二年二組の教室の中に、赤い影を発見したのはナズナだった。
「スイレン、あそこにいます。まだ、完全にヘビにはなってないみたいです」
教壇側のドアにほんの少し隙間が空いていて、そこから教室の中央で赤い柱がモヤッと立ち昇っているのが見えたのだ。
「私とサルビアで前から入って気を引き付けるから、ヒナゲシたちは後のドアへ。もしもの時は、援護よろしく」
「り、了解です」
「分かりました」
声を潜めてやり取りした後、ナズナとプリムラは足音を潜めて後ろ側のドアへと向かう。
ナズナたちが後ろのドアの前でスタンバイしたのを確認すると、サルビアが勇ましい掛け声とともに、思い切りよく前のドアを開け放つ。
「たのもー!」
「……道場破りじゃないんだから」
大きく足音を立てながら、二人で教壇があるところまで走っていく。
「さあ、来い! ヘビ! オレたちが相手だ!」
教壇を挟んでヘビと対峙し、二人で銃を構える。
騒々しく教室内に侵入してきたサルビアたちを獲物と認めたのか、赤い靄は急速に密度を濃くしていった。
上半身は女生徒を模り、そのスカートの下から蛇の足が生えている。
ヘビの意識が教壇側に向いている内に、ナズナとプリムラはなるべく音を立てないようにドアを開け、ヘビの背後に回り込んでいた。
太ももから銃を取り出し、銃身に意識を集中する。
「よーし! 充填完了、ロックオーン!」
割合にノリノリなスイレンの声と共に、ヘビの胸の真ん中に向かって白線が放たれる。
スイレンは魔法少女のリーダーであるカトレアに次ぐ銃の腕前だ。大した距離ではないし、正面から狙いをつけている。外すことはないだろう。
出番はなしか、と少し気を抜いたナズナとプリムラの間を、白線が走り抜けていった。
(え?)
目を疑った。
白線はヘビを貫通したわけではなかった。
白い光が当たる寸前で、ヘビは自ら上半身を二つに裂いたのだ。
スカートから上の部分が二つに分かたれてユラユラと揺れている。Yの字に分かれたその隙間から、銃を構えたまま顔色を失くしているスイレンが見えた。
赤い女生徒の腕がシュルリと伸びて、左右からスイレンとサルビアに襲い掛かる。
「スイレン!」
サルビアがスイレンを突き飛ばして、襲ってくる腕の一本を撃ち抜いた。撃たれた腕はサラサラと霧になって周囲に消えていくが、もう一本の腕は勢いを止めることなくサルビアへと向かっていく。
サルビアは襲ってくる腕に銃口を向けるが、力の充填が間に合わない。
「…………っ!」
眼前に迫る赤い手のひらに息を呑んだ、その時。
「ナズナ!」
「分かってる!」
サルビアの鼻先で、赤い手は動きを止めた。
「え?」
視線をずらして手のひらから腕へと辿っていくと、二つに分かたれた半身が、両方ともサラサラと霧状に崩れていくところだった。霧散していく赤い霧の向こうで銃を構えているのは、ナズナとプリムラだ。
「た、助かった。サンキューな、二人とも」
大きく安堵の息をついているサルビアを確認して、ナズナとプリムラも肩から力を抜いた。
サルビアに突き飛ばされてドアの近くまで吹き飛んでいたスイレンも、身を起こした。
「いたた……。大分、危ないとこだったけど、どうにかなったみたいね。えーと、ともかく、二人のおかげで助かったってことなのかな? なんか、変な掛け声が聞こえてきた気がしたけど。プリムラ、ツナって何? お腹すいちゃったの?」
「えっ!? いえ、その、そういうわけではないんですけど。む、夢中だったので、よく覚えてないです」
みんなの視線がプリムラに集中して、プリムラは赤くなって両手を前に突き出した。
「ふーん?」
スイレンはそれ以上プリムラを追求することはなく、サルビアと何やら言い合い始めた。さっき突き飛ばされたことについて、仲良く言い争いをしている。
あっさり放置されてたプリムラは手を降ろすと、そろりと横目でナズナの様子を窺い見た。
(プリムラ、さっきナズナって言った? ヒナゲシじゃなくて、ナズナって……。ナズナのことは、
ナズナもまた、探るように桂花を見つめる。それに気づいて、遠慮がちにナズナの様子を窺っていたプリムラが、真っすぐにナズナに向き直った。
大きな瞳が、ナズナの視線を捕らえる。
何か言いたげに、揺れている。
「……………………」
ナズナもその目を見つめ返す。
唇を開きかけて、でも、言葉が出てこなかった。
何かが、繋がりそうで繋がらない。
自分は今、何を言おうとしたのだろう?
