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 クソだりぃ、湿気がウゼェ。まるで梅雨のようなじめじめした不快指数と連日の雨で、俺の気分の晴れなさ具合はマックスだった。何だこれ、もうすぐ華やかなゴールデンウィークだってのに、肌がべたつく感覚にイライラが止まらねえ。


 千晃さんからの連絡もないし。


 正確に言えば、俺の方からちょくちょくメッセージを送っているんだが、向こうは忙しいのか、一言付きのスタンプが返ってくるばかりで、意外なガードの固さを感じた。ありゃ大和撫子というより、高嶺の花だな。読みを失敗した。


 俺の好意はもしかして、千晃さんには負担なのかもしれない。日々募る不安が俺を焦らせ、そのせいで若干前を見ていなかった。


 つまり、すれ違った誰かと思い切り肩をぶつけてしまった。


 俺は、ちゃんと「悪い」と謝るつもりでいた。


 が、ちょうど俺と同じほどの背丈の男がギロリとキマッた目で、


「いってーな。どこ見て歩いてんだよ」


 なんてほざくものだから、俺の方もついカッと頭に血が上ってしまい、


「あぁ? そっちがぶつかって来たんだろうが」


 引き返せない台詞を放ってしまったのである。


 火花が、バチリと音が鳴る幻聴がしたほどだ。相手の目の色が一瞬で変わり、俺を敵と認識したようだった。


 男のそばにもう一人、細身のひょろ長い、けれど同じくらい鋭い目つきをした短髪の男が張りつく。こいつらは連れ立って歩いているらしいな。にじみ出る連帯感が半端じゃねえ。共闘でナワバリ仕切ってるタイプか。


 こいつらの校章バッジの色はさっき確認した。銀。二年の上級生だ。


 向こうが俺の赤胴色の校章バッジを見て、ますます眉をひそめる。


「こいつ、一年じゃねえか。息巻いててうぜえんだよ」


 短髪の野郎が挑発するが、俺は鼻で笑う。


「尊敬できないオッサンには尻尾振らねえタチなんでね」


「んだコラァ! でけえ面してんじゃねえ!」


 俺にぶつかった黒髪の男が、胸ぐらを掴む。両耳には悪趣味なドクロの形の大ピアスが揺れていて、耳たぶ重そうだなとか余計なことを考え、自分でちょっと可笑しくなった。


「何ニヤついてんだ、てめえ!」


 相手が手を振り上げるより先に、行動を起こした。


 左拳を、俺の襟元にある上級生の手首に突き当て、怯んだその隙に己の右腕を伸ばし、そいつの手首を掴み取った。


 そのまま体重を乗せて床に引き倒そうと思ったのだが、意外に上級生は見事な受け身を取って衝撃を和らげ、反対に俺に寝技をかけてきやがった。


 喧嘩、慣れてやがる。ますますウゼエ。キレていいかな。


「やっちまえ、筑摩ちくま!」


 短髪ひょろ男が煽る。俺はとうとうブチ切れ、ちょっとした反則技を仕掛けてしまった。


 早い話が、この男の顔面に肘打ちをお見舞いしてやったわけだ。


 ちょっとやり過ぎたかなと思ったけど、やっちまったもんはしょうがない。謝る気もない。


 男は一瞬のうちに俺から離れ、距離を取る。鼻血を少々垂らしながら、すぐに指で拭って「いい度胸してやがるな」と挑発した。


 短髪が黒髪の方に寄り、親の仇かのように俺を真正面からにらみ上げる。


 再びの火花。バチバチ、と二度目の幻聴。


 いつの間にか、千代田がひょっこりと廊下の角から顔を出し、状況を把握して俺のそばに近づいていた。小柄な方に入る千代田の背丈と体格を見て、上級生二人は侮っているのか、声すらもかけない。


「俺、加勢しようかー?」と千代田は一応の確認という体で俺にささやく。


 首を振り、拳を上級生二人に向かって突き出した。


「山吹高校一年の番張ってる、京橋だ。てめえらこそでけえ面してんじゃねえぞ」


「はっ、年下が粋がってんなよ」


 黒髪が嘲笑する。こいつは確か筑摩とか言ったな。隣のやつの名前も聞き出してやる。


 威嚇しようと一歩を踏み出した時、廊下の向こうから体格のでかい大人の大男が走ってくるのが見えた。


 やべえ、生活指導だ。


 おまけに担任もいやがる。


 教師たちの怒鳴り声に俺たちの戦意は殺がれ、互いに盛大な舌打ちをかました後、それぞればらける。


「覚えてろよ。このままで済むと思うな」


 野郎二人がすごむのに合わせ、俺も不敵に笑う。


「おととい来やがれってんだ」


 大人たちに捕まらないよう、俺と千代田は廊下を疾走する。「廊下を走るなーっ」と叫ぶ教師二人も走ってて、でもオッサンの脚力なんか、若い俺たちは軽々と追い越していく。若さは武器だ。生命力の証明だ。甘く見ていたら痛い目見るぜ。


 空き教室に逃げ込み、千代田と息を切らしてハイタッチを交わす。上手く撒けた。爽快な気分だ。


 初夏が近いため、少し走っただけで汗が噴き出ていた。水飲みてーな、と俺がつぶやくに合わせ、千代田が心配そうにこちらを見遣った。


「京、少年漫画に憧れてるのはわかるけどさー、あそこで堂々と名乗るバカはいないっしょー。身バレってやつだよ」


 千代田が深いため息をついて「やれやれ」のジェスチャーをした。いいじゃねえか、別に。憧れてても。


「まー、あいつら、わざわざ顔と名前聞くまでもないけどね。筑摩ちくまたけの二年コンビじゃん。学年牛耳ってる二人組だよ」


「二年のボスってわけか」


「うちらのナワバリ荒らしてくるんじゃねーの? そのうち」


 千代田が面倒くさそうに頭をかく。こいつ普段やる気ないもんな。


「その時は俺がお前らを守ってやる」


「令和ってその台詞、流行る?」


「う、うっせーな! 言っとくけどお前は俺の右腕として動いてもらう役目だからな!?」


「うわあ、だりぃ」


 千代田が本気でうんざりした顔をするので、何とかこいつのモチベを上げるべく、缶ジュースでもおごってやるかと財布を漁る。


「……ん?」


 後ろのポケットに突っ込んでおいた財布は、どこだ?


 ……ない。なぜだ? 


「京、まさかと思うけど、今時スリに盗んでくださいってアピールするような場所に財布を入れたわけじゃねーよな?」


 千代田の冷や汗。俺も真っ青。暑いはずなのに垂れてくる水滴はなぜか冷たい。


 ……財布を、失くした。


 心当たりは、十分すぎるほどにある。


「ま、まあ、スマホじゃなかっただけ、マシか……?」


「そりゃスマホだったら地獄だけど、財布もお前、個人情報の、いろいろ……」


 俺の必死の強がりを、千代田はピシャリと叱りつける。母親みたいに心配してくれんのね。何だかんだで面倒見のいい相棒だ。


 しかし、ここで感傷に浸っている場合ではない。


「さっそく修羅場だー……」と親友は半泣きのごとく前髪をかきむしる。いや、申し訳ないね、本当に。






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