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第2話 置き去りにされて、福が来た。

「ゆくゆくは七瀬と結婚したいし、君には俺を支えてもらいたいと思ってるんだ。ヨガは趣味にしたらいいんじゃないか? いつでもどこでも出来るのがヨガのいいところなんだろう? 家事育児の合間にいくらでも家の中でできるじゃないか」

「え、でも……私はヨガを仕事として生涯続けていきたいと思ってる。それで私が幸せでいられれば、その方が結果的に宗吾さんにもいい影響を与えられると思うから――」

「屁理屈ばかりだな! 自分の幸せだけを追求して、俺のことはおざなりでいいと?」

 席を立った宗吾の声が店内に響き渡り、静かな店内がさらに静まり返る。

 それを見てバツが悪くなったのか、宗吾は自分のコートを手にすると、足早に店から出て行ってしまった。

「あ――」

 追いかけようかと迷ったが、まだ料理を注文したばかりだ。なんという居心地の悪い場所に置いていってくれたのだろう。

 さっき、宗吾の後ろの席でドン引きしていたカップルの女性が、こそっと七瀬にささやいてきた。

「あの、余計なお世話かもしれませんけど、結婚は考えた方がいいですよ」

「お騒がせしてすみません」

 七瀬は苦笑しながら周囲の客にぺこっと頭を下げ、泡がなくなりかけているビールに口を付けた。

 一年くらい前までは、七瀬の仕事を応援してくれていたのだが、近頃は七瀬があちらこちらに仕事で飛び回っているのが気に入らないらしい。

 当初は大好きな宗吾のため、家賃も彼が七割くらい負担してくれているからと、喜んで家事を引き受けていたところもある。

 しかし近頃では早朝レッスンの日にお弁当を作れないと不機嫌になったり、地方スタジオのワークショップのために遠征することも、咎められることが増えた気がしている。

 宗吾のことは好きだが、どう説明すればわかってもらえるだろう。

 ため息をつきそうになったときだ。

「席、空いてますか?」

 下向きになっていた七瀬の視界に、スーツを着た男性が近づいてきたのが見えた。

 宗吾が戻って来たのかと思い、期待に顔を上げたのだが、そこに立っているのは宗吾ではなく、グラスを片手に持って微笑むサラリーマンだ。

 今の顛末を見て、ナンパ目的で近づいてきた人かもしれない。やや警戒しつつ背筋を立てたのだが、彼の顔に見覚えがあり、目を見開いた。

「奇遇ですね、七瀬センセー」

「あ……っ、じんさん!」

 三門みかど陣は、毎週、火曜と木曜の早朝クラスを受講してくれている生徒さんだ。

 ヨガスタジオでは、講師もスタッフも、生徒も下の名前を呼んでいる。早朝から受講してくれる男性は少ないので、七瀬にとっては印象深い生徒さんなのだ。今朝もスタジオで会っている。

 レッスンの帰り際にいつも彼のスーツスタイルは見ているが、スタジオの外で出会うとまた新鮮だ。

 背がひときわ高く、前髪をかきあげたアップバングが彼の鋭く引き締まった顔立ちを引き立てている。

 青山近辺には大企業のオフィスも多いし、値踏みするつもりは毛頭ないのだが、誂えたとしか思えないスーツやぴかぴかに磨かれた靴から、エリートの雰囲気がふんぷんと漂っていた。

 宗吾よりもいくつか年上だったはずだが若々しく、内面の落ち着きが外見にも如実に表れている。

「ここ、座ってもいいですか?」

「あっ、どうぞ。……みっともないところ、見られちゃいました?」

 彼氏との揉め事を生徒さんに目撃されてしまうなんて、かなり恥ずかしい。

「すみません、のぞき見趣味があるわけじゃないんですが、七瀬センセーが入って来たからつい注目してしまいました」

 さっきまで宗吾が座っていたソファに腰を下ろした陣は、ウェイターを呼んで先客の飲みかけだったグラスを下げさせると、自分のグラスを掲げた。

「お疲れ様です」

 乾杯の合図だ。お互いに飲みかけのグラスだが、七瀬もグラスを持って陣のそれに重ね合わせた。

 きっと、ぽつんと取り残された七瀬が気まずい思いをしないよう、気を使って声をかけてくれたのだろう。

「センセーはレッスン帰りですか?」

「はい。陣さんはお仕事帰りですか?」

「ええ。仕事の後にヨガをやったら、さぞかしすっきりするでしょうね」

「社会人の方は、夕方とか夜は難しいですもんね。でも、毎週、ほとんど欠かさず早朝からクラスを受けに来てくださって、本当にすごいと思います。いつも大事な時間を共有してくださってありがとうございます」

