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君影草の見た夢の果て
君影草の見た夢の果て
chelsea
文芸・その他純文学
2025年01月01日
公開日
3万字
完結済
錆びれた農村に一人の男が戻ってきた。和馬と名乗った男は、かつてこの村に逗留した事があり、その時、ある事件が起きて追放されていた。村長は春になったら出ていく事を和馬に告げる。そこの村の娘であった深緒は、村の外での話を和馬に聞いているうちに、彼に惹かれていっていた。そうしてるうちに深緒は過去に村に起こった事件に、和馬と自分の姉が関わっている事を知る事になる。

第1話


 ”和馬が帰って来たぞぉ!”


「‥‥‥?」


 村の誰かの声を聞くと、うつむいて繕い物をしていた十二、三歳ほどの少女は、条件反射で、顔を戸口に向けた。


 窓と呼べる物は少なく、家の中は薄暗い。 村長の家ではあったが、他の家と大した変わりはなかった。


 つっかえ棒を外すと、閉まる仕組みの木戸二つだけが、唯一、昼間の明かりであった。‥が、日の出と共に起きて、日没と共に眠りに付く村人にとっては、それでも十分であったのである。


 少女は、床に斜めに走る真夏の白い光を見て、一瞬、眩しさに目を細めた。


「‥‥‥‥深緒、どうしたね?」


 働ける者は皆、畑に出ており、今、村にはごく小数の者しか残っていない。声をかけたのは少女の祖母であった。


「うん、誰か村に来たみたい」


 ミオ‥‥と呼ばれた少女は、耳の不自由な祖母に、大きな声で答えた。


 ‥‥カズマ‥‥?


 深緒はその名前に、聞き覚えは無かった。 分かった事は、その人は、この村の人では無いという事だけである。


「‥‥私‥‥ちょっと、見てくる!」


 深緒は縫い針を置くと、勢い良く、外に飛び出した。形ばかりの村の入り口はすぐそこにある。


  深緒は裸足で砂ぼこり舞う、乾いた道の上を走った。


 どの家も藁葺の屋根の上に石を乗せて、風に飛ばされない様にしてある。それら木造の家は一様に粗末なものであった。


 今は夏だからまだ良いが、冬になると、身も凍る程の冷たい風が、隙間から中に入って来る。


 冬の間は、畑仕事が出来ないので、家族は、そんな寒さの中を囲炉裏の小さな火を囲んで春を待つ‥‥‥。


 そんな小さな農村であるこの村には、旅人が訪れる事は滅多に無かった。生まれてから、ほとんど村を離れた事のない深緒にとって、外からやって来る人に、誰よりも大きな興味を抱いていた。


 旅人は、一夜の宿を借りる。そして、その代わりに地方の珍しい話しなどを、語ってもらうのである。


 そんな時、子供達が前に陣取って、旅人を質問責めにするのが常であったが、人見知りの激しい性格だった深緒は柱の陰から見てるたけであった。


 村の近くは海に面しており、そこで漁を営む家が何軒かあった。


 夏の海の先の先は、水平線と、空がとけ込んだ様に見える。


 深緒は波打ち際を走るのが好きだった。


「‥‥あれ‥‥‥また‥‥魚が‥‥」


 深緒は走るのを止めて、浜辺に目をやった。 死んだ魚が打ち上げられて、あちこちに転がっている。真夏の強い日差しの下、すでに腐臭が村の中まで漂い始めていた。


 この様な事は始めてであった。


 直接外で仕事をしない深緒ですら、今年はいつもと何かが違ってると感じていた。


 おかしな事はそれだけではない。


 漁に出るべき舟が杭につながれたままになっているのである。


 例年になく、連日、照り続きであり、海上は赤く染まっていた。それが原因である事を大人達知っていたが、誰も深緒に理由を教える事はしなかった。


 カラスの鳴き声があちこちから聞こえて来る。深緒が声の主を探すと、彼らは船穂の上に止まって黒い羽を広げていたり、半分腐った魚をついばんでいるのが見て取れた。


 深緒は、最近、まともに食事をとってはいなかったが、その景色を見ていると、気分が悪くなり、すっかり食欲がなくなった。


「‥‥‥あ、あそこ‥‥」


 少し歩くと、遠くに人だかりが見えた。どうやら残っている村中の人が集まっている様である。


 深緒はそこまで走って行ったが、人垣に阻まれて何も見えなかった。


 ‥‥どうしよう‥‥‥‥‥


 困って、少し考えた後、四つんばいで人の足の間を、無理矢理くぐって前に出た。


「‥‥うん‥‥しょっと‥‥‥」


 深緒が顔を出した正面‥‥わずか、二、三尺程先の所に、見知らぬ人が立ってた。


 男‥‥三十前後位‥‥下から見上げる男の顔は後ろに日の光が重なり、暗くて良く見えない。


「?」


 深緒は立ち上がった。背が低いので、後ろの人の邪魔にはならない。


 ‥‥‥この人が‥‥和馬?‥‥


 男はかなりの大柄であり、立ち上がった深緒よりも遥かに高かった。


 ボサボサの長い髪に、ボロボロの袴、腰には刀をさしている。そして一際目についたのは、頬のきず‥‥左の耳の辺りから、口の近くまであり、乱暴に縫った痕がくっきりと見える。


 深緒の父である村長がかけつけて来た。今日は漁には出ていなかったらしい。


「皆、ちょっとどいてくれ」


 そう言って息を切らして、男に近寄った。


「‥‥十年ぶりだな、和馬。」


 その言葉に、男は一瞬だけ顔をくもらせ、何か言おうとして口を開いたが‥‥。


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」


 結局何も言わなかった。


 男を囲む村の人達も、黙って顔を見合わせている。


「‥‥‥和馬‥‥‥よくもノコノコ顔を出せたものだな。過去の事とは言え、娘の恨み は晴れるものではない‥‥人殺しめ‥‥」 村長は怒りに肩を震わせながら、和馬を指さした。


 深緒は両手で口を押さえ、そして息を飲む。


 ‥‥娘‥‥香緒姉さん‥?


 物心付く前に死んでしまった姉の事を聞いて、深緒は不思議な思いに捕らわれた。


 仏頂顔のまま、黙っていた和馬は、そこでようやく口を開いた。


「‥‥冬まででいい、村に留まらせてほしい」 低く静かな声であったが、水に投げた小石の波紋の様に、人々にざわめきが伝わった。

「‥‥和馬、冬になったら、それでどうする つもりだ?」


「何でもいい、とにかく、ここにはいない」

「‥‥‥‥‥‥」


 村長は目を閉じて考え込んだ。


「‥‥‥‥いいだろう。例え、罪人であっても、刑期を終えて戻って来た者は、受け入れるべしとい う、お触れが出ている」


 和馬はうなづいた。


「‥‥家の納屋を使うがいい‥‥だが、冬までだ。いつまでもぐづぐついる様なら、こ の俺が叩き出してやるからな‥‥脅しでは ない」


 村長は拳に力を入れて細かく震わせている。和馬は全く動じた様子もなく、フン、と鼻を鳴らして深緒の方に向かって来た。


「‥‥‥‥‥‥」


 深緒の近くにいた人達は慌てて道を開けたが、足がすくんだかの様に動かない深緒は、ぼうっと、側を行き過ぎる和馬を見つめていた。










 和馬が村に来てから、一週間が経とうとしていた。


 最初はその事で浮き足だっていた村の中も、今は誰も関心を払う者はいなかった。そんな事よりも、もっと頭を悩ませるべき、深刻な事が目前にあったからである。


 かれこれ、二月以上も、雨が降らなかった。そんな中に猛暑が続き、この辺りの水瓶であった川は干上がり、川底の藻ですら枯れていた。


 田畑を走る、用水路は、すでに意味を為さなくなっていた。


 常であれば、この村は、それでも多少の魚で急場をしのいでこれたのだが、今年はそれすらも当てにならない状況であった。


 沖合いに出た村人の舟の上から見えるものは、真っ赤に染まった海と、その海自体が毒ででもあるかの様に思わせる、白い腹を背にして浮かび上がっている死んだ魚の群れ‥‥。 ぎりぎりの生活において、蓄えは無きに等しく、それでも秋になれば、税を納めねばならない。この様な状況において、それは叶わぬ事であった。




「‥‥‥‥村長‥‥それで、どうだった?」 遠出をして帰ってきたばかりの村長の家の周りには、日が落ちようとしている時間であったが、人だかりが出来ていた。


「‥‥‥駄目だ‥‥‥全く、話にならん‥‥」


 疲れた様にドサッと座るなり、村長はうつ向いて、静かに首を振った。


「‥‥やはり、下っ端の役人じゃ、駄目だ。上からの命令だからと、言い張るだけで、我々の状況を理解しようとはしてくれん」


 ため息があちこちから漏れる。


「‥‥ですが村長、この有り様では、食って いくのが、やっとで、とても税など納める 余裕など‥‥」


「田はどうなってる?」


「ここ、二ヶ月も一滴も雨が降らなんだで‥‥飲み水にさえ、事欠く有り様で‥‥もう井戸の水も渇れかけとるに‥‥駄目かもしれん‥‥」


 村長は、それを聞いてから、家の奥にチラッと、目をやった。


「‥‥だが、我々は生きねばならない‥‥田 を掘り返して種籾を食べていけば、しばら くは‥‥‥‥」


「村長!」


 大柄な青年が、前に出てきた。


「それを食べてしまったら、来年はどうする のです!」


「‥‥‥しかし‥‥‥」


 村長は腕を組んで考え込んだ。


 青年の言う事ももっともであったが、他にどうするべきか、考えつかず、言葉を失ってずっと黙り込んでいた。


 村人達がそんな話をしている中、深緒は隣の部屋で、布団を頭からスッポリと被って、息を潜めていた。


 それでも声は聞こえてくる。




 ‥‥それじゃどうしたら‥‥


 ‥‥‥この村はもう、おしまい‥‥


 ‥子供達をだれか‥‥




「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」


 日増しに、食べ物が粗末になってきてるので、詳しい事を話してくれなくても、村の事情は、かなり深刻であろう事は察しがついていた。


 布団から、そおっと顔を出す。そして、横に顔を向けた。


 隣には、祖母が軽やかな寝息を立てている。疲れている様で、これだけ外が騒がしくても、起きない。


「‥‥ん‥‥‥」


 深緒は起き上がって、昼間、自分が繕った布団を見る。


 首に当たる所には、布でつぎはぎされていた。月明かりに、かざしてみると、あちこち糸が飛び出ている。祖母に聞いた通りにやったつもりではあったが‥‥。


 ‥‥失敗かな‥‥


 眠れそうにかったので、深緒はごそごそと裁縫箱を出して、そこを直してみる事にした。 それは、この家には不釣り合いな程、立派である。深緒が五つの時に、流り病で死んでしまった母のもの。母は他に何一残さなかったので、これが唯一の形見である。


