時は
「ですから、私はまだ修行の身ゆえ…」
「そこを何とか。そなたが祈祷してくださらねば私は死んでしまうぞ!」
大の大人が大層すぎる。
目の前で泣きわめく男は仮にも藤原道長の血筋に連なる由緒ある公家の御仁だ。
さらに言えば、この立派な屋敷の主である。客たるはずの
勘弁してくれよ。
その男、藤原
かたや俺はというと20を迎えた修行僧でしかない。
しかし、この間にも貞暁が持つたった一つの法衣の裾を掴み逃がさないとばかりの定家にどちらが子供か分からないとため息をつきたくなった。
「正直、腰が痛みだしたという度に呼び出されるのは困ります。そう言うのは薬師に頼むのが筋かと…」
「違うぞ。これは絶対、瘴気のせいであろう。でなければ、この尋常ではない腰の痛みは説明できないではないか!もう、歩けぬ!」
俺を修行場に呼びにいらした時は、活き活きと歩いてらしたではないか!
その足取りも心持ち軽かった。
大げさすぎやしないか?
それに瘴気による弊害ならばこの目に映る。
「以前にもお話いたしましたでしょう。瘴気は陰湿な物や場所を好むのです。定家殿のお屋敷は日当たりもよろしいですし、私が毎回のように経を唱えております。ですから、ご安心くだされ」
「だが、瘴気は命ある者ならば、誰とて少なからず身にまとうものだと言ったではないか?しかも、瘴気は異形たる
悪疫――
人の身ではけして、避けられぬ災厄や死、常人には想像もつかない見えぬ恐怖を総称して呼ばれる現象だ。古来よりその原因は摩訶不思議な妖のせいだと語られてきた。確かにこの世には人とは異なる者たちが隠れ住んでいる。ほとんどが無害であるが、中には悪意を持って、人に害を成す者達がいる。ある陰陽師はそれらを悪鬼と呼んだのは随分昔の事だ。奴らは様々な姿を持って瘴気を振りまき、不幸の種をまき散らす。
「悪鬼など早々、お目にかかりませんよ。奴らの多くは
「100年も前の話をするではないわ!きっと、隠れていた悪鬼どもが姿を見せ始めたのだ!わしの目に狂いはない。それに妖どもは人に化ける。この目で視たのだ」
「定家様は視える方でしたか?」
「いいや。妖には縁がない」
今、視えるって言ったよな?
言葉と態度が一致してない。
全く、この人は…。
公家の方々は皆、こうなのか?
そもそも、妖は無害な人々だ。
悪鬼と一緒にされるのは可愛そうな気がするのだが…。
「じゃあ、誰かがこの身を呪っておるのだ!さあ、瘴気がついていると認めてくだされ!」
圧が強い!
「えっ…まあ」
「そうであろう!やはりだ」
勢いにおされて、認めちまった。
確かに定家様の腰辺りにうっすらと黒い靄がかかっている。
瘴気であるのは間違いない。
されど、それは微量で何もしなくても一日ほど経てば収まるはずだ。
大体、瘴気は人からも発せられるのだ。
怒りや嫉み、悲しみなどの負の感情を糧として生まれる。
このご時世なら、どこに行ったって空気中を漂っている。
しかし、健康な者ならば、瘴気を発しようが寄せ付ける事になったとしても体調改善や心持ちなどで無害な物へと作り変えられる。
「疲れたら休み、趣味を楽しむのが瘴気への一番の対処法と申します。定家様ならばお好きな和歌を詠むのがよろしいのでは?」
「だが、だがな。私達の仲ではないか?」
どんな仲だよ。
道端に倒れていた定家様を快方したのがきっかけなだけの縁だ。
さらに行き倒れ状態になったのは定家様の不摂生が原因である。
和歌を読み漁りすぎて、三日以上何も飲み食いせずに過ごしていれば倒れるは当然の事だ。
そんな定家様を屋敷に送り届け、粥を作り、食べさせ、眠りにつかせたたのがこの茶番の始まりであった。熱を下げるために纏わりついていた瘴気を祓ってからというもの、体の調子が悪くなったと言っては貞暁を呼びつけるのだ。
僧名は伝えなかったはずだよな?
