校長の許しを得て、俺たちは水ノ宮学園の敷地内で一休みした。学園の自慢の大講堂という立派な建物のそばで、人工芝に整えられた目に優しい緑の芝生に座たり、長ベンチに背を預けてみたり、各々くつろいだ。
大講堂って、中には何があるんだろう。
好奇心が湧き、俺は鍵のかかっていない、開放された豪奢な建物内に入る。
都心の大劇場に例えられそうな、高そうな素材を使った座席の数々に、まず圧倒される。次に目に飛び込むのは、木材で造られている壇上の荘厳さである。主に入学式や卒業式など、節目の行事に使われると校長先生がさっき説明してたな。上にはしまわれている大きな垂れ幕が見え、本当に芝居が上演されていそうな文化的な香りがした。
千晃さん、すげえな。ここ通ってるんだ。
感慨深い思いがする。俺とは違う世界に住んでいるんだと、否応なしに実感させられるけれど、それだけじゃなく、縁のないと思っていたいろいろなものに触れられる機会が巡ってきたことがちょっと嬉しかった。俺が関わってもいいんだと、優しく言われた気がする。ここの雰囲気って、お高いのに、柔らかい。不思議な学校だ。水ノ宮学園って。
後ろから誰かの気配を感じた。
振り返って確認すると、俺の心臓は高く跳ねる。
千晃さんだ。
九月も終わるけれどまだまだ暑いから、彼の制服は夏服のままだ。細く筋張った首筋が、白シャツの第一ボタンを外しているせいでよく見える。半袖から覗く白い両腕も華奢で、俺とは筋肉量も太さもだいぶ違って見えた。身長差は六センチ半だけど、体格差はけっこうあるね、俺ら。
彼がおずおずと、こっちに近づいてくる。
何も問いかけない。
俺の方も、何と言っていいかわからない。
どうして俺がここにいるって見当がついたんだろう。校長先生に教えられたのかな。仲間たちが案内してくれたのかな。
頭を巡るいろいろな思考を振り払って、今すぐこの人に向かって手を伸ばしたい。けれどあの日、気まずく別れたままだった。こんな時、どうしたらいいんだ。普段は豪快な性格だとみんなに言われて、調子に乗っていた自分がバカみたいだ。俺は恋愛事情が絡んだとたん、こんなに情けない男に変わってしまう。
……ダメだ。勇気が出ない。
目を合わせられない。
「幸介くん」
千晃さんが、俺の名前を呼んだ。あまりにも懐かしくて、そんなに日にちが経っていないはずなのに、もう何年も聞けていなかったような寂しさを感じた。
それなのに、俺は素直になれなかった。
「あんた、授業じゃねえの?」
つっぱねるように切り返す。悪いけど、大人の男のようなスマートさは持ち合わせていない。俺はいつまでも青臭い気持ちを捨てられない、十六歳の高校一年生。傷ついた心はそう簡単に修復できないし、割り切れるものでもないんだよ。
「……幸介くんに、伝えたいことが」
歯切れ悪く、千晃さんはたどたどしく言う。いつもはもう少し凛としているはずの彼は今、しゅんとしょぼくれた花みたいに、存在感が小さくなっている。
俺は見ていられなくて、千晃さんから顔を背けた。
視線の先には大げさに立派な面構えをしている講堂の壇上。舞台上にはこれまた金のかかってそうな装飾がされた垂れ幕が降り、俺たち二人以外には何の気配もない静けさを強調していた。
数秒、沈黙が続く。
俺も千晃さんも黙っている。
「もう、いいよ」
先に、ぼそっとつぶやいた。相手からの反応はない。
俺は千晃さんの方を振り向けないまま、決まらない台詞だけをダラダラと吐きかける。
「俺のこと、もう一度振ってくれよ。地の底まで突き落としてくれていい。そしたら今度こそ、あんたをあきらめられるから、さ」
明後日の方向を見つめながら、それっぽい言葉を吐く俺は正直カッコ悪い。そんなこと、自分がいちばんよくわかってる。それでも、好きな人に情けない泣き顔は見せられない。
「……覚悟は、できてる」
嘘だ。本当は覚悟の一ミリもできていない。逃げ出したくてたまらない。強がらなくていいのなら、今にも泣いてしまいそうだった。
けれどプライドは捨てたくなかった。最後まで、カッコつけてる京橋幸介でいさせてほしい。せめてそれぐらいの虚勢は張らせてくれ。
肩肘張って、生きていきたいんだよ。これからも。
俺は背けていた顔を、好きな人に向けた。最後は、目と目を合わせて、終わりにしたかったから。
けれどその決意は、あっという間に崩れ落ちた。
「……何で」
目を見張る。
今、視界に映る世界が、信じられない。
「何で、そんな顔してんの……?」
千晃さんの瞳は熱に浮かされているかのように濡れていた。甘く、色っぽく、しとやかに、彼が俺を見ている。それは、どういう意味なのだろう。俺はこの人に、期待してもいいのだろうか。
でも、と考えが過ぎり、俺は顔をそむけた。
拒絶されるのが、怖い。
怖くてどうしようもない。
動けなかった。この人は一度、俺を拒絶している。またあんな気持ちに陥るのはごめんだ。
……俺って、臆病だったんだな。
自分自身に対する失望で、何だか泣きたくなる。うつむき、床を見る。俺の足元には綺麗なタイル張りの床がピカピカに磨き上げられていた。汚れ一つないお綺麗なものに、俺のような部外者は入り込んじゃいけないのかもしれない。
そう気づいた時、もうそろそろ潮時なんだろうと、思った。
千晃さんに会うのは、今日でおしまいにしようと。
お別れだ、この日で。
住む世界が違う。
それは十分過ぎるほど、これまでの経験で身に沁みついていた。
音羽千晃さんには、俺みたいな人間じゃダメだ。
この人に見合う、もっと素敵な人がいるはずだから。
決心し、顔を上げようと目線を上に向けた瞬間だった。
千晃さんの制服の白シャツが、俺の目の前に広がっていた。
そして、俺の視界が、千晃さんの胸に塞がれた。
千晃さんの匂いが、鼻腔全体に広がる。
――抱きしめられている。
千晃さんに。
……信じられない。こんな夢みたいな状況、嘘だというなら嘘だと言われていい。それくらい、俺は今の千晃さんを疑っている。この人、何してんだ? 男は恋愛対象じゃないって、はっきりこっちに伝えたのに、何で、こんな、愛おしそうに、俺のことを包んでくれるの……?
