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第5話

『うちの場所、覚えてるよな?』

『はい、もちろん』

 伊月が部屋番号を伝えると、ポンと陽気なスタンプが返ってきた。どうやらヒノテレのキャラクターらしい。愛社精神というやつか。

 今日でいいと返事をして慌てて帰宅、リビングを掃除している間に、夕立は行ってしまったようだ。今は東京タワーの向こうに紫に染まった空が広がっている。

 笹井が置いていった時計は、型は古いが相当に良いものだということが分かった。いくら相手がきらりでも、こんなもの人に預けられるかよ、と嘆息する。信頼なのか雑なのか、それとも試されているのか。試されているのだとしたら少々不愉快だ。

「すみません、お手数をお掛けして」

 笹井はワイシャツにスラックスの会社員らしい出で立ちで現れ、玄関先で爽やかに笑っていた。画面の向こうで笑っていたのと、確かに同じ顔だ。

「……上がれば」

「お邪魔します」

 招き入れると、戸惑う様子もなく靴を脱ぐ。正直言って、彼はどうも掴みどころがない。本当にあの夜会ったきりだったらばこんなことはないのかもしれないが、伊月はもう彼の昼間の顔、アナウンサーとして働き視聴者に愛される姿を知ってしまっている。明るく健康的でフレッシュなアナウンサー笹井洸一郎と、玄関先で靴を脱いでいる飄々としたこの男、そしてあの夜見た純朴で控えめな青年。たしかに同じ顔はしているけれど、なんだか狐につままれたような気分だ。

 リビングに案内し、ソファに座るよう勧めると、これもあっさりと受け入れた。

「あの……」

「これだよね、忘れ物」

 ダイニングテーブルに避けておいた時計を手に取って見せる。

「ありがとうございま――――」

 やはり一言先に言ってやりたい。手渡す直前にひょいと躱すと、笹井はぱちぱちと目を瞬いた。

「わざとだろ」

「いやー、……はい。さすが、お見通しですね」

 やっぱり先生だなあ。笹井は少し目を伏せて笑う。

「笹井くん。君は一体、何が目的で?」

「目的だなんて」

「こんな大事そうなもの、普通、忘れる? 忘れて、こっちから連絡するまで一日近く思い出さないなんて、そんなことある? ちょっと不自然じゃない?」

「そんな、僕は本当に」

「俺が言うのもなんだけどさ、……あの日の夜、俺たち、何かあった?」

 いかがわしい意味でも、そうじゃない意味でも。たとえば、こんな大事なものを忘れてるほど慌てて出ていくような、何らかのトラブルとか? だって俺はパンツを履いていなくて、君は高価な腕時計を忘れていったわけで。伊月が付け加えると、笹井はあからさまに視線を逸らした。

「君がもしストレートなら、あらぬ疑いをかけて申し訳ない。まあ、そもそも前後不覚になるほど飲んだ俺が悪いわけだし……」

「違います!」

 伊月の長い逃げ口上を笹井が遮る。

「違います、ただ……」

「ただ?」

 詰問しているみたいでやや後ろめたい。が、真意は知っておきたい。

「…………もう一度、会いたくて」

 会いたくて。想定外に好意的な回答に、今度は伊月が瞬く番だった。

「え、それだけ」

「はい」

 まさか本当に、自分が小説に書いたような理由で、家に忘れ物をしていく人間がいるとは。それもこんな高価なものを。

「もう一度会いたくて、パンツ脱がしたん?」

「パンツはご自分で脱がれました」

「それは本当に申し訳ございませんでした……」

 最悪だ。これまでの人生で、酒を飲んで前後不覚になって服を脱いだなんてことただの一度もなかったのに。いや、もしかしたら覚えていないだけで今までにもあったのだろうか。うわ、自信喪失しそう。伊月は内心頭を抱えた。金輪際、締切明けに酒は飲みたくない。 

「まあ、下心があったことは確かなので……」

「えっ俺やっぱり君に何かした?」

 伊月に襲われた笹井が慌てて逃げだしたせいで時計を忘れていった、どう考えてもそれが一番しっくりくるストーリーだった。そうなると伊月は、かろうじて成年ではあるものの、酒に溺れて若人を連れ込みどうにかしようとしたどうしようもない人間ということになる。そんなことが許されないのは伊月だって重々承知していて、だからこそ、せめて訴えないでくれと懇願することしかできなさそうなのだけれど。

「いえ、違います。僕です」

「はっ」

「逆です。僕が、あなたに、下心を」

 笹井の言葉がよく理解できなくて、伊月はひとつずつゆっくりと反芻する。僕が、あなたに、下心を。つまりこの男が、自分に、下心を抱いて、あの日ここまで来たのだと。意味を理解したところで今度は逆に、驚きすぎて瞬きひとつできなくなってしまった。

「……いや、マジ?」

「やっぱりそういう反応になりますよねえ」

 苦笑する笹井。

「あの、ええと――――笹井くん」

 マジで言ってんの、それ。俺そんなことしたの。じゃあ何か、俺は強引に彼を誘ったというよりも、彼に思わせぶりな態度で接していたということか。十も年下の彼に? それはそれで最悪さが増している気がする。

「すみません、ちゃんと説明させてください」

 正面を向いて座り直した笹井に、改めて彼の腕時計を返す。

「……とりあえず、コーヒーでも飲む?」

 長い話になりそうだった。

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