ちょっとした坂を上って、俺たちは小高い丘の上に来た。そこは緑豊かな木々がさわさわと風に揺れて、いかにも涼しそうな空気を運んでくれる。
向かった場所は、公園だった。ネームプレートを見ると『本道区紅葉ヶ
広場と呼べそうに敷地のでかい場所だ。さまざまな子ども用の遊具があると思えば、サイクリングができそうな幅の広い一本道がちょうど公園全体を一周するように円を描いて繋がっている。老若男女問わず、利用できるように設計されたのがよくわかる空間だった。
「本道区に、こんな場所があったんだな……」
感嘆してつぶやくと、千晃さんは優しげに微笑んで俺を見つめた。
「ここの公園って、穴場? 人もあまり通らないな」
「静かで、いい場所でしょ? それに、ここから見える絶景があるんだ」
千晃さんは俺の手を緩く引っ張り、歩を進める。何気に、千晃さんの方から手を繋がれたのが嬉しくて、俺は心中でニヤニヤしていた。
連れていかれたそこには、赤く色づき始めた紅葉の木々が一面に広がっていた。秋が深まればいっそう美しく映えるだろう、一本一本が強い生命力を感じさせる、儚さよりは気高さを感じる色の連なりだった。それらが下り坂に向かって綺麗に、なだらかに生えている。月並みな表現力だけど、まるで紅葉の絨毯だ。
下には地平に建ち並ぶ民家。どの家もささやかに、けれどしっかりと地面に根付き、人々の暮らしを受け止めているように見えた。
千晃さんに案内された特等席は、彼だけの見晴らし台だった。
「おぉ! こりゃすげえ!」
俺の単純極まりない感動の言葉に千晃さんは「ふふっ」と笑って、繋いだ手のひらを少しだけキュッと強めた。
そして、千晃さんは懐かしむ顔で話し始める。
「学校帰り、ここで本を読んでたんだ」
「ここまで? けっこう遠くね?」
「まあね」と千晃さんは微笑む。その笑みにはどことなく寂しさのような揺らぎがあり、俺はふいにこの人を抱きしめたくなった。
「心の内を、打ち明けられる人がいなかった」
千晃さんはさらりと言った。けど俺の胸にはその言葉がズンと響いて、自分の傷のような痛みを感じてしまった。
「優等生とか、真面目だとか、いい子とか、いろいろな人に言われてきた。もちろん周りに他意はなかったと思うけれど、僕は、みんなが思っているほどいい子じゃないよ。優等生のふりをするのに疲れて、ここまで逃げ込んだ時期があった。この景色を見ていると、不思議と落ち着いたんだ。僕だけの特等席」
彼には重かったんだ。こんな華奢な肩に降りかかる、期待という名の重圧。望んでもいないのに、望まない方向へ流れていく自分自身を止めることもできない無力さ。俺も昔、散々経験してきた苦みだ。
痛みと苦みは似ている。
俺たちは、もしかしたら同じものを背負っていたのかもしれない。
どんな言葉をかけたらいいのか迷っているうちに、繋いでいた手をふいに強く引かれた。
「今日から、この席に君も加わるよ」
思わず彼を見る。
こちらに注がれるまなざしは、慈愛に満ち、俺への絶対的な信頼であふれていた。
「千晃さん……」
声が震え、かすれる。もう何度、この人にみっともない姿を見せつけてしまっただろう。それなのにこの人は、俺の愚かさを少しも責めない。
「二人で、ずっと、一緒に過ごそうね」
「千晃さん……、それって……」
――その言葉の意味って。
期待がどんどん大きくなり、俺の胸を圧迫する。一方で、どこか怖くて逃げだしたい気持ちもせめぎ合い、説明のつかない感情を味わった。
「それで、ここで伝えたかったのは」
千晃さんは姿勢を正し、コホンと軽い咳払いを一つしてから、俺に体を向けた。
「僕は、男性と付き合う経験が初めてで、恋人として、これから、その、いろいろな触れ合いを、すると思う」
言葉を選びながらも、千晃さんははっきりと、俺たちのその先を話し始めた。俺も真剣に向き合う。
千晃さんの柔らかく、けれど芯のある声で紡がれる、確固とした意志。
「その時、また怖がって、君を拒絶してしまうかもしれない。でも、誓って、君を嫌いにはならないよ。あの日、君が言ってくれた言葉を、僕はずっとお守りとして覚えているから。僕も、君に、ちゃんと伝えたい」
