものだ。本当に大事にされているΩなんて現実には一体どのくらい居るのだろうか。
子供を産ませるだけなら女でもいいワケだし、わざわざ男のΩを囲うのは変態趣味の金持ちばかり。まして「男」というプライドを壊されるような行為を強いられる男のΩは、自分の性を隠して生きるのが当たり前の時代だ。
一応法律ではΩの保護だとか非同意での性行為の禁止だとか色々言われてはいるが、男のΩにそれらが適用されないのもまた事実。第二の性が出てくる前から男の性被害はほとんど無視されてきたというし、「男」に「産める性」がついたら余計に偏見の目にさらされるのは仕方のない事だろう。
それは総司が男でαだから言えることなのだろうけれど、自分がΩだと発覚した段階で自殺を図る男が後を絶たない程度にはΩが恥ずべき性と言われているのはまぁ、事実だ。
男でも女でも関係なくαを誘ってしまうフェロモンが、その理由だろう。αを手に入れたい、αと性交したいとでも言うように放たれるフェロモンは、正式な
フェロモンを放つことでαを誘うからと、Ωが「はしたない」と言われてしまうのは生物学的にどうしようもない事なのだろう。
現にこのΩも、フェロモンを放っている。
本人が無意識なのかどうかはわからないが、甘ったるい匂いは花のような果物のような、とにかくそれらを砂糖で煮詰めたような匂いでくどく胸焼けをしそうなのに、目眩がするほどに「イイ」。
総司は強く息を吸い込んでからゆっくり長く吐き出すと、手にしていたコンバットナイフでΩの足に繋がっていた枷の鎖を一息に切断した。
多分今自分は、このΩのフェロモンにやられている。
それは分かっているのだが、めちゃくちゃにくどいこの匂いにすっかり股間は熱くなり、脳が「このΩを手に入れろ」と信号を送ってきていた。
だが今ここで性行為になだれ込むほど、総司は愚かではない。まぁ多分、彼から臭ってくるフェロモン以外の匂いが冷静さを保ってくれたというのは少しはあるかもしれないが。
「このままここに居ても死ぬだけだ。オレがここから出してやる」
僅かに、Ωの目が見開かれた。
あ、コイツ青い目してんだ、と気付きはしたが、それ以外の事は今はどうでもいい事だともう1本の鎖を切断しながら思う。この顔のいいΩが他の仲間に見つかれば、その場でめちゃくちゃにされるのは目に見えている。
何となくそれは嫌だ。総司が鎖を断っている理由は、それしかない。
基本的にゆるい総司の居るグループの唯一の決まり事は「見つけた宝は見つけた奴のもの」だ。だから、このΩを自分が連れて行ってもルール上は問題がないはず。
だがΩのフェロモンがαのラット(*1)を誘発する可能性もある以上は、そのルールだけを信じてはいられない。
「今ここを出なきゃお前はこの後オレの仲間たちに遊ばれて売られるだろうな。今オレと逃げるか、ここでぼんやりしてるか、お前が選べ」
Ωがやっと、真正面から総司を見る。
その目には困惑の色があり、なんで総司がそんな事を聞くのかとでも言いたげで――とても、不安そうで。
こんなにも強いフェロモンを発している優秀なΩは、場所が場所ならαを囲って逆に女王蜂にでもなれたはずだが、コイツはただただ虐げられてでもいたのだろうか。
じわじわと青い目に浮かんでくる涙がなんだか酷く痛々しくて、さっきまで痛かった股間が一気に沈静化していくような、なんとも言えない心地になる。
「オレは高瀬総司だ。オレを信じる事が出来るなら、お前がオレの手を取れ」
ガシャッ、と音をたてて、最後に両手首と首を拘束していた鎖を断つ。コンバットナイフでもあっさりと斬れてしまったこの鎖は錆びていて、少しでも力を入れれば簡単にちぎれていたかもしれないと思ってしまうような代物だった。
それでも「この場に居続けた」このΩは果たして逃げようとしなかったのか、鎖が脆いなんて知らなくて逃げる事すら考えていなかったのか。
それとも、なにか逃げられない理由があったのか?
総司は今は閉じている本棚の扉を確認しに上がると、内側から開くボタンがあるのに気付いて一応それを開いてみた。
隠し扉は驚くほどあっさりと開いて、これならば本当に鎖さえ千切ってしまえれば例えΩ一人であっても簡単に逃亡は出来ただろうにと思ってしまう。
「どうする? 決めるのはアンタだ」
振り返って、階段の下からじっと総司を見つめてきているΩに向けて改めて問う。
今なら周囲に誰も居ない。そう言ってやれば、Ωがよろよろと立ち上がるのが遠目に見えた。