「お邪魔しまあす」
あっさり来るんかい。またもや自宅の敷居を軽々しく跨ぐ笹井に、伊月はひそかにつっこみをいれる。いや、来てくれと言ったのは自分だけれど。
台風一過から、さらに数日が過ぎた頃。いよいよ夏本番と言った暑さの中、笹井はやってきた。
『おまステ』の出演がない金曜と土曜は夕方のストレートニュースを担当しているらしい。公休は日月。内勤だった土曜日の今日は夕方のニュースを読み終わり、定時に退社してきたとのことだ。
「先生の家、局に近くて助かります」
「笹井くん、君、たまにすごく図々しいよな」
「甘え上手って言ってください」
そいういうとこだぞ、君。一人っ子である伊月にはよくわからないが、こういうのが末っ子気質というのだろうか。遠慮のしすぎも可愛くないというのは確かに事実なのだけれど、と言っているうちに堂々とくつろぎはじめるあたり、かなり大物なのかもしれない。
「気にしても仕方ないって思うようにしてます」
冷えた緑茶を出すと、笹井はグラスが汗をかく前にぐいぐいと飲み干した。もう一杯ぶん注ぎ足してやり、伊月はキッチンへと戻る。
「先生に相手にされないのは悲しいですけど、こうやって連絡もらえるのはやっぱり嬉しいので。ダメですか?」
「いいよ、別に。嫌いじゃない」
嫌いじゃないから呼んだんだ。言ってやると笹井は少し固まって、青いシャツの襟元をはたはたと扇いだ。
「家ごはんとは思いませんでした」
見ててもいいですか、というので、伊月は「どうぞ」と答える。といっても準備はほとんど終わっているのだ。今日のメニューはローストビーフにマッシュポテト、ラタトゥイユ、かぼちゃの冷たいポタージュ。外が暑いからと冷たいものばかりにしたので、ひとつくらい暖かいものを作るべきだったと思い直し、ブロッコリーとじゃがいもの残りを蒸していたところだ。横にはすでに炊きあがった米が土鍋の中で蒸らされている。
せいろの蓋を外すともわっと湯気が立ちのぼり、笹井はわあ~と声を上げた。芋に串を刺して火の通りを確かめ、完成。せいろ蒸しはそのまま食卓に出せるから良い。
寝かせてあった肉を取り出すと、また笹井がうわあ!と歓声をあげた。いちいち反応が良いのはうれしいが、なんだかくすぐったさもある。
「もしかして、いいお肉買ってくれたりしました?」
なかなか鋭い。たしかに一人の時には買わないような、少し気張った食材を準備したのは事実だ。
「まあね。口説こうとしてるから」
「えっ」
「いや、冗談」
冗談、でもないけれど。でなければ何のために呼びつけたのかという話だし。
「これが趣味なの。自炊じゃなくて趣味の料理、ストレス解消」
「へえー、よく違いがわかりません」
節約や健康のための自炊と、趣味の料理は少し違う。特にこうしたもてなしの料理は、作る機会も相手も限られる。あまり頻繁だと相手を恐縮させるし、最悪、下心があると見做されて関係を壊してしまうことすらある。
笹井ならその点安心できるというのが伊月の算段だった。食べ物を振る舞われるのに慣れているし、恐縮することもなさそうだし。下心があると思われてもそれはそれでまあ、良い。
「君はいつも通り美味しい美味しいって食べてくれればいいから」
「はーい」
ご機嫌な様子でテーブルに着いた笹井の前に料理を並べる。山盛りの肉、たっぷりの野菜、スープに米。そしてグラスに注いだビール。この机にこんなパワフルなメニューが並ぶのはいつぶりだろう。近頃は振る舞う相手なんてきらりくらいしかおらず、お互いに外で食べられないものを食べたいと言い、魚とか煮物とか、質素な家庭料理になりがちだった。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
そっと手を合わせて、静かに箸を取る。番組を見ていてもわかったが、箸使いがちゃんとしている。大口で気持ち良く食べるわりに、食べ方も綺麗だ。そういうところもコーナー起用の理由だったのではないだろうか、と伊月は勝手に思っている。
「……! 美味しいです! すっごく!」
「そりゃよかった」
「お肉めっちゃ柔らかい!」
ん~、と目を閉じて肉を味わう表情に、伊月も思わず笑ってしまいながらビールを飲む。若者が飯を食うのを見ながら飲む酒が美味いなんて、年をとったものだ。
「でもどうして来る気になった? のらりくらりかわしてたくせに」
「かわしてたわけじゃありませんよ! 本当に仕事の都合がつかなかっただけで」
「……そうなの?」
「はい。台風中継のとき待機シフトだったんで、いい加減ちゃんと休めって言われて明日は公休です」
