落ち着いた照明のスタジオで、女性アナウンサーが告げる。
「――――続いて、エンタメ・ライドのコーナーです。今週、新作『祈る雨』を発表した作家、神長伊月さん。ハイペースで新作を生み出し続ける神長さんの、その原動力を探りました」
スタジオ映像から作家・神長伊月の紹介VTRに切り替わる。今年は八月に出た例のエッセイの単行本と、九月はこの『祈る雨』刊行、そして十月にいくつかの旧作の文庫化、と連続した十周年キャンペーンが実施されていて、この秋の伊月は創作活動よりも宣伝活動のほうが多くなっていた。この夜のニュース番組『ニュースライド』をはじめ、ヒノテレビでもインタビュー映像を交えたプロモーションをいくつか行ってくれていて、それ自体は伊月にとっても作家冥利に尽きる大変ありがたいことなのだけれど。
紹介VTRからインタビューの収録映像に切り替わる。このインタビューは版元の会議室で行われたもので、雑誌やテレビなど、取り上げてくれる媒体ごとに順に撮影されている。真ん中に本が置かれていて、左に神長伊月、そして右側にヒノテレビアナウンサー・笹井洸一郎とテロップが出る。
「これまでは若者を主人公にした青春小説が多かった神長さんの作品ですが、この『祈る雨』は少し大人な雰囲気ですね」
今作は、東京での生活に疲れ四十代でセミリタイアし、東北の漁村に移り住んだ男が主人公。他の媒体では漁村の描写からか伊月の出身地について言及するインタビュアーが多かったが、笹井が用意していた質問は別の切り口で、ああ、と思ったことを思い出す。
「自分自身、年を重ねましたので、見える景色も随分と変わってきたかもしれません」
映像の中の伊月が答える。
「根底にある繊細さや感性のみずみずしさは変わっていないように思いますが」
「はは、それは嬉しいと思っていいのかな」
ここは使われたのか。伊月は使われないだろうと思っていた部分だったので少し意外で、ふむ、とディレクターの意図を推し量る。質問は微妙だけれど、和やかな雰囲気が伝わって良いということだろうか。プロモーションのためのインタビューなのにお前が言いたいことを言ってどうする、と、あとでツッコんだのを覚えている。
「僕は想像力が乏しいので、どうしても体験に寄ってしまう。プライベートに変化があると作品にも影響するタイプなんですが、感じ方は変えられないので、そこはどうしても似てきてしまうのかな。逆にそこがブレなければ、神長伊月の作品だと胸を張って言えると思いますが」
ここで映像はインタビューのまま、笹井の相槌ではなく、ナレーションで「そんな神長さんが、これからも書き続けるために」と入る。
「だから書き続けるためには、たくさん体験しないといけませんね。まだ見ぬ景色をたくさん見ていきたい。それが、僕が書き続ける原動力なのかもしれません。今度はスカイダイビングとかやってみようかな?」
最後に週末に実施されるサイン会の告知が被って、コーナーは終了。賑やかな音楽と共に「次はスポーツのコーナーです」と、画面は慌ただしく切り替わった。伊月も再び視線を手元に戻す。
……と、足元から「ううう」と唸り声が聞こえてきた。
「うーっ、やっぱりさっきの他局のほうが尺長い! 俺だってけっこう時間もらったのに、悔しい!」
そうしてまたぽちぽちとチャンネルを変えて回るのは、インタビュアーのアナウンサー・笹井洸一郎ではなく、伊月の恋人・洸一郎である。
洸一郎はこの九月の番組改編で、『おまステ』のレギュラーに加えて夜の『ニュースライド』のエンタメコーナーを担当するようになった。このインタビュー収録は九月上旬で、『ライド』の取材としてはまだ数回目という時だった。
「たしかに、質問関係なく俺が喋ったことのほうが見出しになってたしな」
「ウッ……力不足で申し訳ない……たくさん宣伝したかったのに……!」
洸一郎が話を引き出す力よりも、伊月の求められているであろうことを話す能力のほうがはるかに高いのは仕方がない。キャリアが全然違うのだから。しかし『おまステ』でそうであるように、誰にでもうっすらと好感を抱かせるたたずまいは、インタビュアーとしては良い方向に作用するだろう。能力は訓練次第で伸ばせるが、そうした素質は磨いてどうにかなるものではない。洸一郎はきっとここでも良い仕事をするだろうと伊月は思っていた。恋人なりの買いかぶりかもしれないけれど。
「ほら書けたぞ、お母さんの分」
「ありがとうございます!」
伊月は何をしているのかというと。わざわざ洸一郎が近くの書店で購入してきたらしい数冊の新刊に、要求されてサインを書いているところだった。ソファでそれをしている伊月の足元で、洸一郎は床に直接腰を下ろしてテレビにかじりついていたというわけだ。
「あとなんだっけ」
「祖母と伯母です! すみません、うちの母方は皆そろって先生のファンなので」
「それはそれは、ありがたいことです」
そもそも読書家の君のお母上が、当時の自分のような新人作家のデビュー作を買ってくれたおかげで君と俺は出会えているわけなので、このくらいはお安い御用ではあるけれど。油性ペンを滑らせながらぶつぶつと唱える。
「お祖母様、お名前は」
「小百合です!」
お母様もお祖母様も、お母上のお姉様も。まさかこの作家風情が、笹井家の末っ子たる可愛い洸一郎の恋人であるとは、夢にも思っていないだろう。小百合さん、すみません。丁寧に宛名を入れながら、少しばかりの罪悪感を抱く。
書き終えて綺麗に重ねた三冊を書店の紙袋に戻すと、洸一郎が「あのぉ」ともう一冊鞄から本を取り出した。
「先生、俺もサイン貰っていいですか」
「別にいいけど、今更ほしいか? 毎日会ってる相手のサイン」
働き方が見直されつつあるとはいえ、まだまだ過重労働といえる業界だ。『おまステ』に『ライド』、レギュラー番組以外にも若手アナウンサーの仕事は山ほどあって、寝る時間もろくにとれない。いくらタクシー移動が許されているといっても、移動が負担になっているのは目に見えていた。気の毒に思って家に泊めているうち、ほどよく図々しい伊月の恋人は、伊月の部屋にすっかり居着いてしまったのだった。伊月もこの時期は家にいないことが多く、そうでもしないと滅多に顔が見られなくなるのも事実で。この一か月近くは半同棲のような生活を続けていた。ほぼ毎日顔を見ている相手に今更サインを書くというのも、なんだか気恥ずかしくないか? それは貰うほうだって同じではないか?