誰の名前を呼ぼうとしたのだろう?
「私のことが分かる?」
問われた瞬間に、掴みかけていた何かが、霧散していった。魔法少女に撃ち抜かれたヘビのように。
「え、と。プリムラ、だよね?」
躊躇いがちに答えると、プリムラは唇を噛みしめ、強い眼差しでナズナを射貫いた。
「本当に分からないの? 私の正体」
「え? 正体って、でも、魔法少女の正体は、誰も知らないはずだし……」
プリムラは、瞳が大きい分、目力も強い。
ナズナはビクリと身を竦ませた。
プリムラが、何をそんなにイライラしているのかが分からない。
先ほど、プリムラに本当の名前を呼ばれたことは、ナズナの中から綺麗に消え去っていた。
「……っ。またか!……………………まあ、でも、これで私たち二人ともヘビを倒したことになるわけだし、二人だけでパトロールに回れるようになるかも」
ナズナの様子に気付いて、プリムラは顔を歪めたが、すぐに気を取り直して頭を左右に振る。
ポニーテールの毛先が揺れるのを目で追いながらナズナはポツリと呟いた。
「ユリハナの話を聞けば、本当に何かが分かるのかな?」
物問いたげな瞳がナズナに向けられた。
両手の人差し指を合わせて、いじいじしながらナズナは、自分が感じたことを説明し始める。
「その、花束おばさんの話も、結局、よく分かんなかったっていうか……。天使と悪魔のこと、なんだか、前よりも分かんなくなっちゃったような気もして、だから。その、ユリハナの話を聞いて、本当に真実に辿り着けるのかな、って思って。また、前よりもグルグルしちゃうんじゃないかなって、心配になって、それだけなの」
本音を言えば。
学園の謎がどうこうよりも、ナズナの知らないユリハナとシラユリの絆を見せつけられるだけなのではないかということを、恐れているだけだった。
カトレアがシラユリなら、ユリハナと絆で結ばれているのは、ナズナではなくてカトレアということになる。
その真実を突き付けられることが怖かった。
プリムラと協力してとはいえ、自力でヘビを倒し一歩前進したところで、押さえていた不安がふっと浮かび上がってきたのだ。
けれど。
それをプリムラに言うことは躊躇われた。
「天使と悪魔の謎が解けなくても、何か手掛かりくらいは得られるはず。それに、少なくとも、ユリハナのことは分かるんじゃない? ユリハナをこの学園から救い出すためのヒントくらいは、手に入るかも」
プリムラの瞳が、ヒタリとナズナを捕らえる。
「それとも、諦めるの? あなたが諦めても、私は諦めないよ。私一人でも、何とかしてみせる。ユリハナのことも、含めて。あなたがやらなくても、私が何とかする」
静かに宣言されて、ナズナは両の拳を握りしめた。
瞳を揺らしながらプリムラを見つめた後、ギュッと目を閉じる。
「分かってるよ。あたしも、一緒にやる。ユリハナは、あたしが救う!」
(たとえ、あたしが、ユリハナの特別じゃなくても、それでも!)
