どんなに愛おしい相手でも、どうしても許せない行為がある。
それは、理不尽に傷つけられること。
無意識であれ、意識的であれ、不当な扱いをされるのは我慢ならない。
俺は、あの日の千晃さんを、受け入れることができなかった。
悶々とするうちに日々が過ぎていき、新学期が始まった。九月になっても残暑はまだまだ健在で、暑いし気持ちは晴れないし、コンディションは最悪だった。
仲間たちは俺の気持ちを察してか、つかず離れず、いつもの軽い話題を振って俺を笑わせてくれた。手を叩いて爆笑する俺に、みんなは何かを言いたそうにしてたけれど、こっちの都合を優先してくれて何でもない風を装ってくれた。ありがとうな、お前ら。
予冷が鳴ると同時に担任教師が教室に入ってくる。いつも思うけど教師というのは何で時間ピッタリに来るのかね? 体内時計どうなってんだ?
教壇に立って、さっそく担任は夏休みの課題を一斉に回収し始めた。そして当然のごとく俺たちに目をつけ、「済ませたか?」と刑事の取り調べみたいに聞いてくる。ウザイったらありゃしない。
「やってるわけないじゃないっすかー」
俺はやけくそに喧嘩を売る。売り言葉に買い言葉の応酬になっても知るもんか。
ガミガミと説教を食らった後、俺は渋々と白紙の課題をまとめて提出した。
担任はひったくるように受け取り、眉間にしわを寄せて中身を確認したが、次の瞬間、表情が一気に柔らかくなった。生まれて初めてこんな優しい顔してるぞ、この人。
「何だ、できてるじゃないか」
「……え?」
――――あ。
そうだった。
夏休みの課題、全部終わらせたんだった。
千晃さんと、一緒に。
彼が教えてくれて、付き添ってくれて、がんばったところで終わるわけねえって思っていた勉強が、最後までやり遂げられたんだ。
唐突に思い出が蘇り、ふいに泣きそうになる。悔しいから絶対に涙なんか見せねえけど、俺の胸に、痛くて苦しくて、説明しようがない気持ちが満ちる。
許せないのに、腹が立ったのに、どうしようもなく好きだ。まだ、こんなにも。
いっそ、嫌いになりたい。
そう思うほど、引き返せない場所まで落ちていた。
――千晃さんの、バカ野郎。
俺の二度目の心の声は誰に聞こえるはずもなく、虚しく空中分解していくだけだった。
ヒマであればあるほど、季節があっという間に進むのはなぜだ? もう九月の半分も過ぎたって、嘘じゃないのか?
千晃さんとの接点は完全になくなった。LINEに通知が来ることはなく、向かい側の校舎を見つめても千晃さんの姿を見つけられず、行きの通学バスに乗り合わせる機会もなくなった。たぶん、俺と会わないように時間をずらしてるんだろうな。逃げ足は本当に速いよ、あの人。
このまま、フェードアウトだろうな。
それならそれでいいのかもしれない。俺はもう疲れた。叶わない恋に。世の中の障壁に。
彼は、俺と同じ性的指向じゃなかったのだから。
だから、こうなるのは当然の結果で、抗いようがない。現実はいつでも味気ない結末を迎える。十六年も生きてればそれぐらい理解できるよ。
いろんな出来事が降りかかったせいだろうな、何だか最近、疲弊している。
学校をサボり、俺は私服姿で街をぶらぶらした。今日は起きたら昼近くで、遅刻するのも面倒くさいからパンだけ食って、遊ぶことに決めた。ファッション店に入って物色したり、音楽ショップをハシゴしたり、いろいろ歩いたが心を満たすものはなかなか見つけられなかった。
最後に入ったゲーセンで遊び過ぎたせいで、空はとっぷりと暗くなっていた。家族に『今日は飯いらない』とLINEを送る。そのへんのファストフード店で何か胃に入れて、それから帰ろう。一人で過ごしたい気分だ。
『本道区』は繁華街というほどの盛況ぶりはないけれど、若者も多いし、家族連れもよく見かける。しかしそれは一本道の右側に住む世界の話だ。左側に住む俺たちは、寄る辺なく肩を寄せ合ってだらしなく道端に座ってだべり、だりぃ、眠い、とかさまざまな文句を垂れ流しながら、その日を無気力に過ごすしかない。俺もそっち側だから、今さら何も感じることもないけれど。
一本道を進んでいる途中、何やら視線を感じ、顔を向けてみると同い年くらいの男がこっちを見ていた。
見覚えのある顔だなと思った矢先、そいつは近づいてきた。少しして俺は気づく。
「京橋」
神楽坂だった。
千晃さんにずっと会ってないから、もちろんこいつともずいぶん遭遇しなかった。今になって、何とも妙なタイミングが来るものだな。
あんまりこいつの顔見たくないなあ、と思った俺の心情はもろに伝わったらしい。神楽坂は不愉快そうに眉をひそめながらも、どこか焦っているように俺に近寄ってきた。
何だろう、今日のこいつ、ちょっと様子が変だな。いつもの憮然とした態度が見えないっつーか。
「何、どうしたん?」
とりあえず、義理として俺は尋ねた。余裕なさそうだし、心配はしておこう。
しかし、俺の余裕は次の言葉を聞いた途端に、砂の城のごとくあっけなく崩れ落ちた。
「千晃を知らないか?」
「…………は?」
千晃、さん?