 深緒は、それを眺めながら、今より小さかった時の事を思い出していた。転んで泣いて帰って来ても、母の膝の上で聞く歌を聞いていると、不思議と涙が引いていった。




 ちょうちょう可愛子


 菜の花、とまれ


 菜ん花いやなら


 手んてへとまれ


 手んてがいやなら


 かんこへとま‥‥‥




 その時‥‥。


「‥‥‥!」


 裏から、ゴトッという物音が聞こえた気がして、深緒は軽く握った手を、口に当てた。 裏には、納屋がある。


 そして納屋には‥‥。


 ‥‥‥あの人‥‥かな‥‥


 深緒は裁縫箱を置いて立ち上がった。


 和馬が村の住人となってから、出歩いてる姿を見た者はほとんどいない。


 彼が何者なのか‥‥そして、あの時の父の言葉はどういう意味なのかを、深緒は知りたくてたまらなかった。


 村の子供達は、彼を鬼と呼んで、近づく事はしなかったが、深緒は恐いとは思わず、いつも遠目で納屋を眺めていた。


 ‥‥今だったら、誰も見てない‥‥


 深緒はゴソゴソと祖母をまたいで、裏口から、外に出た。


 深緒の頭の上には、ほぼ丸い月が、地上を照らしている。地面のわずかなくぼみや、出っぱりが、驚く程の長い影を伸ばしていた。 雲一つ無い空。明日も雨は期待できない。

「‥‥‥父様、ごめんなさい‥‥」


 まだざわついている、家の方に向かって、深緒はぼそっと呟いた。


 納屋は元々が、田に使う道具をしまっておく為のもので、深緒達の暮らす家より、更に粗末なものである。


 あちこち板がはがれており、これでは雨風をしのいでいるとは言い難い。


 深緒は息を殺して、隙間から中を覗いた。


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 急に暗い所に視線を移したので、真っ暗で、何も見えなかった。


「?」


 深緒は良く覗こうと、体を乗りだしたが‥‥。


「え!」


 ミシッと生木の割れる様な音がして、その直後に深緒は中に転がり入った。


 倒れる前に、目をギュッと閉じた。


「?」


 予想に反して、何の痛みも感じられなかった。


 知らずに顔を覆っていた両手をゆっくりと開く‥‥。


 そこには‥‥。


「‥‥こんな所で何をしてる?」


「え‥‥あ‥‥その‥‥」


 慌てて深緒は和馬の膝の上から立ち上がった。


 和馬は藁の上にあぐらをかき、静かに深緒を見つめている。


 屋根に開いた穴から、真っ直に差し込む月明かりが、和馬のボサボサの長髪の影を顔に落としていた。最初に見た時と同じ様に、深緒には和馬の表情が分からなかった。


「ご、ごめんなさい‥‥あの‥‥」


 壊してしまった板を拾って、何とか元通りにしようとしたが、割れてしまった板はまた下に落ちた。


「‥‥今更、壁の一枚や、二枚、壊れ様が、大差ない。うぬが気にする事はない」


 和馬はそれだけ言うと、ゴロンと藁の山に横になった。


「‥‥‥‥」


 上を向いたので、やっと顔が見えた。


 ‥‥‥鬼?


 傷の残る頬は、そう見えなくもなかった。だが、なぜか恐怖心は全く沸いてはこない。

 もし本当に鬼ならば、わざわざ自分のような非力な人間を襲うような事はしない。


「‥‥何だ? 俺に何か用か?」


「‥いえ、そ、その‥‥‥」


「‥‥もう遅い。家に帰れ。‥‥親が心配するぞ‥‥」


「‥‥はい‥‥」


 深緒は、膝に手を付けて、深くお辞儀をしてから、今度は戸口から外に出た。


「‥‥‥‥」


 後ろ手に戸を締めた後、また納屋の方を振り返る。


 すでに何の気配も感じられない。


 深緒は、肩の力を抜いて、「ふっ」と深呼吸した。


 ‥‥‥鬼じゃない‥‥‥

 人だ‥‥でも、村にいる人とは違う。


 また来よう‥‥そう決めてから、微笑む。 深緒は壊してしまった時の事を考えながら、クスクス笑って、布団の中に戻った。






 翌朝、深緒が目が覚めたのは、普段よりかなり遅い時刻であった。


「‥‥‥ん‥‥‥‥」


 眠い目をごしごし擦ってから、辺りを見渡してみれば、祖母の姿はすでにない。


 よく、父に怒られなかったものだと、昔、寝過ごしてしまった事を思い出す。


「へへっ‥‥」と、舌を出して静かに笑ってから、安堵のため息をついた。


 誰もいないのをいい事に、深緒は四つんばいで、囲炉裏のある部屋に行った。


 天井から吊るして掛けてある鍋の蓋を取った。


「‥‥‥‥‥‥‥」


 鍋の中を見て、深緒の顔がわずかに曇る。大根の葉を煮ただけのものだけが具の、上等とはとても言えないものが、丁度、茶碗一杯分‥‥これでは深緒にすら、十分ではない。昨日も、その前の日も、ずっと同じであった。日照り続きで水が不足している事が分かっていたので、深緒は何も言わずに、自分の小さな茶碗につぐ。


 ‥‥父様は、ちゃんと食べて出かけたのかな‥‥


 口をつけ様とした時、深緒は止めて考えた。和馬は、納屋の中で毎日、どうしているのかと‥‥。


 ‥‥もしかして、ずっと何も食べてないのかな‥‥


 そう思うと、なぜか矢も盾もいられなくなった。


 こぼさない様に気をつけながら、それでも急いで、裏口に回った。


「‥えっと‥‥‥‥‥」


 昨日の晩と同じ様に、納屋には人気が感じられない。最初に何と言って中に入ろうか、深緒は色々言葉を探していた。


「開いてるぞ‥‥」


「へ?」


 が、深緒が声をかける前に、和馬のぶっきらぼうな声が飛んで来て、顔が赤くなった。


「‥‥す、すみません、昨日は‥‥」


 壊してしまった板の破片を目にして、戸越しに慌てて謝った。


「‥‥用があるなら入れ」


「‥‥‥‥‥‥いえ‥‥用というか‥‥」


 取っ手にかけた手を一瞬、止める。そして大きく深呼吸してから、ガラッと戸を開けた。

 和馬は腕を枕に、横になって目を閉じていたが、ゆっくりと起き上がった。


「‥‥‥‥」


 深緒は入るなり、和馬の顔をじっと見つめた。


 明るい所で、しかもこれだけ近くで見たのは始めてである。


「‥‥何だ、俺の顔に何か付いてるか?」


「‥‥い、いえ‥‥」


 慌てて、持ってきた茶碗を差しだす。


「‥‥あの‥‥これ‥‥良かったら‥‥」


「ん?」


 和馬は怪訝な顔で、それをのぞき込んだ。


「‥‥‥俺に?」


「‥はい‥‥大したものでは、ありませんけど‥‥‥」


 深緒の顔を見て、そして目を細めた。


「いや、いい。俺はもう朝飯は食った」


 言い捨てて、また横になったが、その時、和馬の腹が鳴り、しばしの間の後、また起き上がった。


「‥‥それじゃ、頂こうか‥‥‥せっかくだから‥‥」


 和馬が、深緒から茶碗を受取った瞬間、今度は深緒のお腹が空腹の音を立てた。


「‥‥その‥‥あの‥‥‥」


「‥‥はっはっはっ‥‥ぬしは変わった娘だ な」


 深緒は言葉を失い、真っ赤になってうつむいた。


「‥‥それでは半分こしようか‥‥」


 和馬の笑みを見て、深緒は「はい!」と、元気に返事を返した。







「‥‥実の所、人間らしいものを食べたのは、久しぶりでな」


「和馬様は、それではずっと何も食べてなかったのですか?」


 深緒は和馬の膝にすり寄って、さっきからずっと質問し続けている。内気な深緒にしては珍しい事であった。


「いや、それではさすがにまいってしまうからな‥‥鼠やカラスも焼けば食えない事も ない」


「‥‥‥鼠‥‥ですか?」


 深緒は肩をすぼめた。


「‥‥とにかく、生きねばならぬからな‥‥体裁云々を言っても仕方がない‥‥それより、うぬは俺が恐くはないのか?」


「‥‥‥はい‥‥あんまり‥‥」


 深緒は、外から中に引かれている無数の紐が目に付いた。


「‥‥あの‥‥あの紐は‥‥?」


「ん? ああ、それは朝、水を取る為だ」


「水?」


 和馬は深底の陶器のかけらの様なものをを見せた。中にはわずかに水が溜まっている。「‥‥海が近いせいで、この辺は朝霧が発生 する。こうして編み目状に紐を張って、先を一カ所に集まる様にすれば、霧に触れた 糸から、水滴が集まる。一人分位にはなろ うよ」


「‥‥詳しいんですね‥‥」


 和馬はそれを聞いて、笑った。


「五年も放浪してたからな‥‥生きる為の知恵の一つだ」


「‥‥‥五年‥‥‥」


 深緒は頭の中で、和馬について知っている事を思い返してみた。


 ‥‥十年ぶりに村に帰って来たんだったら、五年はどこかに旅をしてて、残るもう五年が‥‥


「‥‥あの‥‥‥」


 深緒には、その理由を聞くのがためらわれた。


 それでも‥‥。


「‥‥‥あの‥‥なぜ、和馬様は‥‥村を出たのですか?」


 その問いに答えたのは、和馬ではなかった。


 “それは、その男が人殺しをしたからだ‥‥ 深緒、ここで何をしている!”


