悪鬼を前にして、どう対処するか長く考えている暇はないらしい。
この瞬間も鋭い牙は貞暁を狙っている。
鬼言をつぶやけないなら…。
そうだ!
貞暁は懐から法具たる念珠を取り出した。
数十個に並ぶ真っ黒な珠の中には奇怪な模様が掘られている。
悪鬼は貞暁に勢いよく飛び掛かった。
それと同時に念珠を悪鬼の胴体に巻き付ける。
苦しそうに、のたうち回る悪鬼に引っ張られて、貞暁の体は一瞬宙を舞った。
おっと、もしかして、これ死ぬやつかも?
貞暁の意識が遠のいていく。
しかし、その瞬間、
「ぎやああっ!」
悪鬼は悲鳴をあげ、砂へと姿を変えていく。
上手く行ったか…。
小さな物でよかった。
鬼言とは心を持たぬ悪鬼が紡ぐ音を言語に当てはめたもの。
そして、俺が念珠に練り込まれたのは鬼言を形として表したものだ。
だから、音として表現せずともこの念珠は奴らを倒す武器にもなりえる。
夜な夜な珠に鬼言を刻んだ日々を思い出すのであった。
何事も準備が大切ということだな。
うんうん。真面目な性格で得した。
貞暁は自らを褒めつつ、一人で納得してみせた。
空しく感じるのはきっと気のせいだ。
それにしても、京の町中に悪鬼が出現する事など以前はほとんどなかったのにな。
定家様がおっしゃったとおり、陰陽師の全盛期が過ぎて程なく100年だ。
この不安定なご時世を思えば、悪鬼が活発になるのも当然か。
はあ…、陰陽師が処理してくれていた頃に生まれたかった。
いや、そうなっていたら、俺、滅せられていたかも?
視えぬ世界の番人たる彼らが鬼言を操る俺を見逃すとは思えない。
何より、厄介なのはこの体の周囲に纏わりつく鬼力を隠せない点だ。
正直、さっきまで存在していたであろう悪鬼と俺と何が違うのか説明できないよな。
分かっているのはこの瞬間、人のざわめきが戻った事だけである。
しかし陰陽師と顔を合わせたくないという思いとは裏腹に、視える者を根こそぎ鎌倉に呼び寄せた実朝に恨みの一つは言いたくなった。
ほぼ全員、幕府で囲わなくたっていいものを…。
朝廷がこの事態を許している事も解せない。
陰陽師がごっそり、京を離れたせいで、結界に綻びが出ているというのに…!
ある意味、平和ボケしていたせいか?
よくも悪くも安倍晴明が優秀すぎたせいだ。
そのせいで、皆忘れてしまったのだ。
闇は簡単に生まれるという事を…。
そのせいで俺の悪鬼との遭遇率が爆上がりしているのだ!
迷惑すぎる!
むしろ、俺が悪鬼を倒す義理はないのかも?
いや、あるのか?
鬼力を纏うせいで奴らを引き寄せやすいからな。
人の身で魔の者達と同種の力を有するのは稀だ。
そして、奴らが俺を喰らえば、力が増すらしい。
だから、遭遇すれば倒すしかない。
この身を守るために…。
ただでさえ、呪詛をかけられたと言ってもいい状態で生まれたというのに!
さらに悪鬼から狙われるとかひどすぎるだろ!
本当に恨むぞ!
頼朝!
仮にも父親に対する言動ではないが、捨てられたも同然なので悪態ぐらい許されるはずだ。
しかし、悪鬼も鬼力由来の力で滅せられるのだから皮肉と呼ぶしかないだろうな。
だが、貞暁が小物の悪鬼を処理したところで不穏な空気が収まる気配はなかった。
この胸騒ぎはなんなんだ?
瘴気に強い体といえど、強まっていく負の気にあたり続けるのはしんどいんだぞ。
こうなったら、いっそのこと…。
悪鬼の少ない地に向かうか?
例えば高野山とか?
あそこはその地帯すべてが神聖な気に満ちている。
悪鬼の発生もほとんどないはずだ。
それがいい。どうして、今まで気づかなかったのか!
よし!帰ったら師匠に話してみよう。
やっと、気持ちを切り替えられたと思ったのだが…。
「どいた!どいた!」
露店の間を無造作にかき分けて、髪を乱しながら走ってくる男が迫ってきていた。
悪鬼か?
一瞬、そんな考えがよぎり、身を構えるがどうやら、生身の人間である。
そして、その後ろからは京の人々が数名。服装からすると、飯屋の主か。
「こら!銭を払え!」
なるほど、食い逃げか。
「仕方ねえだろ。銭、持ってねえんだから!」
貞暁はぶつからないように法衣を翻すが、思っていた以上に男の足が速く、ぶつかってしまう。
一瞬、目の前に弓矢を背負う武人の姿を捉えるがすぐに消え去った。
今のはなんだ?
飯屋の主たちは尻餅をついた男を羽交い絞めにした。
屈強な奴らだ。商売人は強いな。
呑気に感心してしまう。
「役人に突き出してやるぞ!」
「勘弁してくれよ。俺には大事な使命が…」
暴れる男は数人の飯屋たちの体を吹き飛ばした。
なんて、怪力の持ち主だ。
成り行きを見守っていた貞暁はどうしたものかと悩む。
さらに男の周りを浮遊していた瘴気が一瞬のうちに弾け飛んだのに驚いた。
精神力が強いのか?
たまにいるんだよな。生まれながらの性質が陽ゆえなのか浄化能力を持つ者が…。
しかし、これは…霊力か?
身なりからすると、落ち武者のようだが…何者だ?
かなり、遠くから逃げてきたのだろう。
髪も髭も長く伸び放題で、着物もほとんど意味をなしていない。
最近はこの手の者が多くなった。かくゆう、鎌倉でも一波乱あったと聞く。
本当に悪鬼が出現するのも致し方がないと思うほどに…。
見知らぬ男であるが、少しの救いぐらいあればいい願いたくなった。
「お待ちください。その者もはるばる京まで来た身。今回は私が払うとしますよ」
「おお~。仏様のお恵みじゃ…。感謝いたしますぞ。お前も何か言え」
「いや~。助かったぜ」
軽い…。
呆れた様子の飯屋の主達だが、銭をいくらか受け取ると男を睨みつけながら、去っていった。
「感謝するぜ」
思っていたよりも元気そうだな。
「これも何かの縁でしょうから。私は勝宝院の貞暁。お見知りおきを…」
「何!貞暁殿!やっと見つけた…俺は天に味方されてる!よっしゃあっ!」
男は太い指で貞暁の両手の強く握りしめた。
痛い…。
「この日をどれだけ待ちわびた事か。俺…じゃなかった。私は伊達
「はあ?」
確かに伊達と言えば、母上の実家の名であるが…。
義宗殿か?そんな兄弟がいたと聞いたような、でも違ったような?
母上が俺を産むというややこしい事態を引き起こしたとはいえ、伊達家の面々はまだ鎌倉で御家人として幕府に仕えているはずである。
京の都にいるわけが…。
「貞暁殿…いや、武丸様!」
幼名をここで言うなよ。
呼ばれなさすぎて最近では全く、馴染まないんだから。
だが、その後の言葉に比べればまだマシであった。
「我が一族の悲願のため、鎌倉殿になってくれ…」
真剣な面持ちで告げる叔父こと義宗を前にして再び、気が遠くなるのであった。