笹井洸一郎、24歳。ヒノテレビアナウンサー二年目。出身は東京。白林館大学卒。彼の口から出たのは、ネットで検索したのと同じプロフィールだった。湯を沸かす準備をしながら、伊月は笹井の話に耳を傾けていた。
「僕、中学校から白林館で」
「うわ、マジの内部生か」
有名私大にはよくあることだが、中学校やそれ以前からその学校にいる「内部生」と、高校あるいは大学から受験を経て入ってくるいわゆる「外部生」の間にはかなり大きな違いがある。たとえば内部生は、幼稚園や小学校から子供を受験で私立に入れられるような親の経済力だったり、あるいは代々その学校に縁のある家柄だったり、学校に寄付をしている資産家から推薦をもらえるコネクションだったり、言ってしまえば恵まれた環境下にある子供がほとんどだ。一方で外部生は、自力で試験を突破するだけの偏差値こそあるものの、地方から出てきた場合は授業料だけでなく下宿の費用や生活費など、親からの仕送りだけではどうにもならずアルバイトなどで生計を立てるものもおり、端的に言えばたくましい人間が多い。両者は対立関係と言わないまでも、分かり合うのはなかなかに難しい。伊月は地方出身の外部生であるために、内部生とはあまり折り合いがよくなかったという思い出がある。
「お察しの通り、子供の頃から両親祖父母に溺愛されて育ちました。この時計は祖父が成人祝いにくれたものです」
なるほど、物が良いわけだ。さぞかし品の良いお祖父様なのだろう。
「兄がいるので、プレッシャーとかもなくて。好きなことを好きなだけやりなさいって言われて育って」
「ほー……それは、うらやましいこって」
みんなそう言います、と苦笑する。恵まれてるのは分かっていますけど、とも。
「中学二年生の頃です。男子校でもだんだんみんなが色気づいてきて、ネットでエッチな動画を探してきて見たりとか、どこの学校の女の子と付き合ってるとか、そういう話が増えてきた頃に……あれ、なんか俺、みんなと違うなって。俺、男の子のほうが好きかもって思って」
「…………」
その感覚は、伊月にも覚えがある。この女エロいよなって言ってくる同級生男子に対して、俺にはお前のほうがエロく見えてるけどな、と思いながら、それを押し込める感覚。そこには常に薄っすらと罪悪感が付きまとった。信頼してあけすけに話してくれている相手に対して一方的に性的な興奮を覚えているという加害的な意識。単純に、親しい友人に対して秘密を持つ罪悪感。相手が親しければ親しいほど、好ましければ好ましいほど、罪の意識は深くなった。そういうときに、自分を律するほど孤立を深めていく寂しさは、よく分かる。
「誰にも言えなくてしんどかった時に、ある人と、ある本に出会ったんです」
「え……それって」
「神長伊月の、『昼に光る星』」
笹井は少しうっとりしたような声で、そのタイトルを口にした。それだけで、彼の中でずっと、その本が宝物のように大事にされてきたのだと分かる。
想いの質量に息が詰まる。火にかけていたやかんが、しゅんしゅんと無粋な音を立て、伊月はようやく呼吸を思い出した。
「自分の学校の先輩にあたる人が、在学中にこれを書き上げた。それだけでも、すごい、カッコいい、って思ったけど――――僕は、あの本に救われたんです」
僕が誰を好きになったとしても、僕にはそれを心に秘めておく自由があるし、他人にその善悪を断じる権利はない。
『昼に光る星』の一節だ。たとえそれが、想いを寄せられた当事者であったとしても――――と続く。
「初恋でした」
思い出を語るように、笹井は目を閉じる。
「先生本人も、まるで物語の登場人物みたいでした。美しくて聡明で鋭くて、不遜な表情でインタビューを受ける、どこか不安定そうな瞳に釘付けでした。……それから僕は、男の子に恋することも、それを心に秘めることにも、罪悪感を抱かなくなった」
湯の沸いたやかんが、かちかちと蓋を鳴らす。伊月が何も言わずにガスを止めると、しゅう、と大きく湯気を吐き出した。その向こう側に、笹井の強い眼の光がある。
「好きです。今も、今までも――――十年、ずっと好きでした。あれから誰に恋しても誰と付き合っても、その人のことがずっと好きだった」
「…………」