「!」


 深緒は聞き覚えのある怒鳴り声に、ビクッとして目をつぶった。


 それから、恐る恐る目を開けると、怒りで肩を上下に揺らした父の姿が後ろにあった。「和馬‥‥その子は香緒の妹だ‥‥それを知っているのか?」


「いや、始めて聞いた」


「ならば分かったな。今後、一切、この子に近づく事は許さん」


「と、父様! 私が勝手に‥‥」


「深緒、お前は、家に入ってるんだ!」


 深緒は父に手を掴まれて、外に引きずられた。胸に抱えていた茶碗が、その反動で下に落ちて粉々に砕け散る。


「貴様に、少しでも人の心が残っておるなら、これ以上わが家に関わりをもたないでもらいたい」


 そう言って、戸はピシャリと閉められた。 







 それから数週間、村の状況は悪化の一途を辿っていた。


 ひび割れた大地は、それが元は、田であった事など想像すら出来ぬ程である。


 村人達は何度も雨ごいをしてはみたものの、地面に突き刺さるかの様な、真っ赤な夕日が、彼らをあざ笑うだけであった。


 黙って雨を待つだけの毎日が続き、何もない井戸の中を何度も見おろす。


 そして、最初の犠牲者が出た頃、村人達は、神に祈る事の無駄を知った。










「‥‥‥ごめん下さい‥‥‥」


 深緒は小さくコツコツと扉を叩いた。


 化け物でも出てきそうな、村はずれのボロボロの寺である。門は破れ、別に何処からでも中には入れたが、深緒はそんな事はしない。‥‥声が小さかったかな‥‥


 そう思ったので、深緒は今度は、両手をあわせて叩いた。


 しばしの間の後‥‥‥。


「‥‥ん? 誰ぞな、お布施なら歓迎するぞ」


 中から、痩せ痩け、深緒よりもさらに小さい男が顔を出した。


 男はこの寺の住職の景庵である。


「何だ‥‥深緒ではないか‥‥どうした、とにかく、中に入りなさい、疲れたじゃろ」


「‥‥すみません‥‥お邪魔します‥」


 深緒はお辞儀をしてから、中に入った。


 景庵に手を引かれて、奥に進む。廊下のあちこちに穴が開いており、そこから、丈の長い雑草が生えてきていた。


「人間もこれ位、生命力があったら、良かったのじゃがな‥‥こんな大地にも雑草は立派に生きとる」


 景庵はその中の一本をぐっと引き抜いた。


「‥‥一度、試しに食うてみたみたんじゃが、いや、それがまずいの何の‥‥さすがのわしも腹を壊してしもうてな‥‥ひゃっひゃっ‥」


「‥‥‥‥」


 深緒は奇妙な声で笑う景庵と、草を交互に見た。


 景庵は、こんな感じで、深緒に様々な事を話してくれる。


 その内容のほとんどがとりとめの無い事ではあったが、深緒は景庵の話を聞くのが好きだった。


 父の次郎も、周りの大人達も、なぜか深緒には村の外の話を聞かせてはくれなかったので、景庵の話してくれた内容が、深緒の知る世界の知識の全てであった。


 今となっては遠い昔の事である子供の時、毎日の様に寺に通っていた深緒を、母がたしなめた事があった。


『‥‥深緒‥‥お前はおなごなんだから、そげな好奇心ばっかり強くて、どうするよ‥‥』


 その時も、深緒は疑問に思った。なぜ考えては駄目なのかと‥‥そして、景庵にその事を聞いた。


『ふむ、別に深緒の母も、深緒に良かれと思って言っただけじゃ。』


『それじゃ、深緒が間違ってる?


『いんや、何が良くて、悪いかなんての は、決められぬ‥‥人それぞれ生き方が違うでの。何も知らぬ方が幸せな時もある‥‥だが、物事に疑問を持つ事自体は、 良い事じゃ』


『‥‥?』


 その時は、結局、意味が分からなかった。分からぬまま、ずっと通い続けていた‥‥‥。


「‥‥‥それで、今日はどうしたかの?」


 景庵は板敷きの広い部屋の真ん中に、どっしりと腰を降ろした。


「‥‥‥あれ?」


 その部屋の中で、何かが足りない事に気付き、深緒は辺りを見渡す。


「はっはっ、大仏様なら、売ってしもうた」


「‥‥?」


「そう変な顔をするでない。可愛い顔がだいなしじゃぞ」


 景庵はそこまで、愉快に言っていたが、急に口調を改めた。


「実際の所、神仏に祈った所で、何もな りはしないのだからな‥‥ならば少しでも人の役にたってもらった方がマシと言うものじゃて‥‥」


「‥‥‥‥‥」


 住職自らが、その様な事を言った事に、深緒は驚いていた。


「‥‥‥それでは、神様はいないのですか?」


「そうじゃな‥‥深緒が考えておる様な形ではおらぬ‥‥天空から、圧倒的な力をもって人々を支配いてる様にはの‥‥だが、神仏は誰の心の中にもおる。‥‥‥深緒の心の中にもな‥‥」


「‥‥‥私の‥‥中に?」


 景庵は大きくうなずく。


「だから、不可思議な事、全てを神の仕業や、悪霊の類のせいにするのは間違いじゃ‥‥どんな奇妙な事にも必ず説明出来る原因がある。その判断を鈍らせるのが、心の内にある悪霊じゃ」


「‥‥‥‥‥‥‥」


 景庵はポッと話に聞き入っている深緒の前に、煎餅の乗った皿を出した。


「こんな時には非常食として重宝する‥ ‥深緒は以前より痩せたの‥‥いかぬな‥‥食べ盛りの子がそんな事では‥‥」


「‥‥す、すみません‥‥‥」


「ん?ふわっはっはっ‥‥‥」


 景庵の出した四枚の煎餅の内、一枚を掴むと、半分に割って残りを全部、懐にしまった。

「そう言えば、深緒はそういう子じゃったの‥‥」


 景庵は目を細めて、深緒を見ながら、また新しく、皿に盛った。


「‥‥それは全部、自分で食べてよいのだぞ」


「‥‥‥‥‥‥」


 そこまで言われて、コクンとうなずいた深緒は始めてバリバリと食べ始めた。


「‥‥それで今日はどんな事を聞きにきたのか?」


「‥え?‥‥けほん、こほん‥‥‥」


 食べる事に集中していた深緒は、急に話を振られて、むせかえる。


「やれやれ、しょがないの‥‥」


「‥‥‥ごほ‥‥その‥‥和馬様の事を知ってたら、聞きたいと思って‥‥」


「何、和馬とな!」


 途端に、景庵は眉間にシワを寄せて唸る。和馬が村に帰って来た事を知らなかった様であったので、深緒は知ってる限りの事を景庵に話した。


「なる程の‥‥‥あの男が、冬まで村にな‥‥」


「‥あの‥‥それで和馬様と‥‥‥香緒姉さんの事を聞きたくて‥‥」


「うぬ‥‥これは言ってもいいものかどうか‥‥」


「お願いします! 私、どうしても知りたいんです!」


 景庵はそれでも、腕を組んで、しばらく考え込んでいた。


「‥‥他でもない、深緒の頼みじゃからな‥‥じゃが、次郎には何も言うでないぞ‥‥ わしが怒られるでな‥‥」


「は、はい!」


 深緒は大きな瞳を輝かせた。


「‥‥こほん‥‥実はな‥‥‥」


 景庵がもったいぶって咳払いをすると、深緒はフンフンと、顔を近づけた。


「深緒の姉の香緒はの‥‥深緒に良く似た可愛い娘じゃった。‥‥」


「‥‥‥‥‥‥‥」


「だが、香緒は生まれつき体が弱くての‥‥ 次郎や、母親の詩緒などはいつもはらはらしておった」


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 深緒は想像したが、結局、思い浮かべる事が出来なかった。


 景庵はやや表情を硬くして、外の強烈な日差しに顔を向けた。


 簾は所々、穴が開いていて、そこから穴の輪郭を滲ませる白い光が漏れていた。


 驚く程、静かである。


「‥‥そう言えば‥‥奴がこの村に現れたのもこんな夏の日だったの‥‥和馬はな‥‥ ぶらりとやって来て、村に住み着いた。流れ者じゃったが、次郎は快く村に受け入れた」


「‥‥‥‥‥‥‥」


 深緒も簾を見つめる。そこに遠い日の景色を知らずに探していた。


「‥‥‥働き者だった和馬は、次郎も気に入っててな‥‥和馬はよく、次郎の所に来ていたものじゃった‥‥」


「和馬様が‥‥家に‥‥」


 今の父の態度からは、その片鱗すら伺う事は出来なかった。


「‥‥それから、秋になり、冬がきて‥‥香緒の様態が悪化してな‥‥何とか、医者に見せる事が出来たのじゃが‥‥その時には、もう、来年の桜が見れるかどうかも分からぬ程になっておっての‥‥」


「‥‥‥‥‥」


 深緒は手を震わせて息を飲んだ。


「香緒は死んでしまった‥‥年を越す前に‥‥早すぎた死の直接の原因は、和馬が香緒を山に連れだしたからなのじゃ」


「‥‥それは‥‥なぜ‥‥なんです?」


「ん‥‥‥」


 景庵は言葉を切った。


 どこからか、思いだしたかの様に、かすかなリンという、風鈴の音が漂ってきた。


「‥‥理由は分からん‥‥だが‥‥‥一つ‥‥」


「‥‥‥‥‥」


「解せぬ事がある‥‥それが問題なのじゃ‥ ‥‥‥」


 深緒は景庵の表情を見て、なぜだか、恐いと感じた。


「‥‥和馬と一緒に山に行った香緒はな‥‥ 結局、帰っては来なんだ‥‥わしは信じたくないが、香緒は‥‥山の精霊に呪い殺されたそうだ‥‥」








 深緒は家への帰り道を、トボトボと、下を向きながら歩いていた。


 畦道の石を蹴ってみる。


 夕日が降りて、目に映る世界は、全てが紅く染まっていたが、深緒の黒い瞳は、それでも尚、黒いままであった。


 そして、ふと、空を見上げてみると、星の瞬きが目に入った。




 一番星、一番星、見つけた


 一番星、見つけたら、誰に‥‥‥。




「‥‥‥‥‥‥」


 深緒は歌うのをやめた。今は、そんな気分ではなかった。


 ‥‥山の‥‥精霊‥‥‥‥


 深緒は手をぎゅっと握った。


 山の精霊の事は、友達から聞いていたので良く知っていた。


 山の奥に迷い込んだ者は、何処からともなく聞こえてくる女の悲鳴を聞き、その後に、姿無き精霊に切り刻まれると言う‥‥。そして犠牲者は山の精霊となり、新たな犠牲者を探し続ける‥‥。


