気が付けば、放課後の教室に一人立っていた。
窓から見える景色から察するに、東校舎三階、一年二組の教室だと思われた。
こんな風に、唐突に放課後が始まることには慣れていた。
また、新しい放課後が始まったのだ。
(校内を見回らないと)
教室の後ろのドアに向かいかけて、ユリハナは、はたと立ち止まった。
シラユリを救い出す手段が見つからなくても、せめて、少しでもヘビの被害者を減らせたらと、放課後が来るたびに学園内を見回るようにしていた。
シラユリのことは、半分くらい諦めていた。
けれど。
あの子たちに出会って。
もう一度、望みを託して、そして自分は。
(どういうこと? あれは、夢だったの? 私は、シラユリを取り戻したはずじゃ……?)
キュッと胸元を押さえて、一度、深呼吸をした。
それから、改めて気配を探す。
あの子の、カトレアの、リリアナのいる場所は、いつも、何となく分かった。
(……………………?)
探そうとして、あることに気が付いた。
気配が、まるで、感じられないのだ。
リリアナの、ではない。
本来、あるべきはずの気配が、感じられない。
放課後の東校舎は、基本的にはいつも無人だ。
ヘビを恐れて、生徒は近寄らないから。
けれど、グラウンドや文科系の部室がある南校舎では、部活が行われているし、無人の東校舎にいても、部活中の生徒の立てる物音や、話し声や、気配は、いつも感じ取れた。
休日や祭日には、校内が無人になることもあるはずだが、それは、永遠の放課後を生きるユリハナには存在しない時間だった。
魔法少女となってから、こんなに静かな放課後を向かえたことは、一度たりともなかった。
(どういうこと?)
訝しんでいると、背後に馴染みのある気配が現れた。
「リリ……いえ、あな、たは…………」
荒げた声が、途中で力を失くす。
そこにいたのは。
三つ編みを、耳の後ろでくるりと輪っかにした、小柄な少女。
「二人の女の子の運命を狂わせるなんて、あなたも罪な子ね、ユリハナ?」
穏やかで優し気な笑みを浮かべて、少女は右の三つ編みを解く。
ふわりとウェーブのかかった髪が広がった。
もう片方にも手を伸ばしかけて、少女は動きを止めた。
「あら、うふふ。抵抗されてしまったわ。あなたにこの髪型を褒められたことが、嬉しかったみたいね。ふうん、じゃあ、いいわ。しばらくは、このままでいましょう。この子とわたくしが、完全に一つになるまでは」
「完全に、一つに……?」
「そうよ。シラユリは運が良かったわね。あなたのことがショックだったみたいで、早々に奥に引っ込んで閉じこもってしまったおかげで、自分を保っていられた。でも、この子は違う、わたくしの中で、いい感じに同化して、ちゃーんと起きているわ。うふふ、わたくしとこの子は、完全に一つになる。完全に交じり合って、この子は消えてなくなる。ふ、ふふ。そうなったら、あの子、夕闇はどんな顔をするかしら?」
少女はうっとりと、夢を見ているような眼差しをする。
「シラユリとあの子は、どうなったの? どこにいるの?」
「シラユリなら、生きてはいるみたいよ? でも、どうなったのかは、わたくしにも分からないわ」
「分からないはず、ないでしょう!?」
ユリハナに詰め寄られても、少女は動揺しなかった。
「あら、本当よ? ここは、あなたとわたくしだけの、閉ざされた世界。あなたと二人だけの世界が、この子の願いだったみたいね?」
「なっ!?」
信じたくはなかったけれど、それが嘘ではないのだと、感覚的に分かった。
目の前の少女以外の気配は、何一つ感じられない。
「あなたと遊ぶのは、もう飽きたし、わたくしとしては夕闇と遊びたかったのだけれど。これが、この子の願いなのだから、仕方がないわよね。この子が完全に溶けてなくなるまでは、あなたの相手をしてあげるわ、ユリハナ」
右側だけ髪を解いた歪な姿で、少女は不釣り合いな笑みを浮かべる。