誤解してしまう。期待してしまう。
これ以上、触れていたらいけないのに。
意外に、しっかりとした力で、千晃さんは俺を抱き寄せて離さなかった。俺の困惑などお構いなしに、無言で、ずっと。
座っている俺の顔にちょうど彼の胸が当たっている。心臓の音が、高く、激しく鳴っている。いや、おかしいよ。どうしてそんなに緊張してんだ。千晃さんにとって、俺は友情以上の感情を抱くはずもない同性で、違うはずで、だから、これは何かの間違いで。
――間違いに、したくないと思った。
この人にどんな心境の変化があったのか、俺は知らない。これっぽっちも。人の心なんて読めるはずがない。当てられるはずがない。だからこそ、俺は千晃さんに、態度で示したい。
動いた。
すっくと、立ち上がる。
「あっ……」と千晃さんが小さく声を上げた。見下ろす彼の顔は、真っ赤だった。その瞳も、熱い感情を含み、濡れていた。情欲に。俺への、期待に。
それは。
「いい」のだと、思って、間違いないのか。
今度こそ、俺は間違えないで済むのか。
何か言いたいのに、喉の奥がカラカラに渇いて、言葉が出てこない。伝えるべき大切な思いを、抱えきれないほど持て余していたはずなのに、いざ千晃さんの顔を間近で見て、何も、考えられない。
考えることが、できなかった。
顔を近づける。
今度は遠くならない、俺たちの距離。
千晃さんは、拒絶せず、逃げもしなかった。
少し怯えつつも、わずかに肩の震えを抑えながら、千晃さんが俺を迎え入れてくれる。
――千晃さんの熱が、唇にダイレクトに伝わってきて、温かかった。
――幸せだと、思った。
もうこれ以上、何もいらないと。
俺は確かに、本気で感じた。
全身で、千晃さんの気持ちを味わった。必死で口内を貪る俺の体たらくは、情けないほどに、本能にひれ伏す野生の動物そのものだ。
だって、余裕なんかねえよ。
ずっと、好きだったから。
初めて会った時から。
息を吸うために、唇を離す。
千晃さんの瞳が、キラキラした涙で濡れて、世界でいちばん美しい人だと俺は思ってしまった。
そんな感情抱いたら、こっちの負けなのにな。
恋は、惚れた者の完全敗北だ。
そんなことはずっと前からわかっていた。
今度は俺の方から千晃さんを抱き寄せ、きつく腕に閉じ込めた。六センチ半の身長差。決して離れ過ぎてないけど、同じではない肩幅。この人の全部が愛おしい。
おずおずといった風に、背中に添えられる手がもどかしくて、でもワガママは言えなくて、俺は黙って少し屈み込み、彼の頬に自分の頬をくっつけた。そして甘える仕草で、スリスリ撫でる。
千晃さんは恥ずかしそうに、くすぐったそうにするばかりで、何も言ってこない。
俺にとっての高嶺の花は、やっぱり大和撫子だ。
誰かにとっては、この人は大人し過ぎるかもしれない。控えめ過ぎて、面白味も感じられない、その他大勢の人間でしかないのかもしれない。
でも、そんな事実はどうだっていいんだ。
俺をそのままに受け入れてくれたのは、この人だけだから。
彼がいてくれれば、それでいい。
ずっと大切にするよ、なんてキザな台詞がすぐ出てこれたら、イケメン彼氏として認められただろうか。けれどそれさえどうでもよくて、世界の流れがこのまま永遠に止まってしまえと、俺は願った。
水ノ宮学園の校舎は本当にどこもかしこも立派で、荘厳で、綺麗だった。俺のボキャブラリーでは語り尽くせないほど、目に映る光景は瑞々しく澄んでいる。
講堂の外で、どこからか鳥の鳴き声がした。普段うるさく騒いでいる俺の耳には、今までだったら絶対に、気にも留めなかっただろう、自然の動物の存在。
ぎゅっと繋いだ手のひらから、相手の指の骨の硬さ、節だった感触が心地よく伝わってくる。
「初めて、授業サボッた……」
千晃さんがぽつりとつぶやく。申し訳なさそうに、一方で何かが解放されたかのように、静かな声だった。
俺たちは肩を寄せ合い、誰も来ない講堂の片隅にある、古びたソファーに座って、時間の進むスピードを一刻ずつ感じ取っていた。
ひたすら静かで、居心地のいい、二人だけの俺と千晃さんだった。
ああ、と俺は悟った。
――こんな過ごし方も、あったんだ。
新しい世界を、千晃さんに教えてもらった。そんな気がした。