「あの日、仕事の帰りにたまたまあの道を通りかかりました。店の前の花にあなたの名前があった。もしかしたら、と思った。でも、パーティーの真っ最中とは思っていませんでした。普通に、お店の人に、先生はよく来られるんですかって聞くつもりだった。そしたら本当に先生があらわれて……運命だと思った。こんなことあるんだ、って」
笹井の話に、伊月は思わずえっと声を上げた。
「偶然通りかかっただけ? 誰かに連れられて来たんじゃなく?」
「はい。本当にただの偶然です」
「それは……」
それは本当に、運命を感じてしまうかもしれない。伊月は言いかけて飲み込んだ。
「だから声を掛けられたとき、ラッキーって思ったのと同時に、どうしようって思いました」
「あー…………」
嫌だよなあ、そりゃあ。憧れの先生が、軽々しく家に男を上げた上に、グダグダに飲み潰れたおじさんだったら、幻滅もするだろう。
「初恋の人が腕の中で寝てる。これって現実かな、いや現実だな、って。だけど現実になったら、急に怖くなっちゃって。ここは紳士的に帰ったほうがいいんじゃないかとか、だけどきっと起きたらこの人覚えていないだろうな、とか」
「あーっそれは本当に申し訳ない!」
頭を抱えて謝ることしかできない伊月に、笹井は「僕が勝手に思い込んでただけですから」と笑ってみせた。しかし実際伊月は覚えていなかったわけで、彼の心配は単なる杞憂ではなかったということになる。
「どうしたらまた会ってもらえるだろう、覚えていてもらえるんだろうと思って……朝までここで、あなたの寝顔を見てました」
「えっ! 朝までいたの!?」
「はい。出社ぎりぎりまで待ってみたんですけど、全然目が覚めそうになくて」
「じゃあ君、あの日、寝ないで番組やってたってこと?」
「はい」
「タフだねー……」
妙なところに関心がむいてしまったが、全貌が分かり、なんとなく合点がいった。家についてから飲み直したわけでもなく、ただ本当に徹夜続きが祟って寝落ちただけだ。どうしてパンツを脱いだのか、そこだけは謎に包まれているが。
「朝まで先生の隣で、ずっと考えてました。そもそもまた会ってもらえたところで、十も年下の僕なんか相手にされないんじゃないか。先生の好きなタイプなんて知らないし、年下に興味ないかもしれない、年上のヒゲの筋肉ムキムキのおじさんが好きかもしれない。いや、そもそも恋人がいるのかも。きらりさんと先生ってどういう関係? もし二人が恋人だったら、俺、とんでもないことしているのかも、とかもう、バーッて頭の中ぐるぐる回って、本当に怖くなっちゃって。それでもやっぱり僕のこと知ってほしくて、顔見たら思い出してくれるかも、どうにかして連絡が取れる方法ないだろうか、って考えて考えて、最後の手段と思って、時計とメモを置いていきました」
これがあの夜にあったことの全部です。大したことないでしょう? と、笹井は申し訳なさそうに笑う。
「俺がその時計、パクるかもとは思わなかったの」
いくら憧れていたって、所詮は知らない人なのに――――と思うのは、自分の心が汚れ切っているせいなのか。
「先生はそんな人じゃないですし。第一、そんなことしても先生にメリットがなさすぎます」
「あ、そう」
素直なんだか、現実的なんだか。とりあえず、放置してしまったコーヒーでも淹れるかとカップを出したところで、笹井はすっと立ち上がった。
「ありがとうございました」
腰を直角に曲げて頭を下げる笹井に、伊月はぽかんと手を止めた。
「え?」
「お会いできて光栄でした。ご迷惑おかけして本当にすみません、失礼します」
「え、あっ、えっ?」
鞄を手にとって足早に出ていこうとする笹井を、伊月は慌てて追いかけた。
「ちょっと待って」
「はい」
「や、その……」
そうだ。引き止めてどうする。コーヒー飲んでいかないの、と言ったって、飲んでいるあいだ何を話すのかといえば何も思いつかないのだし、コーヒーを飲み終わるまでの数分間を引き止めたところで、飲み終わったら同じように帰るだけだろう。
ずっと好きでした。それだけ伝えられて、だからどうしたいとは言われていない。きらりとは別に恋人でもなんでもない、と弁明したいような気もするが、したところで、じゃあ、その先に何があるのか。実際、十も年下の彼に今、「付き合ってください」なんて中学生みたいなこと言われたとして、自分は首を縦に振るのだろうか。そんな単純な話じゃない。
「その……また、連絡する」
「……はい」
お待ちしてます。
それだけ言って、笹井は静かに部屋を出ていった。