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2時限目


 翌日は雨だった。けっこうな本降りで、こりゃバスの中はだいぶやばいなと俺たちがささやき合った予感は見事に的中した。満員電車並みの混雑具合。お前らちょっとは雨の街を歩くぐらいの気概を見せろ。


 当然のごとく最後列の四人掛けの座席は人で埋まっている。仕方なく、吊り革に掴まって車体の揺れに身を任せながら仲間たちとだべる。カーブを曲がるたびに大人たちの体重がこちらに寄りかかるような気配がして、てめえ、背もたれじゃねえぞという意味を込めてガンを飛ばした。体がでかい俺は、ほんの視線攻撃だけでいとも簡単に相手を黙らせることができる。図体の勝利だ。


 隣の千代田と、混雑うぜー、湿気うぜー、と意味のない文句を垂れながら、ふと頭の隅で、あの大和撫子は大丈夫だろうかと心配が過ぎった。


 いつもこの時間に乗り合わせてくるはずだ。


 チラッと、さりげなさを装って目をあちこちに動かす。


 あ、乗ってきた。大和撫子。


 人の列に押されるようにして、彼が車内へ進む。


 決して背が低いわけではないが、高い方の部類にも入らない大和撫子は体格も細くて薄っぺらくて、何かこの状況じゃ人の圧でつぶされそうだなと思うくらい、頼りなげに車体に揺られている。吊り革に掴まって文庫本を読み始めた姿は、文学少年だといえそうな風情があって素敵だ。俺には理解できない読書の世界。やっぱりこいつ、頭いいんだろうな。


 停留所で停まるたび客が出入りして、ぎゅうぎゅうになりながら、大和撫子はいつの間にか俺の近くにまで押し出されていた。ド好みの美貌が迫り、鼓動が高鳴る。やべー、めっちゃ可愛いよ、こいつ。


 千代田たちの会話に相槌を打ちつつ、あいつのいる方向に意識を向ける。仲間には申し訳ないが、恋愛感情はそうそう抑えられるものじゃないわけよ。どうしても視線は左斜め前方に吸い寄せられてしまう。


 最初、違和感を抱いたのは、大和撫子の読んでいる本のページがさっきからちっとも進んでなかった点だった。


 そして、大和撫子の体が小刻みに震えている。具合でも悪くなったのかと心配になり、顔を彼の方に完全に向けると、理由がわかった。


 彼の背後にぴったりと、不自然なほどの距離で、キモい中年のおっさんが張りついている。


 おっさんの手がゴソゴソとうごめき、実に卑猥な手つきで、彼の尻からデリケートなゾーンを執拗に撫で回していたのだ。


 行為はあっという間にエスカレートして、指を食い込ませたり、グリグリ押しつけたりし始める。


 俺は堪忍袋の緒が切れそうだった。


 この世にお前みたいなクズがいるせいで、俺ら男がみんな犯罪者予備軍みたいに言われるんだよ。


 迷惑極まりない人種だ、痴漢なんてやつは。


 大和撫子の表情は恐怖に歪み、真っ赤に染まった頬には一筋の涙が静かに、緩やかに伝っていった。


 俺は周りの乗客を押しのけ、大和撫子の隣に立った。


 サラリーマン数人が剣呑な空気を出すが、意に介している場合ではない。


 近づかれた大和撫子は一瞬だけ、びくりと怯える。


「痴漢?」


 念のため小声で確認する。大和撫子は小さくこくりとうなずき、文庫本で顔の下半分を隠す。涙の筋がわずかに浮かび上がっていた。


 痴漢野郎はようやく俺に気づいたのか、あわてて手を引っ込めるが、逃がす俺ではない。それにここは満員バスだ。逃げ道など用意させるものか。


 痴漢のキモい手首を思い切り掴み上げ、自慢の握力で握りしめる。「いてぇっ!」と情けない声を上げる野郎に向かって高々と周囲に見せつけるように、俺は大声を張り上げた。


「こいつ、痴漢だーっ!! 運転手さん、追い出してください!!」


 俺の怒声に周りの大人がざわめき出し、次にOLのお姉さんたちが次々と悲鳴を上げ、バスの中は阿鼻叫喚となった。急きょバスは緊急停車し、運転手のマイク越しの「バスから降りなさい。警察に通報します」という宣告がとどめを刺した。






