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4時限目


 背中にある千晃さんの息はヒュウ、ヒュウ、と苦しそうに吐かれて、何か良くない発作が起こっているのは明らかだった。焦る気持ちをなだめ、彼を落とさないように注意しながら廊下を駆ける。この時ばかりは生活指導に見つからなくて本当によかったと思った。


 保健室に飛び込み、事情を説明する前に保険医の先生が背中の千晃さんをベッドに運んでくれた。額に手を当てて、首筋や手首に指を這わせて脈を図っているらしき行為に出る。


 山吹高校の保健室にはお世話になったことがなかったが、養護教諭の富士直弥ふじ なおや先生はここの常勤で、青少年の俺たちにいろいろな物事を教えてくれる、いい人だと有名だった。他の教師よりも圧がなく、生徒との距離が近くて、一緒の目線に立って子どもの話を聞いてくれるので、とても人気がある。


「水ノ宮の子だね。仲良くなったんだ」


 先生は俺の制服と彼の制服を見比べ、なぜか感慨深そうに言った。


「今日は俺の方が勝手にはしゃいで、いろいろ連れ回し過ぎたんです。俺の責任です」


「症状を見た限り、深刻なことにはなってないから、自分を責める必要はないよ。山吹と水ノ宮が、同じ校舎で……。うーん、時代は変わるなあ」


 先生は三十代なのにやけに年寄り臭い発言をして、懐かしそうに目を細める。


「山吹が母校だって聞いたけど、それって本当なの、先生?」


 俺は好奇心に勝てず、尋ねる。先生は「まあね」とそっけなく応えた。


「俺の時代の山吹と水ノ宮はね、もう、あきれるくらい仲が悪くて、お互い相手をライバル視しててさ。時代の風潮もあったんだけど、受験時期には水ノ宮は露骨にうちの偏差値を馬鹿にしていたなあ。そんで山吹は今以上にヤンキー感がすごい生徒たちだらけだったから、水ノ宮の生徒をカツアゲしたり……。二十年近くも前の話だけど」


「ひえー」


 思わず声を出すと、先生は苦笑を浮かべて「まあ、全部過去のことだよ」とあっけらかんと言い放つ。さっぱりした物事の捉え方に、彼に信頼を置く生徒が多いのもわかる気がした。


 話し込んでいると、医療用カーテンの向こうで、身じろぎする音が聞こえた。千晃さんが目を覚ましたのか。俺はあわてて白い布をシャッ、と開ける。


「千晃さん?」


 不安が止まらず、大きめな声をかける。起きたばかりの人にでかい音量を聞かせちゃいけないのはわかっていたが、心配でたまらなかった。


「……幸介くん?」


 千晃さんは俺に気づき、まだぼんやりとした目でこっちを見上げる。申し訳ない気持ちと、具合の悪そうな顔も綺麗だと、背徳的な気分が同じように胸の中を暴れて、必死で抑えた。


 先生が俺たちの間に入って、千晃さんの診察をする。


「音羽くん、だったね。君、貧血持ち?」


 富士先生は優しくて生徒に親切だから、俺らみたいな不良もこの人の指導には素直に言うことを聞く。


 千晃さんは大人しく、こくりとうなずいた。


 先生は丁寧に続きを話す。


「君は、鉄欠乏性てつけつぼうせい貧血に分類されるから、軽く見たらいけないよ。君の場合はちょっと重い方に入るね。体育の授業は見学?」


「はい、そうです」


「ならよかった。ちゃんと休ませてもらえてるんだね。年頃の男の子は動き回りたいものだけど、音羽くんは耐えてて、がんばってるね」


 過剰な気遣いも、同情心もまったく含まれていない、先生らしい励ましだった。千晃さんはくすぐったそうに下を向いて赤くなっている。褒められて照れているんだ。反応が素直で、無垢で、俺とはえらい違いである。