伊月が怪訝な顔で「ほら」手を出すと、控えめに差し出された本は他のものとずいぶん様子が違っていた。
「これ……」
一見して分かる、年季の入った古い本。日に焼けたブックカバーはお馴染みの書店のものだけれど、今はもうデザインが変わってしまっているはずだ。表紙の横、ちょうど真ん中あたりが少しよれていて、本棚に飾られていたわけでなく、何度も手に取ってちゃんと読まれていたものだとわかる。
本を開くと、見返し遊びの部分にはすでにサインがあった。見覚えのありすぎる自分のサイン。日付は十年前。後ろを捲って奥付を確認する。タイトルは『昼に光る星』、日付は当時のもので、刷も初版とある。
「大学構内で講演会があったとき、無理言って入れてもらったんです」
「あー……あったかもなあ、そういうの」
当時の伊月はその手のイベントがあまり得意ではなかった。たくさんの人間が来て、順番にサインを書く。向こうからしたらたった一度の機会かもしれないけれど、こちらにとっては流れ作業になってしまうその非対称性があまり好きではなかった。今は大事な宣伝活動の一環と思えるが、あの頃は一人一人の顔、一つ一つの出会いを安く扱っている気がして、罪悪感すらあった。今、大事なものと認識している洸一郎のことでさえ、当時はすぐに記憶から消えていってしまう作業のひとつだったことを思い知らされ、そのことは今もまた少しだけ伊月を傷付ける。
経年を感じさせる紙の肌を指で撫でてみる。きちんと宛名も入っている。洸一郎という名前を書くのは初めてではないということか。その隣には「試験がんばって」という走り書きのような文字。
「本当はもっと言いたいことあったはずなんです、先生の本に救われました、とか……でも何も出てこなくて……そしたら先生が」
「えっ、俺?」
「先生が『高校生?』って聞いてくれて。いえ中学生ですって言ったらすごく驚いてくれて、じゃあもうすぐ期末試験だね、頑張って、って言ってくれて」
「……俺って本当に…………」
当時から余計なこと言ってんな、と伊月は頭を抱える。さっきのインタビューと同じで、質問の答えや相手が聞こうとしていることを横に置いて勝手に話を進めてしまう。喋る仕事としては役に立ったかもしれないけれど、一対一の会話においては余計な癖としか言いようがない。
「悪かったな」
「えっ、嬉しかったですよ」
新しくサインを書くべく、裏側の遊びを開く。ペンを滑らせていると、ぼんやりと記憶が浮かび上がってきた。
いつも講義を受ける側だったはずの大講堂でマイクを持って話す違和感。構内にいるのに、友人ではなくファンと出版社やメディアの人間に囲まれている居心地の悪さ。そこに途中で飛び込んできた、白いシャツの――――。
「あっ!」
「はい?」
「思い出した、学生服の!」
そう、白いシャツの、学生服の男の子が飛び込んできて、驚いて目を奪われた。だからサインの列に並んでくれたときから話しかけようと決めていたのだった。本を買ってくれたことも、勇気を出してイベントに来てくれたことも、嬉しかったから。
「えー、本当に覚えてます?」
「覚えてるよ」
ちゃんと覚えている。だって嬉しかったから。もしかしたら自分と同じような悩みをこれから抱えるかもしれない、君みたいな人に寄り添いたくて書いた本だったから。講演会も、たくさんの人が読んでくれることで、そういう誰かにも届く可能性が上がるって信じて受けた仕事だったから。みんなが知ってる本になることで手に取るハードルを下げたいとずっと思っていたから。
伊月はなんだか胸がいっぱいになって、宛名を書く前にひとつ深呼吸をした。そしてゆっくり、丁寧に、恋人の名前を綴る。
「……はい」
「ありがとうございます! ……っ」
洸一郎へ、十年分の愛をこめて。
そう書かれたページを前に、洸一郎もまた、溢れそうな何かを堪えるような表情を見せた。
「ずっと好きでいてくれてありがとな」
願わくばこれからもそうであってほしいと思ってるよ。伊月が感極まっている頭をなでてやると、洸一郎は伊月でなく、受け取った本をぎゅっと抱きしめた。
「先生! 家宝にします!」
「いやまあ……嬉しいけど……」
どちらかというと抱きしめてほしいのはこっちなんだけど。拗ねて見せると、恋人は慌てて伊月の腕を引き寄せた。
洸一郎が見せてくれる新しい景色に期待している、その気持ちこそが恋だ。そうして新しい恋をして新しい体験をして、新しい世界を作っていけたらいい。それが君のような誰かの心に少しでも寄り添えたらいい。それが書き続ける理由になる。
あとはいい加減「先生」と呼ぶのをどうにかしてくれたらいいのだけど、そのへんはいずれ、ゆっくりと。