眩しさに目を開ける。肌寒さと背中に走る痛み。ソファで寝落ちしたときの、あの感じだ。
「旬の情報はおまかせください! おまかせステーションのお時間です」
かすかに耳に入ってくる音で、テレビを点けたまま眠っていたらしいことに気付く。最近はもっぱらサブスクで映画を観るくらいにしか使っていなかったのに、どうしてよりによって。そもそもおまかせステーションのお時間というのは一体何時なんだ。時刻を言え、時刻を。
ぎぎぎ、と音がしそうなほど固まった瞼を開ける。窓の外の太陽は僅かに西に傾いていた。つまりもはや午後だ。光を遮るように腕を翳し、うう、と唸る。ぱりぱりしたシャツの肌触り。ああほらやっぱり、着替えてすらいないまま寝落ちしていた。最悪だ。
のそ、と身じろぎすると、今度は腹の下あたりにブランケットのすべらかさを感じて、ぱちぱちと何度か瞬く。嫌な予感がする。
「時刻は午後二時を回りました、まずは午後のおまかせニュースから」
なるほど時刻は午後二時。いやその前に、だ。恐る恐る確認したところ、下半身に纏っている布はブランケットのみだった。なるほどすべらかに感じるわけだ。ああ、神よ。伊月は無意味に天を仰ぐ。そうしたってなんの意味もないことは、三十数年の人生で嫌というほど思い知っていた。
嫌な予感を払拭するためにも、昨日は一体何をどうしていたのだったか思い出さねばならない。そうだ、昨日は締切明けで、寝ていなくて。そのままきらりの店に行って、言われるがままにシャンパンをあけて、それから――――。
「あっ、そうか」
そうだ、あの若い男、あいつは一体どうした。むくりと起き上がると、ブランケットの隙間から脱ぎ捨てられた下着と靴下が滑り落ちた。これはなんというか、判断に悩む状況だ。
ブランケットは寝室のベッドの上にあったはずのものだ。自分で寝室からブランケットを持ってくる理性があったのなら、そもそもベッドに潜り込むだろう。さらに部屋を見渡すと、ダイニングチェアの背にジャケットとスラックスが丁寧に掛けてあり、これはどう見ても自分の仕業ではなさそうだ、と悟る。
あの男、本当にこの部屋に来たのだろうか。確かに誘ったのは自分だけれど。東京タワーが見えるよなんて、古めかしい口説き文句を真に受けて? まさか本当に上京したてのお坊ちゃんだったのだろうか。
だとしたら、彼が来た上で自分の下半身が裸というのは、一体どういうことだろうか。考えたくなさが先行するものの、同時になんとかして思い出さねばまずいということも理性が告げている。
「続いては、エンタメおまかせチャンネル! 今週公開の映画から――」
うん、わかったわかった。ちょっと今忙しいから静かにしておいてくれないか。テレビに黙ってもらいたいが、リモコンはどこへやったっけ。あれ、そういえなスマートフォンはどこだ。首を右に左に向けてみると、ジャケットのかかったダイニングチェアの向こう、テーブルの上に綺麗に並べて置いてあるのが見える。これも彼の仕業だろうか。丁寧な仕事ぶりだ。
よろよろと立ち上がり、落ちた下着を身に着ける。下着の中は――――よかった、セーフ。どうやら汚れてはいない。が、それが決定的なコトに及ばなかった証拠にはならないけれど。
テーブルに手を伸ばすと、スマホの上になにかが乗っているのに気付いた。
「何……レシート……?」
残されていたのは綺麗な文字のメモだった。どこかの飲食店のレシートの裏に書かれた綺麗な文字。0から始まる数字の羅列は、見るからに携帯電話の番号。その下には、『16時までチャンネルはそのままでお願いします』のメッセージ。
「…………?」
どういう意味だろうか。ぺらぺらとひっくり返してみてもそれ以上の仕掛けもメッセージもなさそうだ。そのままの意味だとしても、それで何を伝えたいのかは謎のままだ。