 景庵から聞いた話を心の中で繰り返す。


 ふらふらと山を降りてきた和馬に、事情を聞き、村人が総出で香緒を探したが、死体すら見つからなった。


 手がかりは無く、村へと点々続く血の跡は途中でかき消す様に途切れていた。


 和馬は多くを語らなかったという。


 神隠しにあった様なこの事件は今回が始めてではなかったが、和馬は自らの弁護を全くしなかった為、島流しとされたのである。


 ‥‥本当に‥‥‥いるのかな‥‥‥‥


 深緒には判断出来なかった。


 妖怪の様なものが、実際に存在するのかどうか‥‥。


 だが‥‥‥。


『不可思議な事、全てを神の仕業や、悪霊の類のせいにするのは間違い』


「‥‥‥‥‥」


 ‥‥聞いてみよう‥‥和馬様に‥‥


 それが一番だと、深緒は思った。










「‥‥‥‥な、何?‥‥どうしたの?‥」


 村に帰って来た深緒は、家の戸口に立って、中の光景を見て、驚愕した。


 唇が細かく震え、膝がガクガクと意思に反した動きをする。


 顔に手を当てた時、景庵から貰ってきた煎餅が下に落ちた。


「‥‥‥‥深緒‥‥‥」


 家の中は大勢の人が集まり、祖母の横になった脇で見おろしている。次郎は申し訳なさそうに深緒を呼んだ。


「‥‥深緒‥‥実はな‥‥‥」


「‥‥‥‥‥‥‥」


 次郎の顔が暗い。


 村の人達の顔から、何が起こったのか、察しがついた。


「ばあちゃん!」


 深緒は居並ぶ人達をかき分けて、祖母の元に寄った。


 祖母は普段と同じ様に、横になっている。眠ってる様ではあったが‥‥。


「ばあちゃん、ばあちゃん!」


 深緒は祖母の体を激しく揺さぶった。だが、起きる気配は無かった。


「‥‥深緒‥‥‥ばあちゃんは、ついさっき亡くなった‥‥」


 次郎は深緒の肩に、静かに手を乗せた。


「この暑さで、すっかり体が弱ってたんだ‥‥‥それに、最近はロクに物を食べてなかった様で‥‥」


「‥‥で、でも‥‥今朝は‥‥‥」


 深緒がハッとして父の顔を見上げると、次郎は静かに頭を振った。


 今朝まで祖母は元気だった。深緒が起きると、笑って、朝飯に芋の尻尾を煮たものを出した。深緒は、何の疑いもなく、それをモグモグと食べたが‥‥‥。


 祖母は深緒に食べさせる為に、自分は何も食べてはいなかったのである。


「ご、ごめんなさい! ‥‥私‥‥何も知らなくて‥‥」


 深緒は祖母の布団に顔をこすりつけた。


 ぎゅっと目を閉じた真っ暗な中、今朝の祖母の顔が浮かび上がる。


 まだ半分寝ぼけている深緒の頭を撫でながら、祖母は笑って言った。


『‥‥私はもう十分じゃから‥‥深緒がお食べ‥‥』


「‥うっ‥‥う‥‥‥‥」


 祖母の気も知らずに、何と愚かだったのかと、深緒はすすり泣きながら思った。


 祖母の顔色から、察するべきだったと‥‥。


「うわぁぁ‥‥‥」


「深緒!」


 深緒は外に走り出た。父が何か言っていたが、今は何も耳には届かなかった。


 空には、一番星、二番星‥‥‥すでに月が辺りを照らしている。小さな小石すら、斜めに当たる青白い光で、異様に長い影を地面に作っていた。


「‥‥‥う‥‥」


 ことさら意識していた訳でもないのに、足は自然に、納屋に向いていた。


 そして、一気に戸を開けて中に飛び込む。


「ん? どうした深緒‥‥ここに来ると、親父に怒られるぞ」


 和馬は真っ黒に焼いた、何か小動物の様な物を口にくわえていた。


「‥‥‥どうした?」


 深緒の様子がいつもと違ってる事に、気付き、和馬は真顔になって、口から離した。


「うわぁぁ!」


「お、おい‥‥」


 深緒は和馬の胸に抱きついた。そして、今までひかえていた涙を、洪水の様に流し始めた。


「‥うっ‥‥和馬様‥‥‥私、私は‥‥‥」


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 和馬は何も聞かずに、深緒が寝息を立てるまで、そのままじっと、抱いていた。










「‥‥‥深緒‥‥困った子だ‥‥」


 次郎は、納屋に入るなりため息を付いた。気持ち良さそうに、和馬の膝の上でスヤスヤ眠っている深緒の姿を見て、ホッとした反面、やり切れない様な、複雑な気持ちであった。


 次郎は、家を飛び出した深緒を、すぐには追わなかったので、最初は何処に行ったのか分からなかった。


 だが、しばらく探してみれば、ここが思い当たったので来てみれば、やはりここにいた。

「‥‥全く‥‥‥」


 次郎は何度目かの大きなため息の後、和馬を睨んだ。


「しかし、香緒といい、深緒といい、お前の何処がそこまで、引き付けるのだか ‥‥」


「‥‥‥‥‥‥‥」


 屋根に開いた大穴から、蒼い光が深緒の全身を照らす。


 和馬は、規則正しく上下する、深緒の後ろ頭に、香緒を重ねて、顔を曇らせた。


「‥‥いや、もう何も言うまい‥‥‥‥」


 次郎はフと、顔を和ませ、肩の力を抜いた。


「私は、父親としての立場より、村長としての立場を選ばねばならぬ、あの時も そうだった‥‥」


「知っている‥‥もし俺が同じ立場でも 同じ事をした‥‥」


「‥‥‥‥香緒の事は、もう過去の事だ。今のお前に何の罪があろう‥‥‥和馬‥‥この子には支えが必要だ‥‥それは、村長の私には出来ぬ事だ‥‥娘の‥‥この子の支 えになってやってはくれぬか‥‥」


「‥‥‥‥」


 和馬は頭を撫でていた傷だらけの手を、止めた。


「いや、俺は‥‥」


「‥‥どうしても、村を出ていく気か? なぜお前は一つ所に落ちつこうとしない? このまま一生、旅を続けるつもりか?」


「‥‥うん?‥」


 和馬は空を見上げた。


 旅の途中‥‥立ち寄った村々‥‥通り過ぎて行った見知らぬ人々‥‥。その何処でも同じ月が空に浮かんでいた。


「‥‥俺は‥‥俺に関わった人を不幸にしてしまう‥‥その輪廻を断つ為に、俺は旅を続ける」


「‥‥そんな事はないだろう‥‥お前は、他人を不幸にしたいと思っているのか?‥‥」

「‥‥‥そんな事はない‥‥皆には幸せになってもらいたい‥‥俺は、俺の力で、出来る限りやっていくつもりだ‥‥だが、それに他人を巻き込みたくはない」


「‥‥そうか‥‥‥‥」


 次郎は頭を垂れた。


「ならば、冬まででいい‥‥この子の力になってくれないか‥‥」


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 和馬は星を見上げたまま、何も答えなかった。








 ‥‥大変な事を聞いてしまった‥‥‥‥


 深緒は、和馬の膝の上で、起きてる事を悟られまいと、身を硬くする。もしかしたら、ばれてるのではないかと、気が気ではない。父と和馬の話を思い返すと、握った手が自然に汗ばんでくる。寝息が不自然ではない様にと、それなりに工夫をする。


 嬉しい様な、悲しい様な‥‥笑いたいのか、泣きたいのか‥‥深緒の心境は複雑であった。 父が和馬に会う事を認めてくれたが、その後で、


『‥‥‥冬まででいい‥‥この子の力になってくれないか‥‥』


 その言葉を心の中で繰り返し、その度になぜか顔が赤く火照る。なぜそうなるのか、深緒には理由は分からなかったが、とにかく嬉しかった。


 冬には和馬は村を出ていく‥‥それは以前から知っており、悲しい事ではあったが、今、深緒が衝撃を受けたのは、それではない。


『‥‥‥しかし、香緒といい、深緒といい、お前の何処がそこまで、引き付けるのだか ‥‥』


 姉の香緒が、和馬をどう思って接してたのか、それを考えると、漠然とした‥‥もやもやの様な物が胸に沸き上がってきた。その捕らえ所の無い物に、胸が締め付けられる様である。


 ‥‥何で?‥‥‥‥‥


 なぜ、そんなふうに感じるのか、分からなかった。


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 分からぬまま、和馬の服の端をギュッと掴んで、離さなかった。









 祖母の件の後、村人達は差し迫った命の危機を感じる様になっていた。年寄りを抱える家では、早急に事態を変える必要があった。文字どおりに東奔西走した次郎のおかけで、税は何とかなったものの、だからと言って、村にゆとりが出来た訳ではない。その日の食べる物にも事欠く有り様で、冬に向けて蓄えも、来年に向けての希望もなかった。


 するべき事もなく、うつろな目をして過ごす村人達の中、ただ一人黙々と動く男がいた。 




「ここは、こんなものだろ‥‥」


 和馬はギラギラと照りつける日差しの下、額から流れる汗を拭った。


 立ち枯れた木の多い林の中で、和馬はまだピンピンしている木を見つけては、幹に傷を付けている。暗い内から始めて、すでに日は真上まで来ていた。


「‥‥‥か、和馬様‥‥わっ‥‥」


 竹を山程抱えた深緒が、根に足をとられて転びそうになる。和馬は「‥‥よっ」と言って、その前に深緒を支えた。


「随分、切ってきたな」


「‥‥あ、あの‥‥‥」


 深緒は慌てて顔を逸らして、立ち上がった。


「大きさも手ごろだな‥‥」


 和馬は、枝を刀でスパスパと切り落とし、縦に二つに割ってから、中にある節も削り取った。


「‥‥見てろ‥‥ほら、こうすれば‥‥」


 和馬は先をとがらせた竹を、幹の白い傷口に差した。


「‥‥木の中は細い管になっててな‥‥水はそんな管の中を上に登る性質を持ってる」


「‥‥‥‥‥‥‥」


 深緒は黙って和馬のする事を見ていた。


 斜めに刺した竹の下の方に、節を残したままの、竹を置いている。


「木は乾いた地面からも、水を得て、生きられる、だから‥‥」


「木から、水を分けてもらうんですね!」


 深緒はようやく、和馬の仕様としてる事が分かり、目を輝かせた。


「その通りだ‥‥深緒は頭がいいな」


 和馬に頭を撫でられて、深緒は「えへへ」と、はにかみながら笑った。


 一通り作業が終わってから‥‥。


「‥‥これで明日の朝には、受け皿代わりの下の竹に、少しは水が溜まってるだろう‥‥村の奴らのシケた顔もなんとかなるかな‥‥」


 和馬は渋い顔をしながら、手をはたいた。 深緒はそんな和馬の何気ない仕草の、一つ一つから、目を離さない。息を飲んでひたすら見つめ続けていた。


「‥‥ん?」


 それを妙に感じた和馬が、深緒の顔を見ると、すぐに深緒は目線を逸らしてしまうのであった。


「‥‥おかしな奴だな、深緒は。腹でも減ったか?」


「い、いえ‥‥」


 だが、うまい具合に腹が鳴り、和馬はハッハッと笑って、包を開いた。


「丁度いい、飯にしよう」


「‥‥‥‥‥」


 和馬に出された物を見て、深緒は少し、後ろに引いた。


 紐の様な物が黒焦げに焼かれている。元は何であったのかは、容易に察しがつく。


「‥‥あの‥‥これ‥‥へび‥‥?」


「そうだ、川に棲んでる蛇で、こいつは、川の水が無くなると、土に潜って夏眠する‥‥毒はないし、丸焼きにしとけば長持ちするし、結構旨い」


「‥‥は‥‥‥あ‥‥」


 お腹は減ってはいたものの、深緒は、蛇を食べるなどという事は、とても出来そうになかった。


「‥‥そうか、確かにこれじゃ、食いにくいな‥‥」


 和馬は蛇の口の当たりを持って、縦に引き裂いた。それをさらに細かくちぎる。


「‥‥‥見た目は悪いが、精を付けるにはこれが一番だ‥‥香緒は‥‥」


 和馬は、何かを言いかけて、途中で言葉を濁した。


「‥‥‥‥‥‥‥」


 ‥‥香緒‥‥姉様は‥‥何?