彼の名を耳に入れただけで、俺の心臓はドキリと痛く軋んだ。瞬間、あの時の泣きそうに歪んだ彼の表情、そしていつも俺に向けてくれていた天使のような無垢な笑顔が脳裏に思い浮かぶ。
「……千晃さんが、どうしたの?」
俺は恐る恐る、聞いた。本当は勇気なんてなかったけれど。
神楽坂は追いつめられたような苦渋に満ちた表情をし、「お前も知らないか……」と悔しそうな口調で吐き出す。
「千晃が、見つからない。家に帰ってないみたいなんだ」
「……え」
ヒヤリとした冷たい手のひらに、心臓を触られたような悪寒が走った。
神楽坂が説明する。
「今朝は、学校に登校した。俺とも会った。授業が終わった後、帰り道で分かれて、それから音沙汰がない」
……千晃さんが、行方不明?
スマホも繋がらないってこと?
何それ、どういうこと? あの人、何かに巻き込まれたのか? まさか誘拐? 犯罪絡みだったらどうしたらいいんだ、これ。
絶句している俺に神楽坂も言葉をかけられないみたいで、二人して気まずく、その場に突っ立っているままだった。
「ご両親は警察に通報済みだ。門限があるわけではないが、千晃はほぼ毎日夕飯前には帰宅して、家事の手伝いをする。塾がある日も、寄り道はしない。こんなことは今までなかった」
千晃さんが、いない。
どこかへ消えてしまった。
――理由は?
――もしかして、それは。
――俺のせいだったり、する?
胃がキリリと痛み、居心地の悪さをごまかすために唾を飲み込む。俺は言葉を失い、しばらく無言で黙り込んだ。
「……おい、大丈夫か? 真っ青だぞ」
神楽坂が俺を気遣う。今の自分は相当ヤバい顔色らしい。
ここで黙っていてもダメだ。
俺は、あの日千晃さんにぶつけてしまった苛立ちを、少しぼかして神楽坂に白状した。
しかし、返ってきた反応は肩透かしだった。
「いや、それは直接の原因ではないだろう」
キッパリと、俺の元凶説を否定され、拍子抜けしてしまう。
「……そ、そうなのか?」
「一理はあるかもしれん。だが、それで行方をくらますという行動に出るのは、千晃らしくない。そんな当てつけのような態度を示すやつではないからな。ましてや、こんなに多くの人間を巻き込んで、無意味に心配をかけさせる真似はしないだろう」
そうなのか。
てっきり責められると思ったのに、神楽坂は意外に優しい言い方で俺をフォローしてくれた。
「あいつは、そんなことはしない」
「……言い切れるんだな」
「長い付き合いだからな」
神楽坂はしれっとマウントを取る。
……付き合いが長い、ね。
俺と千代田も中学時代からの戦友だけど、もし千晃さんとそんなに長く関係が続いていたら、神楽坂のポジションを獲得できていたのかな。出会った時間が遅すぎたか。
うつむく俺に、神楽坂の声が届く。
「お前だって、そう信じているはずだ。千晃のことを、真に好きならば」
――そうだよ。
あの人を疑ったりなんて、できねえよ。惚れた相手はとことん信じ抜きたい。だから、今度こそ…………ん?
「……はああっ!? ちょ、知ってたの!?」
仰天しているこっちにはお構いなしに、こいつはスラスラと論を述べる。
「態度で丸わかりだぞ。言っとくが、千晃の方から何か言われたわけではない。あいつもあいつで鈍い面があるから、好意を持たれていることの意味を把握できていなかったらしいな。『とても友情に厚い人』としか認識していなかったのだろう」
「……ゆ、友情に厚い人、ね……」
いかにも千晃さんらしい考え方だな。天使は無垢ゆえに鈍感だから、天使でいられるのかもしれない。
神楽坂はさらに畳みかけた。
「お前は何もかもが正直すぎる。千晃ばかりずっと見つめていたり、さりげなく隣に並ぼうとしたり、車道側を歩いたり、完全な『俺の女』扱いで、もっと上手くアピールしたらどうだと何度注意しようと思いとどまったか知れない」
そんなにわかりやすかったのか、俺。恥ずかしくて死にそう。穴があったら入りたい。一生出てこれなくてもいいかもしれない。
しかし、それよりも気になるのは、こいつのやけに淡白なリアクションだった。
こいつの態度には、俺へのネガティブな視線も、逆にポジティブの一切も感じられない。ひたすらニュートラルというか、さらっとしているというか。
思わず、俺は問いかけてしまう。
「お前は、その、俺の性的指向のこと……」
聞きにくい話題だと思っていたのに、 神楽坂はけろっとした顔で、
「別に何とも思わんが?」
と言ってのけた。
「――マジ!? お前の反応、そんなもん!?」
「赤の他人であるお前のセクシャリティなど、どうでもいいんだが?」
「いやいや、クール過ぎじゃない!?」
何この人、ちゃんと血液流れてんの? ポーカーフェイスも度が過ぎたらただのホラーよ?
