今、人生で初めて、見知らぬ部屋で目を覚ますという経験をしている最中だ。
起きて最初に目に入って来たのは、常夜灯にぼんやり浮かび上がる、高級感のあるグレーの壁紙。枕は自分の物とは明らかにモノが違うのがわかる。
白いコットンのリネンは肌触りがよく、あたたかくて柔らかいチャコールグレーの毛布はカシミアだろうか。その上にはふっくらした羽毛布団。
極上のぬくもりで、いつまでもベッドから抜け出せそうにない――のだが、のんびりお布団を味わっている場合ではない。
七瀬は擬音が目に見えそうなほど勢いで飛び起き、部屋中を見回した。
「え、どこ……」
広い部屋だった。十二畳くらいで、七瀬が寝ていたセミダブルベッドの隣にも、もう一台もぬけの殻のベッド。でも、誰かが寝ていたという気配はない。鞄やヨガマットといった、七瀬の荷物が揃えて置かれている。
ダークグレーのカーテンがかかった窓は、全面窓だろう。
(ホテル……!?)
恐る恐るベッドから下りたが、チャコールグレーのウッドフローリングは暖かい。床暖房が入っているようだ。
コートハンガーには七瀬のコートがきちんと掛けてあり、家主(?)の律儀な性格が表れていた。
「え――え――!?」
昨日の記憶が、どこを探っても出てこない。
服は昨日のままなので、変なことがあったわけではないようだが、何も覚えていないことに恐怖を感じた。
震える手でカーテンをちょっとだけ開けてみたら、まだ暗いもののうっすらと明るくなりかけている時間だ。
ところどころに点いている街灯や看板の光、早朝に稼働し始めた店の灯りが微かに見えている。
「…………あっ」
あわてて室内を振り返って時計を探し出すと、サイドテーブルのデジタル時計が午前五時三十分を指していた。
今日は日曜日だが、宗吾が出張で不在とわかっていたので、早朝のオンラインレッスンを代行することになっていたのだ。
開始時間は午前六時半。スマホは持っているし、無線イヤホンにはマイク機能もついているから、リモートクラスを開催できないことはない。
でも、心情的にそんなことができるだろうか……。はっきり言って、そんな場合じゃないのだ。
「どうしよう……!」
お酒で失敗するなんて生まれて初めてのことだ。
ひとまず鞄の中からスマホを探し出したが、誰にどんな連絡をするべきか。焦りすぎてまったく思い浮かばなかった。
(落ち着こう、落ち着こう。まずは呼吸法……って、そこまで落ち着いてる場合じゃない!)
半泣きでおろおろしながら部屋を出たら、正面に扉がある。そっと扉を開けてみたのだ
高級ホテルさながらの洗面台と、広そうなお風呂があったのだ。
(やっぱりホテル……?)
廊下を進むと、左手に玄関、右手に扉。ガラスの入っている扉の向こうに見えるのは、リビングだろうか。
広々とした大理石の玄関には、七瀬の靴と男性の革靴が揃えて置かれている。
(ホテル……じゃなくて、陣さんのおうち……?)
昨日の記憶で最後に一緒にいたのは陣だが、彼が履いていた靴だっただろうか。そこまでは見ていなかった。
荷物を持てば、このまま帰れるのはわかったが、無断で逃げ帰るのも……。
それに、ここを出たところでリモートクラス開催の解決にはならない。三十分で自宅に帰りつけるかどうか、わからないのだから。
焦る気持ちでリビングにつながる扉を開けたら、時間が止まったように感じた。
さっきのベッドルームも目を見張るほどの高級感にあふれていたが、このリビングの広大さときたら。
ヨガのスタジオより広いかもしれない。
角部屋らしく、正面と左手の壁に大きな窓があり、レースカーテンの向こうには、うっすら明るくなってきた都心の景色が広がっている。
壁も床もグレー系で統一され、革張りソファのアイボリーがアクセントになっていて、間接照明が高級感をいや増していた。
カウンターキッチンも、テレビで見るようなセレブのお宅のそれにしか見えない。
落ち着かない面積のリビングには、ソファとダイニングセット以外に目につく家具はないが、機能的に見えた。
壁掛け時計を見たら、五時四十五分。起きてから十五分もおろおろしていたらしい。
(ここでレッスン、できるよね……)
でも、家主に無断で場所を借りるわけにはいかないし、レッスン着は持っているとはいえ、昨日から顔すら洗っていないのだ。とても人前に出せる顔ではなかった。
リビングの奥にも扉があるが、そこが寝室だろうか。
口から心臓が飛び出しそうなほど緊張しつつ、遠慮がちにノックしてみたが返事はない。まだ明け方だし、在室していたとしても眠っているだろう。
どうしようかと躊躇していたら、室内から微かな物音が聞こえ、いきなり扉が開いたので七瀬は飛び上がった。
「わ……っ」
腰を抜かしそうになったが、眠そうな顔をしたスウェット姿の陣がそこにいたので、焦るより先に安堵した。
迷い込んだ異世界で、見知った顔に出会った安堵感みたいなものだろう。
「あ、七瀬センセー……」
欠伸を噛み殺す陣に、七瀬は泣きついた。
「陣さん、ごめんなさい。場所、貸してください……!」
「……場所?」
「六時半から、オンラインクラスがあるんです!」
まだ寝ぼけている陣に昨日のことを問い質すより先に、これから早朝クラスを開催しなくてはいけないことを訴え、リビングの片隅を提供してもらうことになった。
ついでに洗面所も貸してもらい、顔を洗って身なりを整える。
タオルも簡単なメイク道具も持ち歩いていて本当によかった。大きなリュックを宗吾は嫌うが、実用面でこれに勝るものはない。
それにしても……。
大きくて白くて美しい洗面台、ちらりと背後の浴室を振り返ったら、白とベージュで統一された広々としたお風呂場には窓まであり、とても個人宅のものとは思えなかった。
(でもやっぱり、ホテル――じゃないよね? 陣さん、何者……?)
自分が今どこにいるのか、改めて謎だった。