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Another.

 特別だからね。そういってこっそり案内してくれたスーツの大人についていくだけで、心臓が爆発しそうだったことをよく覚えている。

 大好きな人がすぐそこにいると知りながら、じっとしていることはできなかった。もし入っていいと言われなければ、裏にあるはずの通用口からこっそり侵入することも考えていた。それでも難しいのなら、保護者や先生の使う駐車場に回り込んで出待ちをする覚悟だった。

 ホールの中からかすかに話し声が聞こえてくる。耳をそばだてたくなる気持ちをなんとか抑え、案内されるまま一番奥の扉前までたどり着いた。

「もう始まっているから、静かに入ってね」

 こくりと頷くと、スーツ姿のスタッフが講堂の扉をゆっくりと開ける。途端、飛び込んできた笑い声。

「――いやいや、本当ですよ。僕は皆の代返を引き受けるほうの立場ですから」

「おっと問題発言ですね」

「しまった、明日からやりづらくなっちゃうな」

 司会らしき女性の声と、年のわりに落ち着いた低い声。あの人だ。胸がぎゅっと苦しくなって思わず足が早まる。

 細い扉の隙間からすべり込むように中に入ると、通路途中にあった段差を踏み外して、たたらを踏んでしまった。

「っ、すみません」

 潜めて言ったはずが思いのほか響いてしまった。周囲の視線がさっと自分に集まる。はっとして顔を上げると、その先にはすこし驚いたように固まる壇上の人がいた。

「……大丈夫?」

「はっ、はい、」

 恥ずかしくなって隠れるように近くの席に着いた。司会の女性が「それでは次の質問に」と投げかけると、何事もなかったように再びトークが始まり、彼は微笑む。

 神長伊月。洸一郎が初めて恋をした人だ。

 小説家、神長伊月。今年衝撃のデビューを果たした新人作家。新人賞で高い評価を受けた作品のみならず、著者である神長氏自身のバックボーンも含め、今最も話題の人物と言えるだろう。

 神長氏は本学・白林館大学を二年留年中の現役学生であり、デビュー作『昼に光る星』の主人公同様、自信もバイセクシャルであると公言している。なによりも彼の繊細な作品世界をそのまま写し取ったような本人の容姿を、メディアは放っておかなかった。

 今やちょっとしたアイドル扱いであることは承知していたけれど、改めて見渡すと、ホール内にいるのは女性ばかりだった。年齢層は神長氏と同じ大学生ぐらいから、かなり大人に見える人まで幅広い。洸一郎自身も、母が購入したらしい『昼に光る星』を自宅で手に取ったことが彼との出会いのきっかけだった。

 衝撃を受けた。自分の心の中を暴かれたような気分だった。自分が抱えていた悩みにも満たない小さな傷を、こんなにも優しく労わってくれるのがただの創作だなんてありえないと思った。これを書いた人の中にはきっと、もっと大きな痛みがあるに違いないと。

 それから彼のインタビューを読み漁った。どんな小さなコメントにも目を通した。出演番組も可能な限りチェックした。そうするうちに自分が彼に恋をしていることを自覚して、その気持ちこそが、彼が抱える痛みにもっとも近いものだということも理解した。

 今日の神長氏は、黒のセットアップ上下に、リネンのような柔らかそうなマオカラーのシャツがよく似合っている。ゆるいウェーブのかかった黒髪に、すっかりトレードマークになっている細いシルバーフレームの眼鏡。

 途中入場したせいもあるだろうが、ふわふわした気分で話を聞いているうちにトークはあっさり終わってしまった。ではこの後はサイン会に移らせていただきます。司会の誘導で客席の女性たちは立ち上がり、列を作る。

 このイベントは大学主催のもので、抽選で選ばれた一般来場者のほかに、学内からも参加希望者を募っていた。もっとも大学生が対象で、高校生どころか中学生の洸一郎にはチャンスはないと思われたのだが――入れてもらえたということは、熱意が伝わった、と思って良いのか。持参した『昼に光る星』を手に、列に入る。