千晃さんは、手を伸ばして、俺の両頬をそっと包んだ。
彼の端正な甘い顔立ちが、俺の視界いっぱいに映る。
それだけで幸せな気持ちがあふれてくる。
「幸介くんが、好きだよ」
千晃さんが、伝えてくれた。
涙が出そうになるのを、ぐっとこらえる。
千晃さんが、俺の胸板に手を移動して置き、言葉を紡ぐ。
「いっぱい我慢させて、ごめんね……。がんばって、受け入れるから……」
この人は、いつもそうなのか。
これほどまでに優しい人なのか。
気持ちを伝えたくて、千晃さんの体を抱き寄せた。
今度は力に任せないように、そっとこの人を包み込む。
「千晃さん」
俺の発する声に、彼が身じろぎして顔を上に上げる。
「がんばる必要とか、ない」
そうだ。俺は、彼に我慢してほしいわけじゃない。心の底から、俺といて楽しいと思ってもらいたいんだ。
「がんばらなくていいんだよ、千晃さん。一方的だったのは俺の方だ。ずっと自分の欲だけ優先して、千晃さんがどう感じるのか意識してなかった。俺は、大バカだから」
気持ちをぶつければわかってもらえると、子どもみたいに駄々をこねた俺を、この人はこんなにも優しい心で許して、受け入れてくれた。それ以上の幸福はない。こんな俺に向き合ってくれた、この人の器は俺なんかよりもずっと大きい。
「もう、嫌がることは絶対にしない」
宣言を告げる。
千晃さんの肩に手を置いて、俺は誓いを述べた。
「許してもらえるまで、ずっと待ってる」
千晃さんの頬が赤く染まる。
それが嬉しくて、俺に惚れてくれてるんだと思ったら、どうしようもなく愛おしい気持ちが胸を締めつけた。
この人のためならいつまでも、何年経っても待てるよ。
千晃さんがじっと俺を見つめる。
切なそうに陰を帯びる面差し。
俺は察した。彼のこの表情は、触っていいと、触れてほしいと願う合図だ。
胸が震える。
俺たちは、どちらからともなく唇を重ねた。
温かくて、柔らかかった。
吹きぬいていく秋の入り口の風が、二人分の体を撫でていく。少し冷たくて、その分互いの唇と体温がこれ以上なく暖かく感じて、世界に二人だけの空間だと錯覚しそうになるほど、幸せな瞬間を味わった。
千晃さんは、何もかもが暖かくて、優しい人だ。
俺に触る指の動きも、俺が動きやすいように、微かに口を開けて受け入れてくれるところも、全部わかってる。痛いほどに伝わってくる。彼の愛情が。
俺はきっと、この人の愛情深さを知るために、同性を好きな人間として生まれてきたんだろう。
今までの生き方は無駄じゃなかった。大多数の趣味嗜好に属さない「京橋幸介」として生まれついて、この上なく幸せだ。すべては千晃さんのおかげだろう。
彼に出会えて、よかった。
俺も、ずっと孤独だったよ。
理解のある家族も、友だちもたくさんいる。でもたった一人に好かれないままだったら、俺にとっては、孤独と同じなんだよ。
孤独を失くしてくれたのは、千晃さん、あんただ。
一生、大切にする。
唇を離した。
間近で見る千晃さんの表情。真っ赤になった頬と、熱っぽく濡れた瞳。俺を見るその目には、甘酸っぱい感情と奥に潜む艶やかな欲望がきらめいている。
俺も、同じ顔をしているに違いない。
数秒、見つめ合い、俺たちは互いにふっと笑い合った。
空に夕暮れの色が差しかかっていた。下に覗く家々に一つ一つ、明かりが灯り始める。「また来ようね」と千晃さんがつぶやき、「おう。今度は紅葉真っ盛りの時だな」と俺が返す。
何でもない二人の時間が、ずっと続くことを、願わずにはいられない。
でも、きっと、俺たちならば大丈夫だ。
根拠なんか、ねえけど。
幸せに根拠はもともと必要なかったのだろう。俺たちは根拠なく、理由もいらずに、そのままで生きていけるんだろう。
そうやって、堂々と過ごしていこう。
再び手を繋ぎ合い、俺たちは同じ方向を向いて、公園の見晴らし台から見える景色を眺めた。綺麗な風景を、そのままに綺麗だと思える自分自身が、ひたすら誇らしかった。
京橋幸介は、音羽千晃を、一生涯愛し続けます。
誰にも聞こえない誓いの言葉を、俺は胸の中でいつまでもくり返していた。
了