もぐもぐと食べながらしゃべっても汚く見えない。大したものだと感心する。
「見てたよ」
「え、中継ですか?」
「そう、新橋駅前からお伝えしてた。頑張ってた」
「…………」
お、照れてる。箸がとまって視線が泳ぐのを、伊月は機嫌よく眺めた。少しかさの減ったグラスにビールを足してやりながら、「俺はさ」と続ける。
「俺はこんな仕事をしているくせに、想像力が足りないんだよな」
「え? そんなわけなくないですか?」
あんなにたくさんフィクションが書けるのに? 冷製スープを飲み干しながら、笹井が首を傾げる。綺麗に熱の通ったブロッコリーをつまみあげ、伊月は笑った。
「若い局アナなんてチャラチャラした仕事だと思ってたの」
「よく言われます」
そうだろうとも。凡俗な人間たち同様、自分もそう思っていたのだ。
「だけどさ、ひとたび何か起きればああやって、危ない場所に行ったり、寝ずの番をしたりするんだよな」
「…………」
「色々言われることもあるだろうし。俺みたいな想像力のない奴に」
「そんなっ、……そんな、ことは」
ないとは言えないだろう。実際言う奴は少なくない。口に出さずとも思っている人間は、言う奴の十倍百倍はいるはずだし。
脇に置かれていたグラスを手に取ると、笹井はビールを一気に煽った。ぷは、と息をついて伊月を見る。ローストビーフは最後の一枚が残っていて、マッシュポテトと一緒に、腹におさめてもらうのを今か今かと待っている。
「ごはん、おかわりあるけど」
「いただきます……」
食べるんだ、ははは。伊月が笑いながら席を立つと、背中に抗議が飛んでくる。
「肉も、もうちょっといけるなら切るけど」
「いけますッ……!」
「わはは、そうこなくちゃ」
なんとなく思い出してきた、そうだ、あの夜もこんな雰囲気だった。寝ちゃうんですか、ちょっと、大丈夫ですか、靴ちゃんと脱いで。慌てる様子が可愛くて、つい気を許してしまった――――ような気がする。確信はない。
それからしばらくは邪魔せずに食事をするのを見守って、あらかた平らげてもらったところで、もう一度腰を上げた。食器を下げるついでにやかんを火にかける。
「コーヒー飲む?」
「あー、えっと」
「もしかしてコーヒー苦手? ミルクあるけど」
「お願いします……」
なんだ、苦手ならそう言えばいいのに。もしかしたらこの前飲まずに帰ったのもそのせいか? 薦められたのに悪い気がして言えなかったのだろうか。
「お茶にしようか?」
「いえ、先生のコーヒー飲みたいので!」
先生コーヒーお好きなんですよね。雑誌のエッセイで書かれてるの読みました。急にファン然としたことを言われて少したじろぐ。
「……あっち座ってて」
ちょっと可愛いことを言われた程度で、ぐっときてしまった。やっぱりこの気持ちはなんだか不健全な気がするが、そもそもこの年になって、惚れた腫れたに不健全も何もなかろう。
「コーヒー、あまり飲まない?」
「そうですね……うちは母が紅茶派なので」
「ははは、わかるわ~。庭でバラとか育ててない?」
「なんでわかるんですか?」
マジかい。良いとこのお坊ちゃんこと内部生のお母さんといえば、ひらひらのワンピースにイングリッシュガーデンに花柄のティーセットと相場が決まっているものだと思ったのは本当だけれど。
「たしか犬もいたよな」
「はい!」
「まさかフワフワしたちっさい犬?」
「フワフワ……? まあ大きくはないですね」
うちのはミニチュアピンシャーっていって、あっ、写真見ますか? 無邪気にうちの子自慢をする些細の姿に、変なステレオタイプを押し付けてすまなかったなと伊月は内心反省した。
十も若いからなんだというのだ。それが、彼が真剣に恋をしていない理由になるのか。自分が彼に恋をしてはいけない理由になるのか。
「これ、まだ子犬だった頃なんですけど」
「どれ?」
スマホの中の画像を探している笹井の前にマグカップを置いてやり、自分も隣に腰を下ろす。
「ああ、毛が短いんだ」
「そうなんです。小さいけど元気いっぱいで」
「これ笹井くん? 可愛いな」
毛足の短い、茶色い小さな犬が、白林館の制服を着た男の子に抱かれている。
「……あの」
「なに?」
「近いですね……」
たじろぐ笹井を覗き込むように、伊月は少しばかり見上げる視線で彼を見た。
「心配だったよ」
真剣な表情に、あの日の映像を思い出す。