 そう言って合掌したら、陣が笑った。

「はは、外でもそんな感じなんですね。合掌は、ヨガ講師あるある?」

「そうかもしれないです。もう、癖で」

 楽しそうな陣の笑顔に、七瀬もついつられてしまう。

 そのとき、ウェイターがトリュフフライドポテトとグリーンサラダを運んできた。

「陣さんもよかったら、ご一緒に」

「では、お言葉に甘えて。七瀬センセーは他に何か頼みました? この店、ビーフウェリントンが絶品なので、お勧めします」

「どんなお料理ですか?」

 名称からさっぱり料理のイメージが湧かないのだが、ウェイターがメニューを開いて説明してくれた。

「牛ヒレ肉のパイ包み焼きです。サクサクのパイ生地で包んだ上質な牛フィレ肉に、マッシュルームデュクセルとプロシュートを挟んで焼き上げています」

 横文字が多すぎてまったくわからないが、メニューの画像を見るとひどく食欲を刺激される。

 あんまりのんびりして遅くに帰宅すると、ますます宗吾の機嫌が悪くなりそうだが、注文後に置き去りにしたのは宗吾だし、思いがけずに転がり込んできた楽しい時間に天秤が傾いた。

 急いで帰っても、不機嫌な宗吾と長く過ごすのがすこし苦しく思えたのだ。

「じゃあ、それもお願いします」

 ウェイターが下がると、トリュフオイルの香るポテトをつまむ。

「うわぁ、おいしい!」

 風味のいい揚げ立てポテトをさくさく食べていたら、陣が微笑した。

「さっきの男性は、七瀬センセーの彼氏?」

「はい。ちょっと、怒らせちゃいましたけど、いつもはやさしいんですよ。私がわがままを言ったせいなので、反省です」

「会話の内容までは聞こえませんでしたが、いつもやさしい人は、公衆の面前で彼女を怒鳴りつけて置き去りにはしないと思うんですよね、僕は」

「……そうですね。私も、ついむっとしてしまったんですけど、自分の感情を見つめ直すいい機会です。ニヤマのスヴァディヤーヤですね」

 すると、陣は一瞬動きを止め、七瀬の言葉を咀嚼するように考え込んだ。

「――ああ、ヨガの八支則はっしそく?」

 八支則はヨガの哲学書にある、八つからなる倫理的なガイドラインと、実践の道筋のことだ。

「はい。勧戒ニヤマは、個人の倫理や内面的な修行に関する規範です。ニヤマの中にある五つの実践のうち、自己学習スヴァディヤーヤは、自己探求と内省になります」

「彼の場合は、非暴力アヒンサーに反してるんじゃないですか?」

「わあ、陣さん、八支則の内容もご存じなんですか?」

「なんとなく、耳にさわりのいい言葉を漠然と覚えてるだけですよ。そんな深いところまでは、とてもとても」

「すばらしいです」

 ヨガスタジオでは、八支則の中の三番目である『ポーズアーサナ』をメインに行っている。

 一般に浸透している、体を動かす『ヨガ』は、あくまでもヨガの一部分であるアーサナを指しているのだ。

 その辺を突き詰めるとヨガオタク丸出しになってしまうので、講師間や、そういうクラスでもなければ、深堀して語ったりはしない。

 興味のない人に無理やり話して聞かせるのは、不盗アスティヤに反することになると思っている。他人の時間を奪うことも『盗む』と言える。

 それに、ヨガの教えまで語り出すと宗教的だと思われ、忌避する人もいる。クラスはあくまでポーズと呼吸、瞑想に重きを置いていた。

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