「私は、〇〇〇〇なの」
ああ、まただ、とナズナは思った。
肝心なところが聞き取れない。
図書室の時と、まったく同じだ。
一番大事なところだけが、声が膨張したようになって、耳の中で拡散していって、意味をなさなくなる。
もう一度、とナズナが頼む前に、じっとナズナを見つめていた
「学園から離れれば、もしかしたらと思ったんだけど。やっぱり、ダメか……」
申し訳ない思いで、ナズナもテーブルの上の二つの握りこぶしに目を落とし、キュッと唇を引き結ぶ。
「ああ。あなたのせいじゃないから。気にしなくていいよ。この前も言ったけど、ナズナとヒナゲシの関係と一緒。私が知っていることはプリムラも知っているし、プリムラが知っていることは私も知っている、それだけ分かっててくれればいい。今は」
「うん……」
ナズナは頷いた。
それは、卒業アルバムを見た日の放課後にも言われたことだった。
ナズナがヒナゲシと情報を共有しているのは、ナズナが魔法少女ヒナゲシだからだ。
それと同じということは、つまり……。
そこまで考えると、頭の奥に靄がかかったようになる。
だから、ナズナは考えるのを止めて頷いた。元々、考えるのはあまり得意じゃない。理由は分からないけれど、兎に角、桂花を信じることにした。
この間と同じように。
信じてしまえば、桂花がプリムラと“繋がっている”ということには、不思議と違和感はなかった。
あの日の放課後。
駅のベンチに座り込んで、聞かれるままに、なぜあの卒業アルバムを確認しようと思ったのかを洗いざらい話した。従妹の
最初は話すのを躊躇ったけれど、一旦、話始めたら止まらなくなった。
桂花が真剣に話を聞いてくれたせいもあるし、ナズナ自身、誰かに話を聞いてもらいたいと思っていたのだろう。
話したことで改めて胸に迫ってくるものもあったけれど、少し肩の荷が下りた気もした。
話し終えて一人考え込んでいると、桂花から誘いがかかった。
「ねえ。もし予定がなければ、土曜日、家に来ない?」
「え?」
ナズナが桂花を見つめると、桂花はナズナから目を逸らして、俯いた。
「その、あなたが嫌じゃなければだけど。その方が、落ち着いて話が出来るし、学校から離れた方が、余計な邪魔が入らないかもしれないし……」
「……………………う、うん! 行く! 嫌じゃないよ!」
今迄にも、何度か話したことはあるけれど、言いたいことだけを言って去ってしまい、今一つ踏み込ませなかった桂花が心を開いてくれたような気がして、ナズナはなんだか嬉しくなって、笑顔で頷いた。
後半部分は意味が分からなかったけれど、そこはスルーした。
学校ではなるべく今まで通りにしていた方がいいという桂花の言葉に従って、校内では一切、「その話」はしなかった。
そんな風に一週間を終えて、約束の土曜日がやってきた。
桂花の家は知らないので、最寄りの駅まで迎えに来てもらった。
駅から徒歩で5分。
連れて行かれたのは、普通の住宅で、ナズナは少々拍子抜けした。
「あれ? お寺の娘じゃなかったの?」
桂花と同じ小学校出身のルカが、確かそんなことを言っていたのだ。
「え? ああ、それは、おじいちゃんの家。私が中学に入る前に亡くなっちゃったから、今は伯父さんが後を継いでる。うちのお父さんは、普通の会社員」
お寺の娘ではなくて、孫だったようだ。
もしかしたら、正座をしなくてはいけないのではと思ってドキドキしていたナズナは、噂通りでなくてかえって安心した。
家の中に入ると、桂花の母親に過剰に持て成された。その母親を避けるようにして、桂花はナズナを二階の自室へと案内する。
桂花に促されるまま、部屋の中央の、丸机の脇に用意されたクッションに腰を下ろす。ナズナだけを座らせて、桂花はドアの前で、廊下の様子を窺っているようだった。
不思議に思うナズナだったが、理由はすぐに分かった。
階段を上ってくる足音と、ノックの音。
桂花がドアを開けると、お茶とケーキの載ったトレーを持った桂花の母親が立っていた。桂花はトレーを受け取ると、さっさと母親を締め出す。
母親に部屋の中まで入ってこられないように、待ち構えていたのだろう。
ドアの外から「よかったら、また、遊びに来てね」という声を残して、母親は意外とあっさり退散していった。
(まだ、来たばかりなんだけどな……)
と、ナズナが思っていると、顔を赤くした桂花が丸机の上にトレーを置いた。
「ごめん。家に友達が遊びに来るの、久しぶりだから、舞い上がってるみたいで。気にしないで」
「あ、う、うん」
そう言えばルカが、小学校の時の桂花はクラスで浮いていたらしいと言っていたことを思い出して、ナズナは少し気まずい思いをした。
「まあ、せっかくだし。食べよ?」
「う、うん。いただきます」
促されて、フォークを手に取る。