 何食わぬ顔をしてはいたが、深緒の心中は穏やかなものとは、かけ離れていた。


 昔、自分がまだ赤子だった頃、姉と、和馬がこうして喋っていたかと思うと、胸がツンと苦しくなり、それから痛くなった。


 理由は分からぬまま、深緒の動悸が早くなる。姉の存在を邪険に思う、意外な自分の醜い一面を見つけて、それが和馬に見透かされてしまったかの様に、恥ずかしいと思った。


「‥‥香緒姉様は‥‥どうしたんですか?」


「‥‥‥‥」


 深緒は思いきって聞いた。


 和馬の沈黙は、言葉を慎重に選んでるからだという事を、伝えていた。


「‥‥いや‥‥昔‥‥深緒の姉の‥‥香緒と ‥‥姉がいた事は知ってるのか?」


「はい‥‥景庵和尚様に聞きました」


「あの、生臭坊主‥‥余計な事を‥‥」


「‥‥それで‥‥姉様と‥‥どうしたのですか?」


 和馬は深緒の刀幕に押される様に、少し後ろにさがった。


「ん‥‥ただ‥‥香緒は旨そうに食ってた事を、思い出した‥‥それだけだ」


「‥‥‥‥‥」


 深緒は蛇の黒焼きを見つめた。


 そして‥‥‥。


「!」


 目を閉じてそれにかぶり付いた。


 苦い味が口の中、一杯に広がった時、思っていた程、まずくはない事に気付いた。


「‥‥なんだ、いきなり‥‥」


 ピタッと動作を止めてしまった深緒を上から和馬が見おろしている。


「‥‥ううん‥‥げほっ、ごほっ」


「‥‥深緒は、変な奴だな‥‥」


 笑いながら背中をさすってくれる和馬の温もりを感じていると、なぜだか幸せな気分になってくる。


「‥‥はい‥‥」


 そして、理由も分からぬまま、深緒は笑って返事を返していた。








「‥‥あの‥‥和馬様?」


 午後は、深緒が竹を取って来た竹薮の中で昼寝をする事になり、二人は思い思いの場所に陣取って横になっていた。


 仰向けに見る空は、まるで天に向かって無数の竹が突き刺さってる様に見えた。サワサワと竹の葉の鳴るを聞いていると、それだけで涼しく感じられた。


「何だ?」


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 深緒は頭をコロンと、横に向けた。そこには目を閉じた和馬の顔があった。


 真上からの光で、頬の傷が浮き上がって見える。


「‥‥今、何を考えていたんですか?」


「別に、大した事じゃない」


「例えば‥‥それはどんな事?」


「‥‥んん? 俺はこの先、どうしたものかってな‥‥」


「それが‥‥大した事じゃ、ないんですか?」


 深緒はムクッと起き上がった。


「‥‥あの‥‥和馬様‥‥」


「何だ?」


 深緒は和馬の頬の傷を見ながら考えた。正直に答えてくれるだろうかと‥‥。


「‥‥‥和馬様は‥‥物の化なんかがいると、信じてますか?」


「何だ急に‥‥そんなもん、いる訳がないだろう」


「‥‥そう‥‥ですね‥‥」


 和馬が本当にそう思っているのかどうかは、分からなかった。


 深緒は、姉が山の精霊に殺された、前後の詳しい事情を知りたかったのである。


「‥‥それじゃ‥‥山の精霊は?」


「うん?」


 答えるまでにしばしの間があった。


「‥‥それは分からない。本当に山の精霊が香緒を消したのか‥‥俺は人を不幸 にしてしまう;;深緒‥‥あの時、俺が次 郎に言った話に嘘はない‥‥ただ偶然が重なり続けてるだけかもしれないが‥‥」


「え!」


 寝ていたフリをして、話を聞いていた事を、和馬は知っていた。


 深緒は一瞬、言葉に詰まったが‥‥。


「教えて下さい、本当の事を! 昔、何があったのですか!」


 和馬に迫った。


「本当の所か‥‥それは、俺にも分からん‥‥」


 和馬はいつもと同じく、静かに語り始める。


「冬に山に登る事は、この辺りでは禁忌だった。俺はその山を越えて村に来たが、後で聞かされた。山に住まう精霊の怒りに触れるからだとな。‥‥俺は香緒に冬山の景色をあれこれ話した。それ位はかまわないと思ってた‥‥」


「‥‥‥‥‥‥」


「香緒は病弱だった。俺が来た時はまだ元気だったが、肺の病は日増しに悪くなっていった‥‥俺は何一つ力にはなってやれなくてな‥‥」


「‥‥‥‥‥」


 遥かな空の高みを見つめる和馬の顔を見てると、深緒はまた、自分ではどうにもならない、胸のうずきが起こってきた。


 和馬は、雲を眺めているのではなく、過去の姉との日々を見つめていると思えば、居ても立ってもいられない程であった。


「香緒は、冬山の景色を見たいと言って、俺は、香緒を背負って、山に登った‥‥その時‥‥香緒の 病状が悪化して‥‥咳込む香緒をひとまず、近くの山小屋に連れて行った‥‥血を吐き続ける香緒を動かす事も 出来ず、だから誰かを呼びに行こうと思っていた」


「‥‥‥思っていた?」


 そこまでやや早口で言ってしまうと、和馬は顔に苦渋の色を浮かべ、横を向いて黙ってしまった。


 深緒は話しの続きを聞きたかった。だが、声をかける事がためらわれ、開きかけた口を再び閉じた。


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 互いに無口のまま、不自然な間が続く。


「俺が香緒を山に連れ出してなくとも、香緒の命は尽きていたのかもしれない‥‥ だが、それは問題ではない‥‥俺は結果的に香緒を置き去りにしてしまった‥‥あの時の香緒の目が、今でも俺の頭から離れない‥‥俺は側を離れるべきではなかった。それに、俺がずっと付いていたなら、あんな事にはならなかったかもしれない‥‥」


「‥‥‥‥‥」


「俺は、村に戻る途中の道で、大勢の女の叫び声が聞こえてきたので、急いで小屋に戻った。村の奴らが話していた、山の精霊に似てたからだ‥‥俺は、それまでそんなもの信じちゃいなかったが‥‥小屋の開け放たれた戸の前、雪の上一面に広がった血を見て、俺は始めて、物の化の恐怖というものを知った‥‥‥香緒は‥‥山の精霊に殺られたと‥‥」


「‥‥和馬様‥‥‥‥‥」


 深緒は和馬の隣に横になった。


 無口になってしまった背中に、顔を擦り付ける。


 額をピタッと付けると、背中の微妙な動きから、和馬の苦悩までもが伝わってくる様であった‥‥。


 ‥‥少しでも、私が替わってあげられたら ‥‥


「‥‥‥‥‥‥」


 深緒は何も、そして、一言も話さずに和馬の側にずっと寄り添っていた。


 この時始めて、深緒は知った。


 これは初恋なのだと‥‥。




 その頃‥‥‥。






 村ではある事件が起こっていた。


 事前に和馬達がそれを知っていたならば、和馬はどの様に行動したであろうか。


 それは、その後の和馬の運命に少なからず、波紋を与えた、大きな事件であった。










「ん?」


 和馬はいきなり、足を止めた。


「‥‥どうしたんですか?」


 和馬の服の裾を掴んで歩いていた深緒は、前方に何かあるのかと思い、目を凝らした。何もない。


 ただ、形ばかり整えられた、小石混じりの土の道が、真っ直に村の方に続いているのが見えた。


 普段と変わり無い道は、空も青く澄み渡っている。危惧すべき所はどこにもない。


「深緒は、その辺の草むらに隠れてろ、俺が 来るまで動くんじゃないぞ!」


「和馬様!」


 和馬はそれだけ言うと、村の方に走って行った。


「‥‥‥‥‥」


 深緒は後ろ姿を呆然と見つめる。


 突然の事で、何がどうなっているのか、さっぱりと見当がつかなかった。


 ‥‥隠れる?


 深緒は和馬に言われた通りにしようと思った。


 辺りには、茶色になった草が繁っており、そうするには事欠かない。


 そして深緒が、足を一歩踏みだした時‥‥。


「!」


 村の方から叫び声が聞こえ、深緒はビクッと体を硬直させた。


 聞き覚えのある声。


 自然に足は、村に向いていた。


「火事?」


 黒い煙が見えた。そしてすぐに倒れてる人が目に入る。


「‥‥‥‥‥」


 深緒は、微動だにしないその人を上からそっとのぞき込む。


 ‥‥‥確か漁師の‥‥


 深緒は、恐る恐る手を触れてみた。


「‥‥‥‥‥」


 手には赤いもの‥‥血が付いていた。地面にも血溜まりが出来ている。


 向こうにも、その先にも倒れてる人が目に入った。


 何かが、村で起こった。それが何かは分からないが‥‥。


「と、父様ぁ!」


 深緒は家の方に走った。


 今日は‥‥と言うより、最近は村から出ずにいる。父はどうしてるか‥‥。


 途中で、同い歳の子供の姿もあった。


 遊んだ事もある。


「父様!」


 深緒は家の戸をガラッと開けた。


「‥‥父‥‥様?‥‥」


 誰かが奥の部屋でうずくまっている。暗くて良く見えなかったが、父ではない。かなり大柄な男の様である。


「‥‥あ~ん?」


 男は、ゆら‥‥と、立ち上がった。


 もみあげとつながったヒゲを撫でて、深緒を見ると、ニヤっと笑った。


「‥‥なんだ?‥‥ガキじゃねえか‥‥がっかりさせやがる‥‥」


 男は、半分刃の欠けた野太刀を持っている。深緒は、そこから滴る血を見て、足がすくんだ。


「まあいい、ガキでも、女は女だ」


 舌なめずりをしながら、深緒に近づく。


「と‥‥父様!」


 深緒は奥にいるであろう、父を大声で呼んだ。


 だが、何の返事も返ってこない。ここにはいなかったのか‥‥あるいは‥‥。


「‥‥‥‥」


 深緒は動けなかった。


 床を伝って流れてくる血が、誰のものか、察してしまったからである。


 そして、奥に倒れている人物を垣間見て‥‥。


「いやぁああああ!」


 深緒はしゃがんで、両目をつむり、耳を手で塞いで、金切り声をあげた。


 男の手が深緒の着物にかかった時‥‥。


「‥‥‥‥‥」


 そこで、ぴたっと、男は止まった。


「‥‥‥‥?」


 そっと目を開けると、そこには‥‥。


「‥‥下巣な野郎だ」


 和馬が、立っていた。戸口からの逆光で、表情は、分からない。だが、怒りを圧し殺しているのが分かった。


「‥ぐぇぇぇぇぇ!」


 深緒の隣に、どうっ!と倒れた男は、背中から血を吹き出している。和馬が斬ったのか‥‥。


 深緒の顔に血が吹きかかった。


「深緒、なぜ来た。隠れていろと、言ったはずだ」


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 視線が空中で止まったまま、深緒はぼうっとしている。和馬は頬を、パシッと叩いた。