真実を知るのは怖い。
でも。
自分がいないところで、プリムラが一人でユリハナから話を聞くのも嫌だった。
自分が知らないユリハナのことを、自分以外の誰かが知っているということが、許せなかった。
悲壮な決意を固めたナズナだったが、事態はプリムラの思う通りにはいかなかった。
「この短期間で、そんな臨機応変な対応ができるなんて! 今年の新人さんは、本当に見込みがあるわ~。んー、でもね。二人だけでっていうのは、まだ早いかなって思うの」
ナズナたちの活躍を知ったカトレアは、両手を胸の前で汲んで顔を輝かせた。背後から、ぱあっと光の粒子が放たれたような笑みだった。
二人のことを認めつつも、二人でパトロールをしたいというプリムラの申し出を、カトレアは却下した。
「どうしてですか?」
プリムラが静かに詰め寄ると、カトレアは困ったような笑みを浮かべる。
「自分で体を二つに割って攻撃を避けるなんて、今回が初めてのケースなのよ。もしかしたら、ヘビが力を増してきているのかも。また、今回みたいな不測の事態が起こった時は、人数がいる方が対応しやすいと思うし、当面は今まで通りかしらね」
「そうですね。力の充填には、ある程度時間がかかりますし、少しでも心が乱れるとうまく充填できませんから。人数がいた方が、いざという時はカバーしあえると思います。逸る気持ちは分かりますが、何かあってからでは遅いですし、もう少し様子を見ましょう」
カトレアの返答にスズランが続く。
そう言われると、プリムラも頷くしかなかった。
プリムラは悔しそうに唇を噛みしめていたが、ナズナはホッとしたような残念なような、どっちつかずの心持でいた。
ユリハナには会いたいし、覚悟も、決めたつもりだ。
決めたつもりだけれど、でも。
本心では、まだ、揺らいでいた。
ユリハナとのことが先延ばしになり、肩を落とすプリムラだったが、その日の活動を終えて、変身を解く直前、事態はもう一転した。
解散はいつも、下駄箱の前だった。
校内に生徒が残っていないことを最後に確認してから、下駄箱へ向かい、そこで解散する。
各自、自分の下駄箱の前まで来ると、そこで変身を解くのだ。
当然、同じ学年の魔法少女とは、そこで顔を合わせることになるのだが、リリアナの魔法によって、そこで毎回のように顔を合わせる相手を魔法少女かもと疑うことはなかった。
ナズナも、帰りは桂花と一緒になることが多いな、とは思っていた。けれど、それだけだ。その理由を考えたことは、一度もなかった。
今日もいつものように、下駄箱前の廊下で先輩魔法少女たちに別れを告げると、一番西側の一年生の下駄箱へと向かう。学年ごとに列が分かれているため、一緒にいるのはプリムラだけだ。
プリムラにも別れを告げて、胸元のチャームに手を当てた時、廊下の向こうから声が聞こえてきた。
「明日の放課後。職員室の隣の、職員用トイレの中で待っている。他の魔法少女とは合流しないで、そこで変身するようにして。じゃあ、待っているから」
ユリハナだった。
姿を見せないまま、ナズナたちの返事を聞く前に、足音が遠ざかっていく。
「プリ……ムラ…………」
チャームに手を当てたまま、隣にいるプリムラへ首を向ける。
「もちろん、私はいくよ」
プリムラは下駄箱の方を見たまま、ナズナに答えた。
ナズナも、下駄箱に向き直る。
「うん。分かってる。あたしも、行く。絶対に」
迷いはまだあるけれど、ユリハナの方から声をかけてきてくれたのだ。
無為にするつもりはなかった。
それに、真実を知るのは怖くても、ユリハナに会える、そのこと自体はやはり嬉しいのだ。
甘狂おしい疼きに堪えるように、ナズナは胸元を押さえた。
「帰るよ」
「う、うん」
桂花の声に促されて、ナズナは変身を解いた。
体から白く眩い光が放たれ、光が収まると、白いブレザーはチャコールグレーへと色を変えていた。
気配を感じて隣を見ると、いつの間にか、桂花がいた。
「あ、桂花ちゃん。今、帰り? 偶然だね。駅まで、一緒に行こうよ」
笑顔で話しかけるナズナを横目で一瞥すると、桂花はナズナに背を向けた。
ポニーテールの毛先が、ナズナの目の前で揺れている。
「ユリハナのことは忘れないのに、私のことは分からないんだね」
「え?」
寂し気に揺れる毛先が、ナズナを置いて、遠ざかっていく。
一人取り残されたナズナは、ポケットの中のお守りを、そっと握りしめた。