スーパーやコンビニではなく、ちゃんとケーキ屋さんで買ってきたと思われるショートケーキだった。
ケーキの威力の前には、先ほどのぎこちなさはどこかへ吹き飛び、ナズナは笑み蕩ける。
食べている間は、暗黙の了解のように二人とも
普通の女の子同士のように、どのケーキが一番好きかとか、どこのお店のケーキがおいしいとかの話題で盛り上がった。
フォークを置いて。カップの中に残った紅茶を飲み干して。
一拍の沈黙の後。
桂花が、肝心なところだけ聞き取れない、あのセリフを口にしたのだ。
結果は、図書室で初めてその聞き取れない単語を聞かされた時と全く同じだった。
「…………それで、例の話は、聞いておいてくれた?」
「うん」
ナズナの反応が前回と一緒だと分かると、桂花はあっさりと話題を変えてきた。
ナズナは緊張した顔で頷く。
この間の別れ際、シラユリとベニユリがちゃんと卒業したのかどうか、卒業後はどうしているのかを、文香に確認するように頼まれていたのだ。
「卒業式の日は、お休みの人はいなかったし、ちゃんと卒業はしているはずだって。ベニユリは、お家の都合でリリ女の高等部じゃなくて、公立高校に進学したから、その後どうしたかは誰も知らないんだって。シラユリの方はリリ女に進んだはずだけど、そう言えば姿を見かけなかったって……。リリ女は私立でお金がかかるから、家の都合で急に学校止めちゃう生徒とかいたから、もしかしたら、シラユリもそうだったのかもって言ってたけど…………」
「卒業式には出てるのか……。でも、その後のことが分からない。卒業式の日に何かあったってこと?」
「うん、それで……」
一人でぶつぶつ言い始めた桂花に、ナズナはためらいがちに声をかけた。
「ん? まだ、何かあるの?」
「うん、あのね。二人は、シラユリとベニユリは…………駆け落ちしたんじゃないかって、噂があったんだって…………」
そう言ってナズナは俯く。
駆け落ち、と口にする時には、胸の奥がモヤモヤしてギュッとなった。
「駆け落ち?」
「うん……」
大きな瞳を更に大きく見開いて、桂花は俯くナズナを見つめた。瞳同様、口の方もポカンと開いていたが、直ぐに何かに思い至ったらしく、顎に握りこぶしを当ててぶつぶつ言い始める。
「あ、でも、そうか。そういう噂があったってことは、やっぱり誰も、卒業後の二人を行方を知らないってことだよね。とうことは、やっぱり、二人は……」
桂花の思考は、突然顔を上げたナズナによって遮られた。
「シラユリはずっと、ベニユリと同じ高校に行きたいって言ってたんだって! 卒業式の日まで、ずっと! それで、二人で駆け落ちなんて。二人は特別な関係だったってことなの!? もし、シラユリとベニユリが……………………! そうだとしたら、あたしは、ただのお邪魔虫ってことなの!?」
桂花は呆気にとられた顔でナズナを見つめた。
ポツリと呟く。!
「そこなの?」
「だ、だって! だって!!」
「やきもちか」
荒ぶるナズナを桂花はバッサリ切り捨てた。
「や、やきもちなんかじゃ……なんかじゃ…………。やきもち、なのかな」
桂花に指摘されて、ナズナはようやく大人しくなる。
「でも、そうか。ナズナは、ユリハナのために魔法少女になったんだね?」
「……………………うん」
ナズナは小さく頷いた。
その通りだった。
『魔法少女らしく』みんなのために、という理由ではないことをナズナは後ろめたく思っていたが、桂花が言いたいのはそう言うことではないようだった。
「だから、ナズナはユリハナのことを覚えているのかな」
「え?」
意味が分からずに聞き返すと、大きな瞳と目が合った。
「ナズナにとって、ユリハナはとても大切なことだから、だから、記憶を奪えないんじゃないかって。ヘビは大切なものを奪うけど、リリアナは大事なものの記憶は奪えない……ってこと? うーん……?」
最後の方はよく分からなかった。
けれど。
ナズナがユリハナのことを忘れていないのは、ナズナにとってユリハナが大切な人だから、というセリフはナズナの心を熱くした。
(ユリハナにとってはそうじゃなくても、あたしにとっては、やっぱりユリハナは特別だ。今はそうじゃなくても、いつかは…………)
萎んでいた心に、闘志が湧き上がってくる。
だが、火をつけた当人である桂花は、複雑そうにそんなナズナを見ている。
躊躇いがちに、口を開く。
「ナズナにとって、ユリハナが大事な人なのはよく分かった。ねえ、でも。ナズナ、あなた、本当に分かってるの? 永遠の魔法少女の意味を。永遠に放課後を生きなきゃいけないっていうのが、どういうことなのか、分かってるの?」
燃え上がっていた炎が、一瞬で消えた。
「うん…………分かってる……と思う。今は、分かる。最初に、カトレアから聞いた時は、ちゃんと分かってなかったけど、でも、今は分かるよ」
卒業写真に写っていた三人を思い浮かべる。