「‥‥和馬‥‥‥様‥‥‥‥」


 深緒は頬を押さえて、目をしばたかせた。


「しっかりしろ、何、ぼけっとしてる」


「‥‥‥‥‥‥」


「落ち武者の一団が、村を襲った。逃げた者もいる様だが、ほとんどは殺されてる‥‥深緒、このままずっとその調子でいたら、殺られるだけだ」


「‥‥父様が‥‥‥‥」


 側に駆け寄りたかったが、恐かった。一瞬後に映っているであろう光景を思うと、腰が立たなかった。


「奴らは、村に火を付けた。もうすぐここも火の海になる‥‥乾燥してるからな‥‥行くぞ‥‥」


「‥‥でも‥‥父様が‥‥」


「いいか、次郎は死んでしまった。もう生き返りはしない。ここで次郎を見ていても、何にもなりはしない!」


「‥‥‥‥‥‥」


 和馬は、深緒の肩を掴んで前後にガクガクと、揺らした。


 白い煙が立ち始める。


「深緒は強い子だ。次郎はいつもそう言っていた。‥‥勇気を見せてみろ、他の子にはない力を。‥‥それが出来ぬなら‥‥ 深緒もそれまでだ‥‥俺は、見捨てる」


「‥‥和馬様‥‥‥」


 深緒は、和馬の顔を見つめた。眉の太い顔からは、強い意志が伝わってくる。


 深緒は思っていた。


 こんな事ではいけないと‥‥。


 パチパチと音がして、焦げた臭いがする。十三年という、短い期間ではあったが、祖母と父と、三人で暮らした、家が無くなってしまうかと思うと、また悲しみがこみ上げてきた。


 柱の傷‥‥床のシミ‥‥いつもお手本にしていた、祖母の布団‥‥何処を見ても思い出が詰まっていた。


 だが‥‥。


 ‥‥強く‥‥ならないと‥‥


 深緒は、涙を手で拭った。


 自分は弱虫だという事を、いつも思いしらされていた。それでも(強い子)と言ってくれた和馬に答えたかった。


「‥‥‥和馬様‥‥ごめんなさい‥‥」


「‥‥いや‥‥‥‥」


 まだ半分泣いている深緒に、和馬は小さく笑いかけて、頭を撫でた。


「‥‥‥」


 そして、抱えあげて、外に出た。


 瞬間、屋根が崩れ落ちる。間一髪であった。


「‥和馬様?‥‥‥」


 深緒を下に降ろすと、和馬は刀を構えた。


「‥‥深緒‥‥用心しろ‥‥」


「‥‥‥‥‥‥」


 言われて深緒は、辺りを見渡した。モウモウと煙立つ中に、始めは、何も見つけられなかったが‥‥。


「!」


 人型が、一人‥‥‥二人‥‥三人‥‥五人‥‥煙の中から、スッと、現れた。


 和馬は、手首を交差させた奇妙な刀の構えのまま、彼らを睨みつけている。


 男達の中の首領らしき男が、一歩前に進み出た。


「‥‥お前は、村の者じゃねえな‥何者だ!」


 和馬は男を視線の斜めに捕らえた。


「俺も聞きたい事がある。なぜ、こんな事をした?」


「ああ?」

 男達は顔を見合わせて、ゲラゲラと笑った。


「ん、なせだと? 金目の物を物色する為さ。他に何がある‥‥当然だろう‥‥こう、景気が悪く  ては、我々は食いあぐねる‥‥だからと、言って食わぬ訳にもいかぬからな‥‥恨むなら、お上を恨むがいい」


「全くその通りだな‥‥」


 和馬は、男の言葉に、フンと鼻を鳴らした。


「だが、こんな村にそんな売り物になるような上等な物があるとでも思ったのか? 金目の物所か、食い物すら、ろくにないこんな村に」


「そんな事はないさ」


 後ろにいた別の小柄な男は、ヒヒと、笑って箱の様な物を出した。


「裁縫箱!」


 深緒は、それを見た途端に叫んだ。それは紛れもなく、母の裁縫箱だったのである。


「‥‥‥へっへっ‥‥こりゃ、結構な値で売れるぜ‥‥あんたら‥‥もっと他に何か隠してるだろ?」


 その言葉が合図であったかの様に、男達はわらわらと、和馬達を囲んだ。


「おとなしく出しな‥‥それから、そこのガキをこっちに渡すんだ」


 その声に、深緒は、ほんの僅かな間だけ、怯んだが‥‥。


「‥‥‥」


 和馬の袴の裾を掴んだまま、男達を睨んでいた。


「‥‥和馬様‥‥‥私‥‥」


 深緒はキッとした表情のまま、和馬を見上げた。


「‥‥深緒?」


「‥私‥‥強くなります‥‥決して、足手まといにはなりません‥‥だから‥‥」


「‥‥‥‥」


「だから、一緒に闘わせてください!」


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 和馬は、大きく変わりつつある少女の顔を、しばらくの間、見つめていた。


 そして後、釣り上げていた眉をフッと緩める。


「‥‥よし‥‥」


 刀を下に下ろし、深緒の華奢な手を、剣の束に添える。その上に自分の手を重ね合わせた。

「親指で、しっかりと絞めるんだ‥‥力を入れる時は、親指と小指にだけ重心をかける」


「は、はい!」


 深緒は、正面にいた近くの小男に狙いを定め、刀先を突きつけた。


 小柄な少女は荒い息を吐きながら、肩を大きく揺らす。


「‥‥ふ、ふ、ふざけるなぁぁぁ!」


 男は、気違いの様に叫びながら、和馬達に太刀を振り被ってきた。


 和馬は屈んだ姿勢を崩さない。


「相手が、三歩の距離まで近づいたら、刀を水平にして、上に向ける!」

 何事でもないように淡々と説明を続ける。深緒は和馬のその声を聞いていると、心の波がス‥‥と治まっていくのを感じた。


「はい!」


 返事を返した直後に”ガキン!”という硬い金属音を響かせて、大上段に振り下ろした男の太刀は受けとめられた。

「いいぞ、筋は悪くない」

 和馬は、驚いている男の腹を足で蹴った。


「うぐ!」


 たまらず、男は、ふらふらと後ろにさがる。


「深緒、今だ、腹に力を入れて前に踏み出せ!」


「!」


 深緒がピクッと刀を動かすと、添えていた和馬の手が、刀を力強く前に突き出した。


「がはっ!」


「‥‥‥‥‥‥」


 深緒の手に握られた刀は、正確に男の心臓を貫いていた。


 どう!‥‥と、小男は口から大量の血を吹き出しながら倒れ、その返り血を受けて、深緒の顔は真っ赤に染まる。


「はあ、はあ‥‥か、和馬様‥‥」


「気を抜くな、敵はまだいるぞ」


 和馬は、深緒の頬の血を手で拭いながら、切っ先を首領の大男に向けた。


「ひっ!」


 男は、野太刀をカシャンと、下に落とし、悲鳴をあげた。そして、後ろを向いて逃げ出した。


「か、頭ぁ!」


 他の男達も従って、我先にと、逃げていった。


「‥‥和馬様‥‥‥」


「ああいう手合いは、絶対に自分達が優位じゃないと途端に腰砕けになる。一人やればそれで十分 だ。‥‥それはそれとして、さすが深緒だな。やるじゃないか」


 和馬は半分笑って言った。


「‥でも‥‥手が‥‥まだ震えてて‥‥‥」


 和馬は、一本一本、深緒の指を刀から引き離す。


 深緒は、うつむいてしゃがみ込むと、震える自分の肩を両手で抱いた。


「立派に仇を討ったじゃないか」


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 深緒は和馬の手を掴んで、自分の頬にくっつけた。


「‥‥私‥‥うぅ‥」


「今は、泣く時だ。泣き尽くして、明日は笑え」


「‥‥‥‥‥‥‥」


 だが、深緒は声をあげて泣く事はせず、黙ったまま、夕日が地平線に落ちて闇が訪れるまで、静かにそして力強く、和馬の手を握り続ける。


 やがて、あれ程待ち望んでいた雨が、ポツポツと二人の上に降り出していた。








 夜が開けて、二人が目にしたのは、焼け落ちた村の家々の残骸であった。


 屋根が焼け落ち、焦げた柱だけが無意味に残った家では、炭となった木から雨の水を受けて白い煙をあげている。


 夜党の徹底した焼き討ちは、和馬のいた納屋ですら見逃す事はしなかった。襲撃をかろうじて逃れた人々は、この様な村の惨状を目の当たりにして、呆然とただ立ち尽くす。これから秋‥‥そして冬にむけてどうすればよいのだろうかと‥‥。




 村は廃村と決まった。





「そうか、いた仕方ないの‥‥」


 景庵は、村人の代表の言葉を聞いて、いささか大仰とも言えるため息をついた。


「そういう訳ですので、住職も早めに移られた方がいいです。この辺りからは誰もいなくなります。また夜党の奴らが来るといけませんし‥‥」


「なに、奴らとて、こんなボロ寺に、金目の物なんかあるとは思ってもおらんじゃろうよ。だから心配せんでよい。それよりご苦労じゃったな」


「‥‥いえ‥‥住職も‥‥達者で‥‥」


 それだけ言うと、お辞儀をして出て行った。


「ふむ」


 景庵は肩をすくめて寺の方に向き直る。


 障子も破れ、戸の枠も折れた部屋を横目に奥に進む。


 そして裏口に近い所まで来た時、ガラガラと重い引き戸を開けた。


「きゃあ!」


「うお!」


 景庵はいきなり顔にお湯をかけられ、慌てて戸を閉めた。


 そこにいたのは深緒と、和馬である。


 和馬は笑って言った。


「ひどいな」


「‥‥‥‥‥‥」


 深緒は大きな桶の中に入っていた。中にはお湯がなみなみとある。ここ数日の長雨で水は十分に蓄える事が出来、湯浴みにすら使える様になっていた。


 普段は湯を使う事はなかった。いつも冷たい水でしか洗った事のない深緒には始めての事である。


「加減はこんなものだろう‥‥」


 和馬は、火吹き棒を片手に、煤だらけの額を拭った。


「‥‥私‥‥お湯につかるなんて始めてで‥‥」


 深緒は口の辺りまで深くつかりながら、少し嬉しそうに言った。


「そうか。風呂は湯に入るものだ。都では身分の高い者しか使えないがな‥‥こんなものを持ってるとは、ここの坊主も、とんだ生臭坊主だ」


「和馬様は、都の方まで行った事があるんですか?」


「‥‥ん‥‥まあ‥‥な」


 和馬の答は、歯切れの悪いものであった。


「皆‥‥いい所に違いないと思ってるが、実態は酷いものだ‥‥食えずに行き倒れてる者があっちこっちにいる。少しの食べ物を巡って争いは絶えない‥‥裕福なのはほんの一部の貴族だけだ」