ユリハナが知っているその少女には、似合わない笑顔。
でも、よく見慣れた微笑み。
「ナズナ…………」
絞り出すような呼び掛けを、少女は否定した。
「もう、ナズナではないわ。そうね、新しい名前を付けようかしら? あの子が、夕闇なら、わたくしは常闇にしようかしら? そうね、そうしましょう!」
目を輝かせて、少女は手を打ち鳴らした。
おまえなど眼中にないと言われたようで、ユリハナは奥歯を噛みしめる。
だが、諦めたわけではなかった。
その瞳にはまだ、意志の力が宿っていた。
「ナズナは、必ず私が取り戻す。二人で、みんなのところへ帰る。必ず!」
少女の胸に歓喜が走った。
どちらのものとも知れないその迸りに、少女は身を震わせた。
「それが、あなたの願いなの? ユリハナ?」
「いいえ、違うわ。これは、願いなんかじゃない」
ありったけの力を目に込めて、少女を睨み付ける。
「これは、私の———―――」
☆ ☆ ☆
かつて祠があったその場所を、
シラユリは取り戻した。
けれど、代わりに。
(ちょっと考えれば、こうなる可能性があるって予測できたはずなのに。どうして、私は——―)
詰めが甘かったというほかない。
というよりは。
今になって思えば、すべて、リリアナの手のひらで踊らされていたように思う。
桂花が、わずかに残っていたマシロ様の力を手に入れたことは予想外だったようだけれど、そのことに脅威を感じている様子はなかった。
むしろ、リリアナは夕闇の登場を喜んでいた。
学園から、魔法少女もヘビも姿を消した。
ナズナたちと一緒に。
気配は感じる。
けれど、姿を見ることは出来ない。
鏡合わせの世界に、入り込んでしまったかのように。
伝説はまだ残っている。
天使と悪魔の伝説は、まだ学園内のいたるところで囁かれている。
リリアナの魔法は、まだ学園にかけられたままだ。
でも、以前とは雰囲気が変わっていると、桂花は感じていた。
「こんなところで、一人でどうしたの? 何か、悩み事?」
後ろから、声をかけられて振り向くと、いつの間に現れたのか、音楽の葛西先生が立っていた。
リリ女の卒業生で、確かナズナに祠のことを教えてくれた先生のはずだ。
なんでもありません、と答えようとして、目を見開いた。
自分のものではない記憶が蘇る。
声も姿も、当時とはすっかり変わってしまっているけれど、それでも、間違いなかった。
「今でも、学園が壊れてしまえばいいと願っていますか?」
当時の彼女が、何を思ってそんな願い事をしたのかは分からないし、興味もなかった。一人で佇む桂花を心配して声をかけてくれたのだから、今はもう、そんなことを願ってはいないのだろうとも思う。
それでも。
それを、本人の口から聞きたかった。
葛西先生は、驚いた顔で桂花を見つめたけれど、直ぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「いいえ。そんなこと、ないわ。みんなが学園生活を思いきり楽しんで、笑顔で卒業できますように。そう、願っているわ」
桂花ではなく、昔祠があった場所に向かって語り掛けると、葛西先生は深くお辞儀をして、その場を去っていった。
桂花は黙って、その背中を見送った。
今の願いが、リリアナにも届いただろうか?
グラウンドの向こうの校舎を見上げる。
(届いたところで、今更、どうにもならないかもしれなけれど、それでも…………)
今の願いが届いていればいいと、桂花は思った。
「リリアナ。待っていなさい。私は、必ず、ナズナを取り戻す。これは、願いじゃない。これは、私の———―――」
学園内のどこかにいるはずのリリアナに向けて、桂花は声に出して宣言した。
絶対に諦めないという思いを瞳に込めて、校舎を見据える。
「これは、私の、誓いよ」
「これは、私の、誓いよ」
凛とした声は。
すぐそこにあるのに遠い何処かの声と。
ピタリと重なり。
ほんの一瞬、世界は震えた――――。