ほんの少し離れただけの場所で、雨風に打たれながら仕事をしているその姿を、自分の目ではなく画面を通して見ていること。まるで手出し無用だと言われているような、絶対的な距離を感じた。車で10分、画面一枚。決して飛び越えられはしない距離。
「心配だった。シンプルに、心配で胃が痛かった」
どこかの知らない誰か、チャラチャラした若者、そういうイメージの中の誰かじゃなくて。あなたの本に救われたと言ってくれた、一人の読者として。ずっと好きでしたと言ってくれた、一人の人間として。
「どうしてだと思う?」
「……なんでそんな、期待させるようなこと言うんですか」
「口説くつもりだって言ったろ」
「っ、!」
すっかり自分のペースに持ち込めたことで、伊月には余裕が生まれていた。だから笹井の少し紅潮した頬は、さっき飲んだビールのせいだけではなく、緊張と興奮からなるものであると確信している。
「なっ、なんかおかしくないですか!? 僕が先生のこと好きだって言ったのに!」
「言いっぱなしで帰るからだろ」
「それはそうですけど……!」
スル、と膝を撫でると、バッとその手を取り上げられた。
「ダメです!」
「なんで」
「なんでって……」
拗ねてみせると笹井はさらに頬を赤くした。どうやらベタなのが好きらしい。それならそれで攻め方というものがある。もたれかかるように少しずつ体重を掛けていくと、突き飛ばすこともできない笹井の腕の中に容易く侵入することができた。
「先生、今日ちょっと格好良すぎるのでダメです」
「なんだそれ」
格好良いと思ってくれるのは嬉しいけれど、だからダメと言われるのならそれは困るのだが。怪訝な顔をした伊月をやんわり押し戻しながら笹井は続ける。
「この前は先生、油断されてたじゃないですか。パンツ脱ぐし」
その話をされると弱い。あの日パンツを脱いでしまった理由だけは未だに謎に包まれている。おそらく解けることのない謎だろう。
「でも今日はなんだか、隙がないっていうか」
「気合い入ってるからね」
そもそも、そこまで格好良いと思ってくれるの君くらいのものだと思うけれど。伊月は押し留める力に逆らって、さらに顔を近付けた。慌てた笹井は避けるように伊月の顔と自分の顔の間に、障壁のように手を挟み込む。
「だからっ、格好良すぎて無理、って、ちょっ!」
大きな手。掌に唇を寄せると、驚いて引っ込められた笹井の手が力強く伊月の両肩を掴んだ。せっかく縮めた距離が、と思っていると、笹井がぎゅっと眉を寄せる。
「十年ですよ!?」
その目には少し涙を浮かべていた。からかいすぎたか、と一瞬で胃の辺りが冷える。
「十年ですよ、十年! こちとら十年ずっと好きだったんですよ! 先生から見たら俺なんて、会ってまだ一か月も経ってないじゃないですか!」
「ご、ごめん」
勢いに負けて思わず謝ってしまったが、言っていることはよく分からない。
「だから、嫌なんです俺は……一夜の過ちとか、気の迷いとか、そういうのは嫌なんです! 俺の十年を、過ちや気の迷いにしないでください」
そんなことになるくらいなら、綺麗な初恋の思い出のままにさせてください。
潤んだ瞳で俯く笹井を、可愛いと思う一方、何勝手に勘違いしているんだと腹立たしく思う気持ちの両方が湧いてくる。確かに会ったその日に部屋に連れ込んだりしたのだからそう思われても仕方がないかもしれないけれど。
「だから一回だけとかそういうのは」
「誰が一回だけなんて言ったよ」
え、と間の抜けた顔をする笹井の額を突いてやる。
「笹井くん。君にとっては古ぼけた初恋の思い出かもしれないけど、俺にとっては始まったばかりの恋なんだからさ」
勝手に一晩で終わらせないでくれよ。こつんと額を合わせ、唇を寄せ――――既のところで、笹井が感嘆したように口を開いた。
「先生って、本当に小説の台詞みたいなこと言うんですね」
「馬鹿にしてんな」
「まさか!」
いや、一世一代の愛の告白を茶化されたようにしか思えないが。白い目を向けていると、笹井はそれを知ってか知らずか、噛み締めるように、緩む口元を押さえていた。
「じゃあ俺も、先生の書く台詞みたいなこと、言ってもいいですか」
伊月が笑って頷くと、笹井はひとつ深呼吸をしてから、ぎこちなくゆっくりと口を開いた。
「ずっと、――――ずっと、あなたのファンでした。でも今日から、あなたの恋人になってもいいですか?」
「……勿論」
これから始まる物語がどんな展開になるのかはわからないけれど、俺には書けそうもないストレートな台詞や、俺には思いつかないような新しい展開を、この恋はもたらしてくれるはずだ。
伊月はそう確信して目を閉じ、唇に笹井のそれが重なるのを待った。