「あんなところとは失礼ね」
青筋を立てるきらりを「言葉のあやだろ」とたしなめる。
開店前のきらりずむは静かなものだ。大きな音も派手な照明もなく、地下には陽も差してこない。VJ用のプロジェクターで見る『おまステ』はなんだか異質だった。
「それで? この立派な血統書つきのワンちゃんとヤっちゃったってこと?」
酒でなくコーヒーを飲みながら、きらりは画面の中の笹井アナウンサーを見上げた。
「きらりお前、言い方おっさんすぎる」
「おっさんなの! あんたもあたしも!」
はい、仰る通りでございます。齢三十四のもうすぐアラフォーでございます。伊月は粛々と、暗いバーカウンターでコーヒーカップを傾けた。
「いい年なんだから、いい加減ワンナイトとかやめなさいよ」
「うるっせーなお前こそ周年だからって深酒やめろよ身体に毒だぞ」
「言わないでそれは……二日酔い二日目なんだから」
「それもう二日じゃないだろ三日だろ」
あの夜のきらりはといえば、パーティーは当然朝まで続き、そのまま24時間営業のラーメン屋に流れてラーメンを食べ、また酒を飲み、解散したのは昼過ぎだったらしい。今が二日目なのか三日目なのか、もはや良く分からない状態だ。
もとはといえばお前が締切明けの寝てない俺をパーティーなんかに呼び出すからいけないんだし、さらに言えばパーティーがあるのを分かっていて早めに原稿を上げなかった俺が悪いのだ。ああそう、その通り。全部俺が悪いです。不貞腐れながら飲むコーヒーは苦くてたまらないが、サイコーグルメリポートをする笹井アナウンサーは今日も全身を使っておいしさを表現していた。はつらつとした笑顔が眩しい。
「でも知らないわねえ、紹介された記憶もないし」
「お前の記憶も怪しいんじゃないの」
「それはないわね、あたしが忘れてもアキが覚えててくれるし。ねーアキ」
きらりが呼びかけると、階段のほうから「はあい」と返事があった。アキはこの店のアルバイト店員で、あの日もカウンターで伊月を迎え入れてくれた。
「はーいなんですかー?」
掃除の途中だったのだろう、モップを片手に持ったアキがひょいと顔を出す。
「アキ、この子パーティーに来てたか覚えてる?」
きらりが指し示した顔をみて、アキは「ああ」と頷いた。
「先生といっしょにお店出られた方ですよね」
「…………デスヨネー……」
「誰と来たって言ってた?」
「お連れ様が遅刻しててって言ってましたけど、先生と一緒に出られたので先生のお連れ様かと思ってました」
「……俺は連れが先に帰ったって聞いた」
「それで連れ出したの?」
「他に知り合いもいないって言うから」
「だからお持ち帰りしたってコト?」
「ちっ…………が、わない、な……」
「違わないじゃない」
「違わないですね~」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。きらりが「ありがとアキ」と礼をいうとアキは掃除に戻っていった。
「それで?」
「今、連絡待ってる」
「気に入ったの!?」
「違う!」
再び伊月が否定すると、きらりはまたそれか、という顔をした。
「違う、これは本当に違う。向こうが忘れ物をしていっただけ」
そう、腕時計を忘れていったから、これをなんとかして返さねばならない。それだけだ。昨日「また連絡します」なんて言って電話を切ったくせに、それ以降何の連絡もなかった。もちん忙しいのかもしれないし、局アナがどんなスケジュールで仕事をしているのかなんて分からない。だけど随分と高価なもののようだし、黙って持っているのもなんだか……と思って、仕方なく自分のほうから連絡したのだ。
「いやアンタ、それは……」
「何」
「わざとでしょうが」
眉を寄せたきらりが、ごとりとマグカップを置く。いつの間にかサイコーグルメのコーナーは終わり、スタジオから夕方のゲリラ豪雨の可能性について伝えていた。
「いやあ……まあ……」
「イヤイヤ、それが分からないアンタじゃないでしょカマトトぶってんじゃないわよ」
そういう手段があることは理解する。一度きりかもしれないと思う相手の家に行くなら、何か忘れ物をしていけと。それがもう一度会うための口実になるからだ。自分の小説にもそんなことを書いたことがあったような気がする。
でも。あの日ここで会ったあの純朴そうな青年は、とてもそんなことをするようには見えなかった。そんな手練手管で相手を繋ぎ止めようとしたり、あまつさえそれを楽しんだりするようには、とても。
ブブ、とマナーモードにしていたスマホが震える。差出人は笹井洸一郎。着信ではなく、メッセージだった。
『連絡ありがとうございます』
『時計、すみません 見当たらないなとは思ったんですけど』
『引き取りに伺います』
メッセージアプリがポコポコと音を立てる。長文でなく短文をたくさん投げてくるのは、いかにも若者だ。
『お忙しいようでしたら、きらりさんのお店に預けておいていただければ、そちらに伺いますので』
思わず顔をあげてきらりの顔を見る。いや、それはさすがにどうだろうか、あんな高価なものを。第一今ここに持ってきてはいないし。
既読はすでに付けてしまっているし、とりあえず何か返さないと。番組の様子を伺うと、港区付近は18時ごろからゲリラ豪雨の予想だと言っていた。きらりは「やだー客が来なくて暇になっちゃう」と完全にテレビに話しかける人になっていた。
『まだ放送中じゃないの』
番組はまだ終わっていない。昨日電話があったのは放送終了後だったので、その頃にはと思っていたけれど。
『今日も見てくださってたんですね! うれしいです』
うっ。そうか。もしかして気持ち悪かっただろうか。視聴者側の一方的な視線から語られるのは見張られているようであまり良い気持ちではない。そのことは、伊月のような活動頻度でもよく知っていた。
『今日はグルメだけで終わりだったので、もう移動車の中です』
『19時には反省会終わって局を出られると思うのですが、本日では急すぎでしょうか?』
ガタン! 伊月自身も驚くほどに椅子が揺れた。隣できらりも「何? 壊さないでよ」と驚いている。
「雨降る前に帰るわ」
「あっそう。じゃあワンちゃんによろしく」
そういうんじゃない、というような言い訳を、口にしたようなしなかったような。そんなこともわからなくなるくらいには、伊月はあわてて店を出た。だからアキの「うれしそうですねえ」という呟きも、きらりの「完全に浮かれてるわね」という苦笑も、伊月の耳に届いてはいなかった。