チャコールグレーのブレザーを着ていた中学生の三人。
シラユリとベニユリと、文香。
文香の写真を見た時は、あどけなくて可愛いと感じたのに、シラユリとベニユリには、そんなことは全く思わなかった。
社会人になって、すっかり大人の女性になった文香。今の文香があのブレザーを着ても、きっと似合わない。どうやっても、中学生には見えっこない。
でも。カトレアもユリハナも。
魔法少女の白ブレザーを違和感なく着こなしていた。ナズナに比べれば十分『お姉さん』だけれど、大人の女性には決して見えない。ナズナと同じ、中学生だった。
「私や桂花ちゃんが卒業しても、あの二人は、ずっとあの姿のまま、魔法少女のままでいるってことなんだよね? あたしたちが卒業して、二人のことを忘れちゃっても。それでも、二人はずっと、ずっと……あのまま、魔法少女として…………」
放課後の時間だけを生き続ける。
最後の一言は言えなかった。
冷たい手で、お腹の奥をギュッと鷲掴みにされたようだった。
奥歯を噛んで、それに耐える。
「……………………こんなこと、言いたくないけど。でも、引き返せるうちに言っておく。もしかしたら、あの二人はもう、死んでいるのかもしれない。だから、
「え? それって、まさか……。二人は、幽霊…………ってこと? そんな、どうして、そんなこと、言うの…………?」
問い返すナズナの声は、震えていた。
信じられない思いで、桂花を見つめる。桂花は目を伏せていた。
でも、それなら、
死んだ人間は、もう年を取らない。
死んだ二人が学園の放課後に捕らわれているのなら、誰かに成仏させられるまでは、ずっと放課後を彷徨い続けることになるのだろう。
「まだ、そうと決まったわけじゃないけど。でも、その可能性はあると思う。もし、そうだとしたら、二人を放課後から解放したら、もう、二人には会えなくなると思う。だから」
そこで、桂花は視線をナズナに向けた。
大きな瞳が、真っすぐにナズナを見つめる。
「もし、覚悟がないなら、今のうちにチャームを返すべきだと思う。そうすれば、つらい思いをしなくても済む。自分が魔法少女だったことも、ユリハナのことも全部忘れて、小林さんや
頭の芯が、ジンと痺れた。
ユリハナがもう死んでいるのだとしたら。
ユリハナを開放したら、もう、ユリハナには会えない。
チャームを返せば、全部忘れられる。
そうして。
ユリハナのことを忘れて。
ルカと睦美と、普通の学園生活を…………?
「……………………だ」
少しも心が揺れなかったかと言えば、嘘になる。
そうしたら、楽になれるのは、ナズナにも分かった。
でも。
脳裏に、赤い髪が翻る。
誰も寄せ付けない凛とした横顔。
初めて助けてもらった時。ナズナが忘れてきたカバンを手渡してくれた時に見た、優しい微笑み。
「イヤだ。忘れたくない。だって、あたしが忘れちゃっても、二人はずっとあのままなんでしょう? 二人だけは、ずっと。そんなの、イヤ。会えなくなっても、いい。ユリハナを、開放する……」
失ってしまうことよりも。
ナズナが卒業した後も、ずっと。
ナズナが忘れてしまっても、ずっと。
二人だけが放課後に存在し続けることが、どうしても嫌だった。
放課後に捕らわれているのがユリハナだけだったら、しなかったかもしれない決断だった。
ナズナ自身に、その自覚はなかったけれど。
「…………覚悟があるなら、それでいい」
桂花は、そんなナズナの想いに薄々気づいてはいたけれど、咎めることはせず、むしろほっとしたような笑みを浮かべていた。
「うん!」
それが、桂花に認められたような気がして、ナズナは少し嬉しくなる。
まだ胸の中で渦巻いているものはあったけれど、それを一旦押しやって、ナズナは頷いた。
まだ、そうだと決まったわけではないのだ。
噂はあくまで『駆け落ち』であって、『心中』ではないのだ。
だから、きっと大丈夫だと、言い聞かせた。
(ユリハナを放課後から解放するんだ! 放課後から、リリアナから、ユリハナを解放するんだ!)
放課後からユリハナを解放するとは、つまりはどういうことなのか――――?
恐ろしい気配が漂うその先からは目を逸らし、ナズナはひたすらに願い、誓った。
世界にお互いしか存在していないかのように睨み合うユリハナとカトレアの姿が脳裏に浮かび上がる。
ユリハナそっくろのベニユリ。カトレアそっくろのシラユリ。
駆け落ちの噂が立つほど仲が良かったというベリユリとシラユリ。
ユリハナがカトレアを『リリアナ』と呼んだことは、ナズナにはもうどうでもいいことだった。
ユリハナがベリユリで、カトレアがシラユリなのだとしたら。
シラユリからこそ、ユリハナを解放したかった。
ユリハナが、それを願っていなかったとしても…………。
それこそが、胸の奥底で淀んでいる、ナズナの本当の願いだった――――。