「‥‥‥‥‥‥‥」


「この村はいい所だった‥‥俺は自分の居場所を見つけた気さえしていた‥‥」


「‥‥‥‥」


 深緒は、和馬の言葉の一つ一つを心の中で噛みしめた。


 気さえ‥‥していた‥‥今、ここに和馬の居場所はないのかと‥‥。


「あっ!」


「どうした深緒!?」


 深緒は湯の中でもじもじと体を動かした。


「‥‥いえ‥‥その‥‥か、和馬様‥‥」


「何だ?」


「‥‥私‥‥そろそろ‥‥外に‥‥」


「‥‥ん、出ればいいだろう?」


「だ、だから‥‥その‥‥和馬様は‥‥外に ‥‥」


「?‥‥おかしな奴だな。背中ぐらい流して やるぞ」


「‥‥‥‥‥」


「ん?‥‥‥‥おわっ!」


 和馬は景庵と同じ様に、顔に湯をかけられた。


  どれだけ酷い記憶であっても、年月は少しづつそれを癒してくれる‥‥和馬はそれを知っているのか、それともただの偶然か、敢えて深緒を励ますような言葉をかける事はなかった。

 そのかわりにいつも近くにいて、旅であった様々な話を聞かせていた。

 その話は、笑い転げるほどの滑稽なもの、目頭が熱くなるような話、聞いているだけでいたたまれなくなるものや、その場所で実際に見てみたかったもの‥‥様々だった。


そんな暮らしの中、和馬は深緒を連れ立って高原まで登った。

盛夏から穏やかに秋に向かう時期で、いつしか空には入道雲ではなく、筋雲が現れるようになっていた。

 穏やかな登坂を登っていく。丈の短い草をはむ音が、遠くから聞こえる鳥の声と合わさり、その音が気持ちを穏やかにさせておく。

「今日は風が気持ち良いです!」

「そうだな」

 和馬はボサボサ頭の髪を揺らしながら、深緒の頭を撫でた。

「だが、今日は遊びに来たわけじゃない。冬場の食料調達‥‥狩りにきた」

 背中の弓をおろして深緒に渡した。

「お前は体が小さくて、力も弱い。生きていくには剣ではなく、弓の方がいいだろう」

「‥‥‥‥」

 渡された深緒は弓をじっと見つめる。弓は寺の木材と、仏壇の飾りを使って作った手作りのものだ。その作り方も聞いてはいる。もう一人でも作る事は出来る。

「‥‥‥‥一人でも‥‥」

 その言葉が浮かんだ瞬間、深緒の顔が曇る。

「あそこに鹿がいるのが見えるな?」

「‥‥‥‥」

 深緒は目を凝らして和馬が指さす方向を見つめたが、草むらが広がるだけでそこに何かがあるとは思えなかった。

「形でとらえようとするな。色で判断しろ」

「‥‥‥‥」

 言われてその通りにじっと見ていると、緑色の中に茶色のものがあるのが分かった。

「ここからでは矢は当たらない。音を立てないように少しづつ近づくんだ」

「‥‥‥‥」

 深緒は足元の小石を蹴らないように気をつけながらゆっくりと歩いていく。

 しばらくすると草ばの陰の向こうに鹿の姿を捉える事ができた。

 鹿は足元の草を食べるのに夢中のようだ。まだこちらには気づいていない。

「‥‥‥‥」

 和馬は遠くからこちらを見ている。ちゃんと当てられるか確認しているのだ。

「‥‥‥‥」

 矢を弦に当てて引っ張る。矢じりの先端を目標の鹿と一直線にするが、和馬の教えの通り、僅かに上に向ける。この角度の大きさは対象との距離と風向きによって変わるが、それは状況で判断しなければならない。それが出来れば一人前だと教えてくれた。

「‥‥一人前‥‥」

 それは一人で生活できるという事。鹿などの獲物を狩る事が出来れば、それを食料にも出来るし、どこかで売ってお金を入手する事も出来る。そうなれば‥‥

「‥‥‥‥!」

 ハっとして矢から手を離してしまった。矢は鹿の手前に落ち、驚いた鹿は慌てて逃げていく。

「‥‥‥‥おいおい」

 和馬は呆れたような顔で近寄ってきた。

「いくら何でも外しすぎた」

「‥‥すみません」

「どうした? ちゃんと教えただろう」

「‥‥‥‥」

 すっかり気落ちしている深緒を見て、和馬はため息をついた。

「‥‥そうだな、お前は気が優しい。いきなり生き物を殺せというのも酷な話だ」

「いえ、違うんです!」

 優しいわけじゃない。

「‥‥まあいい」

 弓を取り上げる。

「とりあえず、今度は俺がやろう。このままだと今日は飯が食えなくなりそうだからな。それは勘弁願いたい」

「‥‥‥‥」

 和馬の笑顔に、深緒は何とか笑顔で返した。

 その日は猪の鍋になった。




 人気の無くなった村は、瞬く間に廃村の色を帯びてくる。軒先であったものは、ただの焼け残りの廃材を残すのみであり、かつてそこに人が生活を営んでいた痕跡を残すものは、早々に無くなりつつあった。


 やがて海を渡る蒼い風が、透明な風に変わる。


 季節は巡り、夏は終わり秋になった。


 その時になっても、景庵は村外れの寺から移らずにいた。毎日を犠牲者の為に供養を続けている。身寄りの無い深緒は、その景庵の寺に身を寄せていた。


 そして村の直中に住む者がただ一人‥‥。 







「和馬様ぁ!」


 深緒は、裸足で波打ち際の砂浜を走った。 寄せては返す、波間を器用に避ける。秋の海は、足が踏みつける濡れた砂も、そこはかとなく冷たく感じる。夏の間、あれほどいたカラス達の声も、今は聞こえず、代わりにいつ来たのか、カモメが浜の岩の上で空を見つめながら鳴いていた。


「和馬様!」


 深緒はもう一度、和馬を呼んだ。沖の方の一番先の岩、そこに座っている和馬の姿が見えた。


「‥よっ‥こいせっ‥‥と」


 姿は見えていたが、和馬のいる所までは結構遠い。深緒は岩場を急いだ。


 そしてようやくたどり着く。


「和馬様?」


「ん、どうした?」


 深緒は和馬の隣に膝を抱えて座った。


 入り江の先まで伸びた岩場の端の先端。右も左も海しか見えず、まるで大海の真ん中にいる様に見える。波が当たる音と、風の音以外は何の音も聞こえない。ここがいつも和馬の、そして最近は二人の居場所であった。


 和馬はいつも黙って海を見つめていた。


「‥‥何を‥‥考えていたのですか?」


「深緒は前も同じ事を聞いたな」


「‥‥そうでしたでしょうか‥‥‥」


 深緒も言われて、海から空に目を移す。あの時は、空を眺めながら話していた事を思い出していたからである。


「変わらないんですね‥‥雲は‥‥‥」


「そうでもない、夏と違って薄く広がった雲が多くなっている。もう少しすればもっと違いがはっきりしてくる。毎年、同じだ」


「‥‥‥同じ‥‥ですか‥‥」


 ぼそっと呟く。


 深緒は組んだ両手に、傾けた頭をくっつけ、和馬の横顔を見た。


 もう少しすれば、秋が終わり、冬が来て、和馬はここを出て行く。それは既にない次郎との約束ではあったが、だからと言って破る事はしない事を、深緒は確信していた。


 残された自分はどうすればいいのか見当もつかず、その時の事を想像してぞっとした。

「‥‥いや、そうでもないな‥‥」


「‥‥‥‥‥‥」


 急に和馬がこっちに顔を向けたので、深緒は慌てて目を逸らした。


「深緒は大きくなったな。もう立派な大人だ」


「‥‥‥‥‥‥」


 何と答えて良いか分からずに、深緒は黙っていた。顔が赤くなったのが分かり、和馬の顔をまともに見る事が出来なかった。


 冬が過ぎて、春が来ても、和馬と離れたくはなかった。


「和馬様‥‥私‥‥春になったら、山に行ってみたい‥‥そこはね春に‥‥真っ白な君 影草がたくさん咲くの‥‥」


「‥‥‥‥‥‥‥」


 和馬は何も言わず、深緒は顔を曇らせる。


 嫌な事を言ってる事は、承知していた。自分は何と嫌な奴なのかと‥‥‥。姉の言葉を守った様に、もしかしたらのわずかな希望であった。


「‥‥‥春に‥‥」


「‥‥行けたらいいな‥‥」


「‥‥はい‥‥」


 深緒には、それ以上何も言えなかった。






 それから月日は流れた。


 身を切る風の冷たさは、秋風の比ではない。 直せる所は直したものの、隙間だらけの寺の中にも、容赦なく入り込んで来る。いつの間にそうなったのか、あまりにも自然で気付かぬ程である。


