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第9話 古き歌

貞暁は静かに寝息をたてる因子様にひとまず、ホッとしていた。


よかった。生きておられる。

瘴気の気配もない。


なら、俺の鬼言は瘴気と形成しつつあった悪鬼だけをねじ伏せられたという事だろうか?


因子様を布団の上に寝かせると、渡殿に視線を移した。

柱に隠れるように定家様の背中が見え隠れしている。


「定家様。どうぞ、お入りになってくださいませ」

「済んだのか!」


振り返った定家様は慌てたのか、転がるように貞暁の前に滑り込んだ。


「落ち着いてくだされ。定家様が怪我をされては元も甲もありません」

「これはすまない。性分でな」


苦笑いを浮かべる定家様だが、足元は未だ震えている。


「因子様の元へ」

「やはり悪鬼に取り付かれておるのか?」


娘の手を握ってなおも落ち着きのない定家様は父親の顔をしている。


羨ましい…。


この感情を認めるのはつらいものだな。


貞暁はチクリとする胸の痛みを振り払うように法衣を翻した。


「瘴気をその身で育てておられたのです。一歩遅ければ、悪鬼の糧となっていた事でしょう。さすがは定家様でございます。因子様の異変にいち早く気づかれるとは…」

「助かるのか?」

「おそらくは…。気力を随分と持っていかれております。今はゆっくりと休まれるのが賢明かと…。いずれ、目を覚まされますよ」

「ありがとう。さすがは貞暁殿だ」


俺は定家様のいつものわがままだと決めつけていた。


全く、未熟者だな。

お礼を述べられると複雑だ…。


だから、因子様のお顔の血の気が戻ってくる様子を見ても安心はできても、素直に喜べない。


そもそも、肝心な事は何も分かっていないのだ。


「しかし、解せません。何が原因なのやら…」

「と申すのは?」

「先日、因子様にお目にかかった際は瘴気の気配一つしませんでしたから」


もしや、誰かの意図によってもたらされたものか?


「どなたかの恨みをかわれたと言う事は?」

「呪詛の類だと言いたいのか?」

「もしかしたらと…。悪鬼はそう言った類で生まれる場合もあります故…」


太古より公家の周りは悪疫がらみの話に事かかたない。


不審死しかり、祟りにしかり…。


大体が悪鬼の仕業だが、それらの誕生の経緯は人由来が多い。

常に権力闘争や妬み嫉みの温床化している場所だからな。


それは武士の世界でも同じであろうが…。


要は瘴気と切っても切れない縁があるのだ。


そう考えれば、定家様の信仰深さも馬鹿にはできないな。


「因子に限って。あの子は私に似てか和歌にしか興味がなく、交友関係も広くはないのだ」


和歌…。


「そうでした。因子様が意識を失う前に聞こえた歌がございました。たしか、君がむた 行かましものを 同じこと おくれてれど 良きこともなし…でしたでしょうか?」

狭野茅上娘子さののおとがみのおとめ様が詠まれた歌だな」

「どなたでしょう?」

「奈良時代におられた斎宮の侍女だ」


およそ500年前か…。


「左遷された夫と共に旅立たなかった後悔や寂しさなどがこめられている良い歌だ。万葉集にも記されておるぞ」

「さようですか…」


後悔か…。


そういう類の気持ちは時として瘴気を寄せ付けやすくなる。


あの時、聞いた歌はおそらく、因子様のお心を現した物のはず。

何せ、そのお声は彼女のものであったからだ。

故に瘴気をため込む事態になったのか?


「ちなみにいつから因子様はあのようなご様子で?」

「先日、貞暁殿が来られた日の夜からだろうな。いや、その次の日の朝だったか…。そうだ。忘れていた。昌家まさいえ様の所の一ノ姫様に不幸があったのだ。それからだな」

「昌家様ですか?」

「ああ、やっと大納言への昇進の話が出たばかりだというのに。お労しい」


なら、朝廷の中心におられる方か。

そう言えば、定家殿も公卿くぎょうの列に並んでおられたはず。


と言う事はどちらも天皇のお傍近くでお仕えされている方じゃないか!


定家様が高貴な方だって事、忘れていた。


粗相とかしたら、大変な事態じゃ…。

はあ…。俺ってわりとアホか?

今更感がぬぐえねぇよ。

ああ、急に動悸が…。


「貞暁殿?いかがした?」

「いえ、なんでもありません。因子様は昌家様の一ノ姫様と親しかったのですか?」

「それはもう…。浪子様とは昔からの仲なのだ。あの日も一緒に遊びに行っていた」


浪子様か…。


あの時、因子様がお会いすると言っていた方だな。

そうか。ご不幸が…。


「ご病気か何かで?」

「わからん。因子と出かけたその夜にお隠れになったと聞く。まさか、浪子様にも悪鬼が!だとすると因子も隠れてしまうのか?一大事じゃ!貞暁殿。この件が解決するまで屋敷にいてくだされ。絶対ですぞ!」


相変わらず、圧が凄い。


「心配なされますな。私の鬼言が効いたようですから、因子様がお隠れになるのは先になるかと…」

「されど絶対ではあるまい。そうであろう?」


聞く耳を持ってくれる気はなさそうだな。


やれやれ、どうしたものか。


定家様のうるおいのある瞳が突き刺さってくる。


妙に痛いのはなぜだ?


「……はい」


結局、定家様の申し出を断る勇気が出ずに、思わずうなづいてしまったのであった。

これで、高野山へ行くのがまた遠のく。

しかし、浪子様のお隠れといい、何か嫌な予感がする。


「昌家様の屋敷はどちらで?」

「二条大路の辺りだ。訪ねるのか?」


因子様に悪鬼が育っていたのなら、浪子様も、もしや…?

屋敷に何か手がかりがあれば良いのだがな。


「それならば、今から、私も行こうではないか」

「いえ。それは私一人で十分かと。定家様は因子様のお傍についていて差し上げてください。目を覚まされた時、やはり、お父上がお傍におられる方が安心なさるでしょうから」

「そっそうか…。貞暁殿がそう言うなら」


貞暁は定家を残して屋敷を後にしたのであった。


そこまではよかったのだが…。


「武丸様!やはり、俺は天が味方してくれている」


飯屋に羽交い絞めされている叔父…義宗と視線が合わさった。


またか…。


今回は無視しよう。


「武丸様!俺と鎌倉殿になろうぜ」


前言撤回、コイツの口は塞がなければ!

はあ、この道さえ選ばなきゃ、鉢合わせせずに済んだのに!

天は俺に何の恨みがあるんだよ!

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