 放課後の教室はなぜこんなにも開放的なのだろう。ずっと放課後でいいくらい、俺はこの時間帯が好きだ。好き放題、こいつらとだべっていられる。


 あの後、結局俺たちは大遅刻となった。けれど事情が事情のため、特に叱られることもなく職員室から解放された。その時点で時刻は朝十時。実に微妙な時間帯であったため、半端な分をサボりに使った。屋上に行って午前中の爽やかな空気を吸う。


 今朝がたの雨はすっかり止み、空は気持ちのいい晴天を取り戻していた。少々日光が強いが、屋上で過ごすには最高級に近い条件である。雨上がりの、温かさを含んだ風が緩く吹いて、もうすぐ五月なのだと季節を実感する。気温はどんどん上がり、汗ばむ陽気が続いている。俺は長袖シャツの裾をまくって、体内の熱を逃がした。


 あの後、大和撫子は蚊の鳴くような声で「ありがとうございます」と俺に言い、小走りで学校へ登校していった。あんなことの後で授業受けれるのかね?


 三時限目の授業に合わせて、俺たちは教室に戻り、クラスメイトから武勇伝扱いされた。別に悪い気はしないが、彼のことが心配だ。トラウマになってなきゃいいけど。


 で、今は授業も全部終わり、自由時間の真っただ中である。部活してるやつもいるが、この学校で真面目に部活に励んでいるのは少数派だよな、たぶん。たいていの輩はほとんど幽霊部員だろう。俺も帰宅部だし。部活動全員参加なんていう強権は、この学校には適用されない。教師の言うことなんか聞かないもんね。アウトロー上等。


 しばらく他愛ない話で盛り上がっていたところ、「……ん?」と、千代田が怪訝な顔をして窓の外を見る。いざこざでも見かけたか。ここ不良校だしな。


「なあ、あれ、今朝の大和撫子じゃね?」


 やつが指さした方角を、思わず凝視する。窓に張りつき、自分の鼻の油脂がガラスにくっつくのも無視して彼を探した。


 ――いた。彼が。


 山吹高校の、校門前に。


 ……いやいや、あいつ何してんだ。危ないだろ、お坊ちゃんがここに来たら。


 案の定、周りの不良たちがじろじろと値踏みをするような視線を彼に投げている。いやらしく舐め回すんじゃねえ、蹴るぞ。


 俺は耐えられず、絶叫した。


「や、や、大和撫子!? 何でこんなところに!?」


「いや知らんけど」


 千代田が心底どうでもよさげに返すが、今はこいつにかまっていられない。


「こんな狼だらけの巣窟に大和撫子がいたら大変だ! 何か起こってからじゃ遅い!」


「お前がいちばんの狼だけどな」


 千代田が再び憎たらしい言葉を投げるが、さっさと無視して廊下を全力で駆け抜ける。教師の叱り声も無視し、猛スピードで玄関口へ出た。下駄箱でスニーカーに履き替えるのももどかしく、上履きのまま校門まで俺は走った。


 無事で、無事でいてくれ! 最愛の人!