 そして、パラパラと小雪が降りだした朝‥‥‥。






「‥う‥‥ん‥‥」


 深緒はいつもと違う肌の感触に目が覚めた。布団の中に丸まっていても、首の辺りの隙間から、冷たい空気が入り込んで来る。


 布団に入ったまま手だけ出して、戸を開ける。


「‥‥何‥‥‥雪?‥」


 背中に背負った状態で、ごしごしと目を擦った。


 粗末な部屋の中にある物は、和馬に取り返してもらった裁縫箱が一つだけ。昨晩は馴れない手つきで縫っていた。


「‥‥‥‥‥‥」


 深緒は、鉢巻を手に取って眺めた。一生懸命にやったつもりではあったが、やはりあちこち縫い目が蛇行している。


 ‥‥喜んでくれるかな‥‥‥


 そっと頬に当ててみる。


 和馬には、わがままを言いっぱなしであったので、何かお礼をしたかった。だが自分があげれる物は何もなく、考えた末に結局手製の鉢巻になった。


 縫いながらも、月明かりだけで手元を照らしていたので‥‥という理由を色々考えていた。


「‥‥寒‥‥‥‥」


 思いきって布団から外に出てみると、予想以上に寒かった。白い息を、擦りあわせた両手に吹きかける。


 深緒は立ち上がって、隣の和馬の部屋の戸を静かに開けた。


「‥‥あれ?‥‥」


 和馬はいなかった。


 室内は整然としていた。昨日までクシャクシャになっていた和馬の布団まで、きちんと、三折りにたたんである。


 そしてその上に‥‥‥。


「‥‥‥‥」


 深緒は、かつて自分も握った事のある刀を持ち上げた。


 今まで和馬はどの様な時も手放したのを、見た事がない。何かが奇妙だった。


「‥‥‥‥」


 深緒は景庵の部屋にドカドカと走った。


 何も言わずに、ガラッと戸を開ける。


「‥‥‥ん、深緒か?」


 景庵は早朝にも関わらず、きちんとした身なりをして起きていた。


「か、和馬様は、何処に!?」


「‥‥‥座りなさい」


 景庵は、厳しい面もちで床の一隅を差し示した。


「‥‥‥‥‥‥」


 深緒は、両手をきつく握りしめて、はやる心を押さえて何とか座る。心臓の鼓動が早い。「‥‥良く聞くのじゃ‥‥和馬はな‥‥」


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


「‥‥和馬は旅に出た‥‥もうここには戻っては来ぬ」


「そ、そんな‥‥一体何処に⁈」


「深緒、和馬は自らの運命を、自らの手で結 論付けようとしておる。追ってはならぬ!」「‥‥‥そんなの‥‥そんなのって‥‥」


 持ってきた和馬の刀を、膝の上でギュッと握った。その手が細かく震えている。


「‥よいな、深緒‥‥今は辛いだろうが、年 を経れば、やがて忘れる。‥‥和馬は深緒に、誰よりも幸せになってほしいと‥‥‥」


「そんなのってない!」


 深緒は、驚く程の大声を出した。


「‥‥そんなのって‥‥私は、和馬様がいなきゃ、ちっとも幸せじゃないよ!」


 深緒はそれだけ言うと、部屋を飛び出した。「深緒、何処に行く!」


 景庵の制止を聞かず、深緒は寺から出て行った。










 和馬は何処に行ったのか‥‥誰にも行き先は告げてはいない。


 だが、景庵には分かっていた。


 ‥‥そして深緒にも‥‥‥。


 今は冬‥‥平地でも雪の降り始め、山中ではどれほど積もっているであろうか‥‥。


 冬の山‥‥‥香緒が命を落とした事全てを、自らの責任に帰し続けている和馬は、そこに向かうに違いないと、深緒は考えていた。


 山の精霊に殺された者は、山の精霊になって、山に入り込んだ者を襲う伝説がある。


 それが本当の事であったなら、和馬は山に行き、山の精霊となった香緒と、どの様に対するのか‥‥深緒は考えたくはなかった。 深緒は膝まである雪をかき分けながら、ひたすら進み続ける。


 置いていった刀を和馬に渡す為に‥‥。






「‥‥‥⁈」


 深緒はビクッとして顔をあげた。


 さっきまで止んでいた雪が、またまばらに降り始めていた。


 音が聞こえた。


 もちろん、雪深い山の中とは言え、様々な音は絶える事なく聞こえいた。


 風の音、枝に積もっていた雪が落ちる音‥‥それらは山の命の音である。


 だが、聞こえて来たのは、ただの音ではない。


 音ではなく、声‥‥大勢の女の叫び声の様であった。


「‥‥‥‥‥‥‥」


 深緒は、和馬の刀を胸にきつく抱き、目をぎゅっと閉じた。


 ‥‥あれは‥‥山の精霊の‥‥声?


 だんだん大きくなってくる様に聞こえるその声に、深緒は腰が砕けそうになったが、頭をブンブンと振ってその考えを追い払う。


 その様なあやかしは、いないのだと‥‥。そして、それを和馬に伝えなければならない。


 ‥‥和馬様‥‥姉様は和馬様を恨んでなんかいません‥‥‥だから‥‥


 雪が本格的に降り始め、視界は急に悪くなった。


「‥‥‥っ」


 声は間近まで迫っている様であった。


 深緒はそれでも進む事をやめない。山小屋まではあと少し、和馬がいるのはそこに違いなかった。


 ”アアアアア‥‥‥‥”


「!」


 深緒は立ち止まった。


 すでに辺りを声に囲まれていた。


「‥‥か、和馬様‥‥私‥‥‥」


 和馬の刀を抜く。前と違い、支える和馬の手がないので刃先がふらついていた。


 猛吹雪は目すら、まともに開けていられない。


 深緒は刀を構えたまま、わずかに目を凝らした。


「⁈」


 声の正体がはっきりと見えた。それは深緒に襲いかかる。


「‥‥‥‥‥和馬‥‥様‥‥」


 教わった通りに、刀の束をきつく握る。そして走り始めた。


「和馬様ぁ! 山の精霊なんて、そんなものなんていない!」


 深緒は、刀をブンブンと振り回し、大声で叫びながら、声の主へと向かって行った。







「ん?」


 和馬は物音がした気がして、今来た道を振り返った。


 山小屋まであと少しの所で、予想以上の早さで雪雲が発達し、前は白一色しか見えなかった。


 頭に積もった雪を振り払う。さっきから同じ場所を歩いている様であったので、和馬はそこで立ち止まった。


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 目印にしていた木の傷も、この様子では何の役にも立たない。


 手には小刀が一つ。太刀の方は食い扶持の足しにでもしてくれと、寺に置いてきていた。


 和馬は山の精霊を探していた。


 霊の存在を信じてはいなかったが、ただ一つ、山の精霊だけは別であった。


 山には香緒を殺した何か得体の知れぬ存在がいるのは確かであり、それが山の精霊なのかもしれないと‥‥。


 恐らく自分は、山の精霊となった香緒に殺られる為に探すのだと、刀を置いた瞬間、それが分かった。


 ‥‥俺は‥‥居ぬべき者だ‥‥


 旅を重ねる度に、自分は呪われし者である事が強く感じられた。 香緒の事だけではなく、今まで出会った者は不幸になっていた。ならば、不幸にした香緒に殺されるのが本望ではないかと、思うに至ったのである。


 ”アアアアアアァァァァ‥‥‥”


「‥‥来たか‥‥‥‥」


 吹雪の中で、和馬は静かに目を閉じる。


 もはや、雪の音も風の音も耳には届いていなかった。


 本来であれば身の毛もよだつ金切り声のはずであったが、雪風に乗って唐突に声が聞こえてきても、和馬の心は澄み渡っていた。


 ”アアアァァァァ‥‥‥”


「‥‥‥‥‥‥‥‥」


 声は全ての方向から近づいていた。和馬は小刀を下に落とす。サクッと雪の上に突き刺さった。


 ‥‥これで‥‥俺の旅は終わる‥‥‥


 和馬が頭をうなだれた瞬間。


 ~‥‥‥‥‥馬‥‥様‥~


「!」


 深緒の声が流れてきたので、和馬はハッと、目を開けた。しかし雪の白以外は何もない。「‥‥深緒?」


 ”アアアアァァァ‥‥”


 声は至近である。


 ~‥‥‥山の精霊なんて‥‥‥~


「深緒ぉぉ! いるのか、返事をしろ⁈」


 何かが上から飛んで来て、雪の上に突き刺さった。


「‥‥‥これは‥‥俺の‥‥刀‥‥」


 和馬はすでに鞘から抜かれたその刀を引き抜く。そして知らずに身構えた。


 ~‥‥そんなものなんていない!‥‥‥~


「!」


 深緒のその声がした刹那、和馬は頭上から襲いかかる【もの】に向けて、刀を振るった。


 ”ぎゃん!”


 雪上に真っ赤な血を吹き上げて、それは二つにされた。


「‥‥‥‥‥‥‥」


 それは、痩せ痩けた狼であった。周りには例の叫び声を上げながら、同じ様な狼が何十頭となくいた。


 その唸り声と雪風の音が重なり、金切り声に聞こえていたのであった。


「‥‥‥これが‥‥こんなものが‥‥山の精霊の正体‥‥だったのか‥‥」


 和馬は冬場の腹をすかせた狼達を鋭く、ギラッと睨んだ。


 狼達は、殺気を帯びた鬼の様な和馬の顔を見て、一斉に後ずさる。


「うおおおおおぉぉぉ!!」


 和馬が雄叫びをあげると、次々に逃げ去って行った。


 やがて、雪は止み‥‥‥。


「‥‥‥‥‥‥」


 和馬は自分に刀を投げてくれた少女を見つけた。


「‥‥‥深緒‥‥‥」


 和馬は震える手で深緒を抱いた。


「‥‥和馬様‥‥‥無事だったのですね‥‥」


 深緒の唇から生気が無くなりつつある。いつかと同じく、雪の上が血で真っ赤に広がっていた。


「‥‥‥‥‥‥‥」


「‥‥山の精霊なんて‥‥いません‥‥化け物なんて‥‥」


「‥‥ああ、そうだ‥‥いない‥‥」


 和馬は深緒を抱きしめ様として、口から流れる血を見て思いとどまった。


「‥‥ごめんなさい‥‥勝手に寺を出てきて‥‥私‥‥どうしても‥‥もう一人ぼっちにしないで‥‥」


「‥‥ああ‥‥ずっと一緒だ」


 和馬は、その言葉を聞いて、無理に笑おうとする深緒の口の血を手で拭った。


 深緒の頬の上に、涙が落ちる。


「‥‥私‥‥和馬様と‥‥一緒に‥‥山の麓に‥‥真っ白な君影草の野が‥‥あって‥‥そこで‥‥‥」


「‥‥ああ‥‥もう喋るな‥‥」


 和馬の膝の上でかすかに首を横に振った。


「‥‥言わないと‥‥早くいわないと‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」


 深緒は和馬の手を強く握った。


「‥‥私‥‥和馬様が‥‥好きでした‥‥姉様よりも‥‥誰よりも‥‥だから‥‥‥うまく出来なかったけど‥‥受け取って下さい‥‥」


 深緒は鉢巻をそっと差しだした。


 和馬はそれを力強く手に取る。


「‥‥‥よかっ‥‥た‥‥‥」


 その言葉の後‥‥。


 深緒の手は静かに、和馬から離れた。








「‥‥‥もう行くのか‥‥‥‥」


「ああ」


 和馬は景庵に立ち上がってうなずいた。


 季節は移り、春になっていた。


 村のあった場所から近い麓に、深緒の墓を立てた。


 優しく、暖かな風が辺りを満たす。


 一面は君影草の野原であった。サラサラとなびく様は、花の海の様である。


 甘い匂いが鼻孔をくすぐる。


「何処に行くつもりじゃ?」


「‥さあな‥‥」


 和馬は刀の束に深緒の鉢巻を結び付けた。


「‥‥俺は‥‥とりあえず、生きていこうと思う‥‥深緒の為にも‥‥」


「そうか‥‥‥‥」


「‥‥深緒の墓は頼んだぞ‥毎日の水を欠かしたら承知しないからな」


「やれやれ‥‥」


 景庵は肩をすくめた。


「‥‥‥‥」


 和馬が歩き始めたその時‥‥‥。


 ”和馬様ぁ!”


「!」


 深緒の呼び声が聞こえ、和馬は景庵の遥か後方に視線をやった。


「‥‥‥‥‥⁈」


 君影草の海を分ける様に、笑いながら手を振って駆けて来る深緒の姿が、見えたが‥‥。「‥‥‥‥‥」


 やがて辺りの景色にスウッと溶けて消えて行った。


「‥‥なんじゃ、どうしたのじゃ?」


「‥‥‥いや‥‥‥‥」


 和馬は刀を握った‥‥‥。


「世の中に、不可思議な事なんてないさ。なあ、深緒」


 静かに笑いながら、村を後にした。





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