「千晃さん、ごめんな。俺、気がつかなくて」


 頭を下げて謝った俺に、彼はあわてて断りを入れる。


「幸介くん、そんな。僕こそ最初に言うべきだったのに、隠しててごめんね」


「え、隠してたん?」


 問うと、千晃さんの表情に薄い陰りが落ちた。昔の嫌な思い出でもあるのだろうか。彼が悲しそうだと、こっちも切なくなる。


「うん……。みんなで遊んでいる最中に、しょっちゅう体調を崩して、その場の空気を止めてしまうんだ。子どもの頃からそんな調子で、周りは何も悪いことを言ってこなかったんだけど、僕の方が申し訳なくて、自分から離れてばかりだったんだ」


 そうだったのか、と俺は初めて知る彼の事情に思いを馳せた。


 俺の知らない、千晃さんの過去。


 もしかしてしょっちゅう本を読んでるのは、一人で没頭できる趣味だからかな?


 そう考えると、ふいに千晃さんの隣に座りたい衝動にかられた。ベッドに腰かけ、彼の肩を抱き、何か楽になれる言葉をかけてあげたくなった。何て言ったらいいのかわからないけど、放っておく選択肢は俺の中にない。


「京橋も、支えになってやりな」


 先生がさりげない言葉で俺の背中を押してくれる。絶対に圧を与えない声のトーンが絶妙で、この人すごいなと素直に尊敬した。


 千晃さんが動けるようになるまで、俺は先生と一緒に彼のそばにいた。






「迷惑かけてごめんね」と、千晃さんはゆっくりと廊下を歩きながら俺に詫びた。体調悪くさせたのはこっちなのに、この人は本当に気を遣い過ぎるというか、何というか、自分のせいだと思ってしまう傾向があるな。


「千晃さんって、よく謝るよな」


 気軽に聞いたつもりだったのだが、千晃さんは少し顔をこわばらせ、「……うん、えっと」と返事を探そうとするかのように視線をさ迷わせた。何か変なこと言ったか、俺?


「気に障ったなら、なるべく言わないようにするね」


「え? いや全然、そんなことないけど」


 千晃さんの口調は落ち込んでいるようにも感じられ、俺は少し心配になった。何でしょっちゅう下を向くんだろう、彼は。


 ……何かあったのかな?


