賊どもが一掃された定家様の屋敷は静けさを取り戻していた。
「因子、落ち着いたか?」
「はい」
寝殿に戻られた因子様は定家様から手渡されたお茶に口をつけた。
「目を覚まされてよかったです」
「ご迷惑をおかけいたしました」
このような時でも公家の姫君としての最低限の礼儀を示されるのか…。
先ほどの口ぶりからすると、僧を快く思われていない様子だったのに…。
「一体、何があったのか説明しろ」
定家様の叱責で肩をすくめる彼女のそばに膝をついた。
その瞬間、因子様の背中が一瞬震える。
「私が怖いですか?」
「とんでもありません」
「では、住蘭殿?」
俯く因子様にやはり、あの男が元凶か。
「はあ…。あのような得体の知れない男の元に通うからだ」
「お父上様だって、貞暁殿に心酔していらっしゃるじゃない!」
「貞暁殿はれっきとした…」
「定家様。因子様は病み上がりでいらっしゃるのです。そう、叱らずとも…」
親子喧嘩が始まりそうになり、咄嗟に制しした。
「貞暁殿がそう、おっしゃるなら…」
「お話になりたくないのなら、離さずともよいのですよ。貴女様がご無事なら…」
「お優しいのですね。暴言を吐いたというのに…」
「気にはしません。人の感想はそれぞれなのですから」
「ありがとうございます。されど、今の私にはその言葉ほど傷つく物もありません。友を見捨て逃げ帰ったのですから」
「因子様…お話してくださいますか?」
「ええ~。浪子様の命を奪ったのは住蘭…あの男です。言っておきますが、最初は楽しかったのですよ。あの男の念仏を聞くと良い歌が詠めた。浪子様は住蘭の容姿に惹かれたようですが、とにかく充実していたんです。ですが、あの会の真実を知ってしまった」
「私と会った日ですか?」
「そうですわ。うっ!」
「因子!」
定家様は娘の背中をさすった。
「申し訳ありません。思い出してしまって。あのおぞましい光景を…」
彼女の瞳には憎悪が宿っている。
「住蘭…。あの男の念仏会は仏の道を示す物とは程遠い。男女が情を交わすための場なのです。いいえ、少し違いますね。そういう者達もおりましたが、私が見たのは住蘭の念仏に感銘を受けたという男や女達があの男の血をすする光景です。霊験あらかたな力を宿しているのだと誰も彼もが飛びついていた。しかし、私はその中に加わる気にはなれませんでした。ただただ、おぞましく、汚らわしい。あの寺の奥で見た物は常軌を逸していた。絵巻で見た妖怪どものようでした」
妖怪?
鬼力を纏う住蘭の血肉を吸っていたというなら、おそらく比喩ではないはず。
だが、妖怪という言葉も姿も絵師たちが生み出した創作だ。
その原型は悪鬼を模しているともされている。
もし、因子様が見た者が悪鬼がらみだと仮定するならその中心にいる住蘭が施している何かしらの儀式である可能性は高い。
数多くの印によって現象を引き起こす陰陽術と同様に鬼力も手順を踏む事で術と呼ぶにふさわしい物になるのだから。
鬼言のように…。
やはり、何か企んでいるな。あの男…。
「浪子様はあの男の餌食となったのです。あの方は住蘭に想いを寄せられていた。だから、簡単についていったんですわ。今でも浪子様の声が聞こえるのです。まるで乱れるような…。ですが、その後に亡くなるなんて…。きっと、ヒドイ仕打ちを受けたんです。妖怪どもに命を吸われたんですわ」
なるほど。因子様の推測は的を射ているかもしれない。
だとすると…おそらく、浪子様は鬼力を流し込まれたのだ。
住蘭の意のままに動く
時に鬼力は人を操る。
しかし、絶対ではない。
基本的に人には害でしかないからだ。
儀式に適用できない者は必ず現れる。
浪子様は拒否反応を起こされ、お命を奪われたのだ。
それは理解できるが、なら、なぜ因子様を攫うような真似を?
「まさか、お前も…」
「いいえ。お父上様。私は逃げ出したと言ったはずです。襲われる浪子様を置いて、去ったのです。薄情な娘なのです。私は…。私に生きる価値なんて…」
唇を噛みしめる因子様の体は震えている。
「それは違います。悪いのはすべて、住蘭という男です。貴女様は自分の身を守るだけで必死だったのです。それを誰が責められると?もし、そのような者がいるなら、私はその者を軽蔑しますよ」
「貞暁殿…」
「そうだ。因子。お前のせいではない」
力強く因子様を抱きしめる定家様に彼女はホッとした表情を向けた。
良かった。心に蝕んでおられた罪悪感が少し晴れたのかもしれない。
立ち込めていた瘴気も薄くなっている。
おそらく、親友が襲われる瞬間を目撃した衝撃と恐怖、失望、後悔などが積み重なって悪鬼の宿主になりかけたのだ。幸いだったのは、まだ小さかったことだろう。
それでも、なぜ、因子様のお心を表すような歌があの時、耳をかすめたのか?
和歌を嗜んでおられる故か?
だが、あの時、因子様の意識はなかった。
まさか、悪鬼がこの方の心と連動した?
馬鹿な。考えすぎだ。
悪鬼は心を持たぬのだから。
それにしても住蘭…。日常を平和に過ごしておられた方をこれほどまでに追い込むとは…。
軽蔑という言葉だけでは足りない。
ずっと、抑え込んでいた怒りが沸々の湧き上がってきていた。
悪鬼を寄せ付けてもおかしくないほどに強く。
「悪鬼に巻き込まれるな」
ばあさんの声が頭をかすめて、落ち着きを取り戻した。
ああ、分かっているさ。
因子様にこれ以上、負担をかけるような真似はしない。
情報を引き出す手は他にもある。
透き通る空気を肌で感じながら、その足は自然と渡殿に向いている。
賊はあらかた義宗が片付けてしまったが、まだ生きている者もいる。
奴は今も俺の布団のそばで転がっているはずなのだ。