 全速力で近づいてくる俺に気がついた大和撫子は仰天しながらも、やや緊張した面持ちで俺を待っていてくれた。


 息を切らした俺と、体をこわばらせている彼。


 目と目が合う。


 それだけで胸が甘く締めつけられるような痛みに疼く。


 やっぱり、これは恋だ。


 俺の性的指向は、永遠に変わらないのだ。


 それはどうしようもない事実であり、でもそんな自分自身を、俺はまったく恥じていないし、悔いてもいないし、堂々と振る舞うべきである。


 すべての同士に、俺は、己のセクシャリティで何かを葛藤する必要などないと、公言して回りたい。俺は――俺たちは、そのままで生きていけるはずだから。


 俺は一つ、しっかりと息を吐き、大和撫子にカッコよく見られるべく快活な声色を出した。


「いやあ、災難でしたね」


 大和撫子は苦笑を浮かべ、その後は何か言おうとし、口をつぐんだ。何だろう。何の用でここまで来たんだ? うちの高校と彼の高校なんて、何の接点もなかったはずなのに。


 後ろから仲間たちが追いついてきた。野次馬根性で来やがったな。千代田、飯田、矢来の順番で俺の背後に回り、「こんにちはー」と気軽な挨拶をする。大和撫子は遠慮がちに、ぺこりとお辞儀をした。


「あの」


 小さな声で彼がつぶやく。その声を聞き逃さないように、俺は距離を近づける。そのたびに心臓がドキドキ鳴って、うるさいほどだった。


「今朝は、ありがとうございました。助かりました。あの、お礼を言いたくて」


「ああ、それで待ってたの? 律儀だねー」


 答えたのは俺でなく千代田である。こいつの癖なのだが、接点のない相手にも気軽な調子で接するから、人によっては驚かれる場合もあるというのに、こいつはちっとも反省しない。


 大和撫子はこくりとうなずいた。


 その様子が可愛くて、何とかこっちも話題を振りたいと思い、俺はぶっちゃける。


「痴漢なんか足踏みつけてやればいいんっすよ!」


「アホ! それができねえやつが狙われるんだよ!」と飯田に鋭い指摘を入れられ、「そうそう、あいつら人見てるからなー」と千代田に同調されてしまう。俺のアドバイスはことごとく失敗するのだが、なぜだ。


 矢来が「京はね、バカだし不良だし騒がしいし、どうしようもないけど、いいやつなんだよ」とまったく参考にならない紹介をしてくれる。お前はルックスに似合わず毒舌が過ぎるぞ。


 さっきの失言を挽回すべく、再び明るい口調を出す。


「えーっと、そうだ! 体鍛えましょう! ムキムキイケメンになりましょうよ、大和撫子さん!」


「…………へ? 大和撫子……?」


 彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をし、まじまじと俺を見上げた。


 墓穴を掘った俺に慈悲の手を差し伸べてくれる者はなく、千代田、飯田、矢来の三人は、何てアホ過ぎるオチなんだと言いたそうに、いっそ哀れみを込めた目で俺を見つめている。この薄情者が。


 どうしよう、どう言い訳すればいいんだ、これ。


 石化のごとく硬直している俺は、端から見れば挙動不審なピンク髪の男か。


音羽おとわです」


 彼が発言した。すぐさま俺は石化を解き、「お、おう」と形だけカッコつけた返事をする。


音羽千晃おとわ ちあきです。高校二年。……今日は、本当にありがとうございました」


 音羽さんは心からの感謝を示すように、深く頭を下げた。


「いやいや、そんな」と言いかけ、俺は意外な事実に目を丸くする。


 ――年上?