 優等生という言葉がピッタリな清いオーラを放つこの人にも、誰にも話せない悩みがあるのかな。まあ、そんなのはみんな、持ってるよな。俺だけじゃなくて。


 下校時刻間近の校舎は人の気配も少なく、騒がしいはずの空間は今、ひっそりと息づいているだけだった。普段の山吹高校とは違う雰囲気に、俺もつられて静かになる。


 玄関に向かって二人、歩く。沈黙は不思議と重たくなくて、心地のいい無言が俺たちの間に漂っていた。


「あの」


 千晃さんが声をかける。俺は振り向き、少しだけ下にある彼の顔を覗いた。


「どこかで、話を聞いてもらっていいかな?」


 その声は困ったように寂しく響いて、また俺を切なくさせる。


 何が、彼をこんな風にさせたのだろう。


「何なら今、聞くけど?」


 カッコつけて言ってしまい、少々恥ずかしくも感じたけれど、千晃さんは安心した表情を見せてくれた。俺もつられて笑みを浮かべる。


 千晃さんの手を引き、人のいない空き教室へ入る。教師がまだ見回りに来ていないから、余裕で隠れられた。


 多目的教室に使われているここは今、机と椅子が隅の方にしまわれていて、俺たち二人は壁にもたれて、どちらからともなく目を合わせた。


 くすぐったい気分が勝り、すぐに顔を正面に向ける。それが何だかおかしくて、二人ふっと笑んだ。


「僕の、謝ってしまう癖、たまに注意されるんだ。こっちが悪いことをしてるみたいな感じになるからやめてくれって」


 天使を絵に描いたような千晃さんでも、彼を快く思っていない輩がいるのか。根性の曲がったやつらだな。


「勝手な言い分するやつがいるなあ。誰に言われたの?」


「クラスメイト。あ、啓じゃないよ。啓はいつも僕を守ってくれて、すごくいいやつなんだ」


 じり、と胸の奥が嫉妬で焦げつく感覚がした。俺は大人げないな。千晃さんはただ親友を褒めただけなのに。そのポジションにも収まれない俺自身がやり切れない。


 気を取り直し、俺は横を向いて千晃さんの顔を視界に捉える。


「気にすることねえよ。たぶんそいつとは、単に気が合わないってだけだからさ。人間関係なんてそんなもんだろ?」


「うん、ありがとう」


「でも、あんたはずっと気にするんだろうな。そんな感じがする」


 気にしいなんだな、と俺は口に出して伝えた。千晃さんはぐっと詰まり、またうつむく。


「えっと、」と千晃さんがどもるのを遮るように、俺は続けた。


「それが音羽千晃って人間の、個性じゃん。だからそのままでいいよ」


 嘘偽りのない感想を、千晃さんに届ける。


 千晃さんは俺に顔を向け、目を見開いていた。


「あんたは、欠点だと思ってるだろうけど」


 なぜか、口が止まらなかった。正直に思っていることを、きちんと言ってあげたい気持ちが、俺を先へと急いていた。


「俺は、あんたのそういうとこ、好きだよ」


 前置きを置いて、逃げ場を作るために、俺は軽い調子で冗談に聞こえるように、千晃さんに告げた。


 はっとする彼に、もう一度、言葉を投げる。


「好きだよ」


 言った。


 言ってしまった。


 すぐに襲ってきたのは後悔だった。何やってんだ、俺。こんな告白されたって、この人が戸惑うだけだろ。


 今すぐにでも「ジョークだよ!」と言い切って、その場から逃げ出したかった。怖くてたまらない。この感情は異性愛の人にはわからないだろう。伝えてしまった時の、激しい恐怖と不安と、なけなしの期待感なんか。


 千晃さんの瞳が俺の顔を捉えて離さない。彼の澄んだまなざしが、今はとてつもなく恐ろしく思えた。綺麗過ぎて、美し過ぎる。


 硬直して動けない俺に、返ってきたのは、


「うん、ありがとう!」


 千晃さんの、あっけらかんとしたお礼だった。


 ……開いた口が塞がらない。


 それは、えっと、どういう意味合いで言っていますか、あんた?


 目を激しくしばたたく。二の句が継げない俺に、千晃さんは再度、


「僕も幸介くん大好きだよ!」


 穢れのない声で、笑顔で、こっちを完全に信頼しきった目を向けた。


 ――――ドクン、と。


 俺の心臓が、欲望に動いた。


 頭の中で、俺の醜い下心が千晃さんの服を脱がせて、裸にしている。やめろ、やめておけ、と自分で自分に抵抗するが、指が小刻みに震え、息が荒くなっていく。俺はいつから自制心が効かなくなった? 誰が望むんだ、こんなこと。「それ」をしちゃダメだ、耐えろ、彼を傷つけてしまう。そんなことはわかっているのに、バカな俺は、俺自身の理性を信じることができなかった。


 千晃さんは、こんなにも俺を信じてくれているのに。


 次の瞬間、俺はひどい行為に出ていた。


 自覚しているのに、ダメだと理解しているのに、暴走してしまう俺の性。


「幸介くん? どうしたの、具合悪い?」


 無防備な千晃さんは、荒く呼吸をし始めた俺を体調不良だと誤解し、スッと手を伸ばしてきた。


 制御できない力で、俺は彼の手を強く掴み上げた。


 ――千晃さん。


 ――俺のこと、「好き」って、本当?