絶句だ。珍種発見だ。世にも奇妙な物語だ。
「逆に質問するが」
神楽坂はメガネの縁をクイッと上げる。うわ、来るぞ。こいつの必殺技が。核心を突く言葉を放つ時、やつはこういった癖を晒すのだ。
「お前は、何をそんなに怯えている?」
一瞬、俺の体内の時間が停止した。
心臓を弓矢で刺されたみたいな衝撃だった。まさに致命傷。今まで目をそらしてきた俺自身の弱さを、こいつは確実に見抜き、射抜いた。
答えられない俺に、神楽坂は諭すように続けた。
「確かに、お前の歩んできた十六年の生い立ちの中、社会に対して思うこともあっただろう。だが世の中は、お前が思うよりも、ずっと速いスピードで変化していくものだ。今ここで足踏みしている間に、世界の方がお前に手を差し伸べてくれる未来があるかもしれない。その可能性を、なぜ少しも考えようとしない?」
神楽坂の言葉を、俺は脳内でひたすら反復していた。
変わり続けるのか。俺も、お前も、周りも、すべてが。いい変化も悪い変化も、同じだけ起こるのが俺たちなのか。
俺は、もう高校生で、そういうことを肌身に感じていく段階にあるというのに、ひどく己がガキ臭く感じた。確かに神楽坂の方がよっぽど大人だ。立ち止まっているままの俺を、いつかすべてが追い越してしまうかもしれない。
「世界はお前一人で回っているわけではない。人を踏みつけるやつがいれば、人を助けてくれる存在がいる。お前を踏みつけていた、あの時代の風潮を、価値観を、最も引きずっているのはお前自身じゃないのか?」
……正論過ぎて、ぐうの音も出ないとはこのことだ。
固まっている俺に、神楽坂が告げる。
「お前は、もうとっくに、行動を起こす権利を手に入れているんじゃないのか」
自分の中で、固く覆われた殻がひび割れていく感覚がした。
俺は、怯えていただけだったのか。
すべてを世の中のせいにして、恐怖心を隠す材料に使っていただけだ。
本当に、俺はバカだ。
千晃さんに、もう一度会いたい。
会って、もう一度、好きだと伝えたい。
その結果が、たとえどうであっても、今度は傷つかないと思えた。
何だろう。目が覚める気がした。
「……まあ、後は千晃の気持ち次第だがな」
神楽坂は横を向いて、メガネの位置を直す。表情が読めないけど、こいつなりに俺を励ましてくれているんだろう。案外いいやつだな。
「……サンキュー」
照れ臭いけど、俺は礼を言った。
神楽坂はふんと鼻を鳴らし、横を向いたまま力強く言い切る。
「世界に絶望するな。この世はお前が思うよりもずっと、生きるに値する」
冷徹キャラを絵に描いたような顔つきをしているこいつから、こんな前向きな言葉をかけられるとは。人は見た目に寄らない。
「お前、将来は教師になれるよ」
俺は一笑いして、神楽坂に言ってやった。顔色一つ変えず、やつが返す。
「ありがたい言葉だが、目指したい職業は別にある」
そうか。みんなそれぞれの道を考えているんだな。
俺も、動かないと。
世界の流れに、ちゃんと追いつきたい。
「で、心当たりはないんだな? 千晃の行方に」
「ああ」
二人して深いため息をつき、「警察に頼るしかないのが歯がゆいところだな。一般人の俺たちが手出しできない領分だ」と神楽坂が暗い声で言う。
「……いや、俺は、動く」
言い返すように、強い意志を示した。今、行動を起こさないでいつ千晃さんのために動けるんだ。
「しかし」
「自力で探す。喧嘩には自信があるから大丈夫だ。神楽坂は神楽坂にできるやり方をしてくれ」
俺はそう言い、背を向けて走り出した。
スマホで仲間たちに千晃さんの状況を告げる。数分も経たないうちに通知欄に全員分の反応が返ってきた。いつもは容赦ないけど、何かあった時すぐに俺を心配してくれるこいつらは、仲間として世界に誇れる。
『俺らも協力するよ』とみんなのメッセージを読み、熱いものが込み上げてくる。ありがとう、お前ら。
当然ながら、千晃さんのスマホに電話をかけても繋がらなかった。電源を切られているか、もしくは壊されているのか。最悪の事態が頭の中を巡るのを無理に遮断し、俺は走る速度を上げた。