 てっきり、可愛い後輩男子かと。


「こいつ、筋肉バカの京橋幸介きょうばし こうすけっていいます。よろしくー」


 俺の代わりに千代田がやけに失礼な紹介をする。飯田と矢来も千代田にならって各自名前を教えた。


「その制服、向かいの水ノみずのみや学園っしょ? 頭いいんですね」


 千代田が気さくに微笑みを浮かべる。こいつが笑うと不思議なことにその場の空気が和むのだ。中学時代、俺と張り合ってた時は狂犬童顔と呼ばれていたくせに、不公平である。


 音羽さんが、ふわっと笑った。


 千代田の雰囲気に和んだようだ。まったくもって不公平である。


「君たちの制服は、山吹やまぶき高校だね。今日は本当に助かりました。ありがとう」


 にっこりと微笑む音羽さんは、キラキラという効果音を発しているかのような輝きを携えていた。これが悩殺スマイルというやつか。


「ねー、アカウント教えてくださいよ。みんなで繋がろー」


 千代田がスマホを取り出し、素晴らしい軽さで音羽さんを誘ってくれる。お前、今日は天使か。


「あ、SNSは何もやってなくて……。LINEしか……」


「そうなんだー。じゃあLINEのQRコード見せてー」


 千代田が神の手を差し伸べてくれている。これに乗っかれない俺ではない。


 中学からの親友のおかげで、俺は今までバスの中で見つめるだけだった片思いの相手と、ついにLINE交換をしてしまった。


 すげえ、何だこれ。運命の女神が俺に微笑んでいる。


 そして、千代田。お前は恋のキューピッドだ。サンキューな。


 こいつが行動に起こしてくれたのも、俺に橋渡しをする役目を担ってくれたんだな。ここから先は俺自身ががんばるよ。


 いざ、当たって砕けろ。


「音羽さんのこ」


「あーっ! 名字呼びじゃ味気ないんで名前で呼んでいいっすか? って言いたいみたいです、こいつ!」


 被せるように飯田がでかい体を俺にぶつけてくる。体当たりすんな。


 思わずにらむと、飯田が口パクで(出会っていきなり告るバカがいるか! ちゃんと距離を縮めてからにしろよ!)と必死に訴えている。そっか、危なかったわ。


「いいよ、親しみがあって嬉しいな」


 音羽さん、いや千晃さんは再びの悩殺スマイルを俺に浴びせてくれた。可愛すぎて倒れそうだぜ。


「俺のことは幸介こうすけって呼んでください!」


 大声で願い入れると、千晃さんは快く承諾し、


「幸介くんたち、これからよろしくね」


 三度目の悩殺スマイルをお見舞いした。


 俺はきっと前世、一国の危機を救った英雄だったのだろう。だからこの世に生まれ変わり、こんなご褒美をもらえたのだ。勝ち組すぎて幸せの脳汁がほとばしってる。


 天にも昇る気持ちで俺が花畑の世界へ行っている時、その声は聞こえた。


「千晃」


 突如、彼の下の名前を呼び捨てで言った男の声がした。


 校門の向こう側からこちらにやって来るのは、背の高い、黒髪のメガネ男。


 切れ者という風格を漂わせるそいつは、千晃さんと同じ制服を着ていた。こっちは逆に、そんな高校生いちゃダメだろと言いたくなるような大人びた風貌だ。切れ長の目は鋭く光り、高そうな銀縁メガネをクイッと上げる様子は、数学の教師に例えられそうなオーラをまとっている。


 そいつは俺たちを視界からブロックするかのような振る舞いで、


「そろそろ行こう」


 と千晃さんの肩に手を置いた。


「あ、うん。待たせてごめんな、けい


「いや、別に」


 啓と呼ばれたそいつは先に歩き、千晃さんは後からついて行くように俺たちから遠ざかる。


「じゃあね、みんな」


 最後に、とびっきりの爽やかなザ・王子様スマイルを添えて。


 …………えっと、千晃さん?


 その彼氏面した男は、誰ですか?


「別に彼氏って決まったわけじゃねえだろ」


「千代田、なぜお前は人の心を読めるんだ」


「アホ、口に出して発言してるぞ、お前」


 答えたのは千代田に代わって飯田だった。わざわざ後ろを振り向かなくても済むほど、三人の視線がグサグサと背中に突き刺さる。俺は棒立ちになったまま動けずに、どんどん姿が小さくなっていく千晃さんと謎の男を、ただただ、目で追いかける。


 矢来が「もしかしたら、ライバルかも?」と無神経な台詞を言ってのけ、同情心のつもりか、俺の肩に優しく手を置いた。慰めるな。バカ野郎。





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