 口が回らない俺は、気持ちのすべてを行動にぶつけた。


 顔を近づける。


 とっさに彼が遠のく。


 逃がさない。逃がすもんか。


 千晃さんは目を見開き、


「こう、すけ、く」


 と言いかけ、しかし名前を呼び終わる前に俺に阻止された。


 両腕を強引に掴み取り、引き寄せる。そして身の内に閉じ込めた。


 自分が何をしているのか、今の俺はわかっていなかった。


 ――千晃さん。


 ――千晃さん、怖がらないで。


 祈りを届けるように、俺は彼の身動きすべてを力で封じ込んで、唇を押しつけた。


 気持ちをぶつける。自分の中の欲望すべてを、彼に擦りつけるみたいにして、踏み込んだ。


 ――キスを、した。


 くぐもった声が聞こえた。


 彼が動揺しているのは手に取るようにわかった。それを無視し、俺は噛みつくようなキスをくり返した。


 激しく抵抗され、とっさに顔を逸らそうとした彼の顎を掴んで、もう一度俺の方に向ける。


 逃げないで。


 逃げないでよ、千晃さん。


 彼が今、どんな表情になっているのかも確認する余裕もなくて、俺はただ身の内に高まる欲望をぶつけるしかなかった。


 必死に息をしようと口を開きかけた彼に合わせて、さらに深い場所まで暴いてやろうとした時。


 あらぬほどの抵抗で、思い切り突き飛ばされた。


 一瞬、判断が遅れたせいで受け身が取れなかった俺は、尻餅をついて床に転がった。


 世界が止まったかのようだった。


 残酷なほどの、静かな空気。


 肌を切り裂くような冷気を感じた。今は寒い季節でも何でもないのに、体に悪寒が走る。なぜ俺はこんなにも戦慄しているのか。


 言葉が出てこない。


 何を言ったらいいのか、思考が停止していた。頭が一向に動かない。俺の細胞はどうしてしまったのか。


 ――拒絶された。


 ――何で?


 だって、千晃さん、「好きだよ」って、言ったじゃんか。


 ――そう思いながら、心のどこかで、「やっぱりか」とも感じていた。


 脳内に、最悪のストーリーが展開される。


 すべては俺の勘違い。


 彼の好意を、「そういう好意」だと受け取った、俺の盛大な誤解。


 ……ということだろう。


 気がつくと、俺は千晃さんを見上げていた。


 相手の、蒼白な顔。


 目を見開き、肩で息をして、呆けた俺を直視しながら、恐怖の感情を示す彼。


 ――完全な拒否反応。


 あの優しい千晃さんが、天使のように親切な、柔らかい微笑みを浮かべて俺を見つめてくれる千晃さんが、今はまったく知らない人に見えた。


 ……あんた、誰?


 最低な行為をしたのは俺の方だとわかっている。頭では、彼に謝罪する言葉を必死こいて探していた。でも同様に、そんな目をされた反応にひどく傷ついている自分がいた。


 この感情は、よく知っている。


 思春期の頃、性的指向がその他の人間のそれとは違うという現実を知った、あの時の感情。


 あれは、絶望。


 悔しくて、何もかもが憎らしくて、何で俺はこのセクシャリティを持って生まれてきたんだと、天に向かって吠えた日。


 誰にも打ち明けられない性の悩み。


 そして荒れ果てた、中学時代の俺の私生活。


 昔の思い出の一切を切り捨てたはずなのに、千晃さんの取った行動は、俺のトラウマを記憶の底から引きずり出してきた。


 何も、言えなかった。


 互いが、互いを、拒絶していた。


 千晃さんは何も言わず、俺に背を向ける。


 逃げ出すようにして俺から離れ、空き教室の扉を開いて廊下へと去っていった。


 あまりにも速い足取り。


 初めて視線が合った日の、あの通学バスから降りた彼の姿が重なった。


 俺はいつまでも床に座り込んでいた。


 追いかける勇気も、言い訳をする余裕もなかった。


 俺は、間違えたんだ。


 彼は、もう俺を今までのようには見ないだろう。


 必死に築き上げた繋がりを、痛恨のミスでぶっ壊してしまった俺に、救いの手は差し伸べられない。


 下校時刻になるまで、俺以外の誰も、ここには入ってこなかった。





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