 にこやかに話しながら、握ったサインペンを丁寧に滑らせる手元を見つめる。サインというのはもっとささっと書くものだと思っていたが、会話のテンポに合わせてゆっくりとなぞられていく線は思いのほか力強い。

「どうぞ」

 呼びこまれてはっと顔を上げる。画面の中で何度も見た笑顔が自分に向けられていると思うと、緊張でどうにかなりそうだった。

「あっ、あの……」

 本を手渡すと、神長氏は慣れた手つきで表紙を開いた。 

 言うべきことはたくさんあるはずなのに、何を言えばいいか分からない。大好きです。何回も読みました。主人公の気持ち分かります。僕も同じように思っています。あなたの本に救われたんです。

「高校生?」

 おなじ白林の子だよね。覗き込むように目を合わせられて、息が止まった。滑らせたペン先がきゅっと鳴る。

「いえ、中学生で……」

「中学生! もっと他にも読むべき本があるだろうに、ありがとねえ」

 インクの匂いに混じって、微かに届く彼自身の香り。強い香水は好きじゃないと何かに書いてあった気がするけれど、じゃあこの香りはなんだろうか。何も言えないまま、笑うと目の横に寄るかすかな皺を目で追ってしまう。

「じゃあもうすぐ期末試験だね」

 そんなときに来てくれたんだ。うれしいな。懐かしいや期末試験。何も言えない自分のかわりに話をつなげてくれていることはわかるのに、やっぱり言葉は出てこない。

「名前は?」

「ささいこういちろう、です」

「コウイチロウ。どんな字?」

「さんずいにひかり……」

「かっこいいじゃん」

 イチロウは、イチにロウ? ペン先を細いほうに変える手元をじっと見ながらただ頷く。苗字は別に言う必要なかったのか、と思ううちに、神長氏の文字で自分の名前が綴られた。

 すると彼は一度本を閉じかけて、あ、と再び同じ個所を開くと、名前の横にさっと何かを書き足した。

「はい! 試験がんばって」

 またね。にこ、と笑って差し出された左手にそうっと触れる。少しひんやりした、だけど生きている人間の手で、それが自分の手に触れているなんて嘘みたいだった。


 それ以来、伊月がさまざまなプロモーション活動としてサイン会や握手会を行っていたことは知っているけれど、一度も参加することはなかった。あの講演会の記憶は、あまりにも特別すぎて。

「まさかあのときの司会のお姉さんが、今の上司だとは思いもしませんでしたけど」

 アナウンス室内の洸一郎のデスクは、一番大きな机のすぐ目の前にある。一番大きな机というのは、ヒノテレビ現アナウンス室長、橋上美奈子の机である。

「まさか笹井くんが神長先生の大ファンだったとは」

「神長先生のインタビューとるの、ひとつの夢だったんで。感無量です」

 笹井が担当する『エンタメ・ライド』内で扱うことになった神長伊月のインタビューを、絶対にやらせてほしいと挙手したのは笹井自身だった。正直なところ、VTRを多用する構成でなくロングインタビューを、担当になったばかりの笹井一人で進行するには、まだ力不足がいなめない。しかし笹井の熱意と、神長氏のトークスキルなら大丈夫なのではという橋上の後押しで笹井のインタビューに決定したのだった。

「神長さん話うまいから大丈夫でしょ。胸を借りるつもりで頑張って」

「それはもう……」

 胸ならいつも借りっぱなしなのだ。なにせ今や日々の食事や生活の面倒までみてもらっているのだから。逆にそういう親密な空気が画面を通して伝わってしまうものなのかどうか心配になっているくらいだ。

「十年ぶりの再会か」

「そうなりますねえ」

「新作、私も楽しみだなー。手に入ったら読ませてよね」

「もちろんです!」

 なんて、少し白々しいか? 小さく舌を出しながら、今日も家に帰れば両手を広げて迎えてくれるはずの恋人の顔を思い浮かべる。

 洸一郎が十年越しの初恋を実らせたことは、まだふたり以外、誰も知らない。





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