顔を上げてテレビを見る。ストレートに受け取れば、チャンネルというのはこのテレビ番組のことだろう。リモコンを手に取り、番組表を呼び出す。テレビは彼が点けたのだろうか。チャンネルはヒノテレビ合わされおり、現在放送中の番組「おまかせステーション」は16時までの枠のようだ。そのあとは刑事ドラマの再放送が始まるらしい。
「――続いて本日のお天気です、東京は――」
東京は梅雨明け間近、いよいよ本格的な夏が来るらしい。いわゆるひな壇に乗せられた若手芸人やタレントたちがUVケアグッズについてあれこれ話している。
16時になると何があるのだろうか。もしや彼は役者で、刑事ドラマに犯人役で出ているとか? いやいや、このドラマはかなりの長寿番組で、今日の再放送はずいぶん古い、ファーストシーズンのものだ。自分がデビューしたのと同じ年だったからよく覚えているが、当時彼はまだ子役といっていいくらいの年のはず……などと考えていると、はたと自分の足元が目に入った。靴下もスラックスも脱ぎ捨ててパンツ一丁の下半身。そうだ、自分がデビューした頃まだ子供だったような年の相手と一体何があってこうなってしまったのか。
しかし本当のところ、一体いくつだったのだろう。年齢どころか名前も聞かなかった。いや、自分が忘れているだけで、もしかしたら聞いたのかも。それはそれでまた最低の振る舞いだが。
頭を抱えていても仕方がない。水でも飲むかと冷蔵庫を開け、冷えていたペットボトルを取り出す。グラスに移すのも面倒でそのまま呷っていると、番組はCMを挟んで次の話題へと移った。
「さあ、続いてのコーナーは、大人気! サイコーグルメのお時間です。今日は一体どこへお邪魔しているんでしょうか、ササイさーん」
ぱっと画面が中継先に切り替わる――――と。
「はーい、こちらササイでーす!」
「ッ、!? ゲホッ」
急に大写しになった顔に驚いて、飲んでいた水が喉の変なところに入りそうになった。
「ササイコーイチローのサイコーグルメ! 今日は◯×商店街にお邪魔していまーす!」
さすがに忘れてはいない、昨夜きらりの店で会った顔。そのあと部屋に誘ったところまでしか覚えていない顔。そしてどうやらこの部屋に来て、ジャケットとスラックスを丁寧に椅子の背に掛け、テレビのリモコンとスマホを几帳面に並べて置き、綺麗な文字の書き置きを残したのだろう彼の顔がテレビに大写しになる。
笹井洸一郎、どうやらそれが彼の名前らしかった。名前も聞かなかったな、なんて思っていたらあっという間にわかってしまった。芸人? タレント? ではなさそうだが……と思っているうちに画面の下にテロップが出た。そこには「ヒノテレビアナウンサー笹井洸一郎」とある。アナウンサー。なるほどねえ。いやアナウンサー? ヒノテレビの局員ということか? は? いや、マジか!?
笹井は商店街を歩きながら、人懐こい笑顔で近くの商店の売り子や通行人に次々声をかけていく。
「ではこちらのお肉屋さんのメンチカツをいただいてみます! わ~、揚げたてですね~!」
サクサクした衣のメンチカツをぱかりと割ると、スタジオからわあおいしそうと歓声が上がる。湯気をたっぷりと見せつけながら笹井がぱくりと頬張ると、つやつやした頬が落ちそうなほどに笑顔がはじける。
「おいしい~!」
その満面の笑みに、肉屋のおばちゃんもスタジオ出演者たちもみんな一斉に目尻を下げた。
アナウンサーて。こんな好感度のかたまりみたいな奴があんなところに来てんじゃねえよ。しかもこんなところまでノコノコついてきて。なにが東京タワーだ、珍しくもなんともないだろうが、俺んちなんかよりよっぽど近いところに職場があるくせして!
理不尽とわかりつつ、伊月は再び頭を抱えた。そして残されたメモにある電話番号が彼につながるものならば、妙なものを手に入れてしまった、と困惑する。レシートに印字された店名は「パーラー ヒノ」。ヒノテレビの社員食堂であろうその店で、彼は昨日、カツカレーを食べたらしかった。