一体どうやって
やはり御所に出入りするお方は独自の情報網がおありなのか?
最も厄介なのは貞暁の師が定家を温かく迎え入れる事だ。
「お前の立場上。定家殿と仲良くして損はあるまい」
他人事だと思って…!
俺は静かに暮らしたいんだよ。
周囲の態度と自身の心の有り様との差にため息をつきたくなる。
「それほどつらいとおっしゃるなら、それこそ陰陽師に頼めばよろしいかと?」
そもそも、この手の悪しき物への対処は彼らの役目のはずである。
俺のようなまがい物がやる仕事ではない。
「何を言うか。京にいた目ぼしい陰陽師は皆、鎌倉に取られてしまったではないか!やれやれ、今や公家より武士の方が頼りになると言われる始末で、御所は大荒れだ。貞暁殿、そなたも鎌倉に通じる者ならば、この所業の後始末をしてくだされ」
本当にその情報どこで仕入れたんだよ!
いや、それだけこの身に流れる血が貴重と言う事か。
別に出自を隠してるわけでもないからな。
もはや、おぼろげな父上の顔がよぎった。
「武丸。それがそなたの名だ」
天下人である父上の威厳に満ちた声が一瞬のうちに通り抜けていく。
鎌倉幕府を開いた偉大な武士。源頼朝。それが貞暁の父親なのである。
ただし、母上は正室たる北条政子様ではない。
数多いる侍女の一人。父上いわく美しく可憐な人だったらしい。
息子たる俺にはそうは思えなかったが…。
とにかく頼朝様は母に手を付けたのだ。二人に愛はあったのだと信じたい。
それは息子ゆえの願いでしかない。そして、確かめる術も、もはや持ち合わせてはいない。
分かっているのは幕府内で権力の拡大を狙う北条家がこの事実を許すわけがなく、母上と俺は何度となく命を狙われるはめになったという事だけだ。
頼朝が存命だった頃ですら、各地を転々としたのだ。
今となっては鎌倉の景色すらほとんど思い出せない。
つまり、かの地になんの愛着もないのである。
今は異母兄である実朝が将軍として立派にまとめ上げていると聞き及んでいる。
暗殺の脅威も過去になりつつあるのかもしれない。
こうして、生きているのがその証拠だ。
今更、波風など立てる必要はない。
ただでさえ、厄介な物を抱えているのだから。
それでも幕府の名を出されると弱い。
「分かりました」
もう、定家様に言い返すのも馬鹿馬鹿しく思えてくる。
貞暁は静かに両手を合わせて、唇を震わせた。
荘厳な雰囲気に包まれる空間とは裏腹に貞暁の心には燃え滾る炎が見えていた。
魔を燃やし尽くすような荒々しい赤が広がる感覚。
せり上がる鼓動に貞暁は静まるように念を込める。
瘴気を始めとした負の気と対峙する時はいつもこうなる。
微量であってもだ。
静かに音を閉じると笑みを称えた定家様と視線が合わさった。
「ようなった。ようなったぞ。さすがは貞暁殿だ。天下一の僧侶であらせられるな」
定家様も分かりやすい方だ。
それっぽい事をするだけで、機嫌を直してくださるのだから…。
「やめてくだされ。これは僧侶が学ぶ念仏の技ではないのです」
「知っている。
そんな高貴な物ではない。
この身が使えるのは仏が示した真言と…。
悪鬼に由来する鬼言だけだ。
悪しき物を倒す陰陽師がこの場にいたならば、おそらく俺も悪鬼として消されるかもしれない。
そのことも、定家様には以前、お話したはずなのだな…。
この人、絶対忘れている。
呑気な方だ。
当事者たるこの俺は瘴気と…悪鬼に好かれるこの身を鬱陶しく思っているというのに…。
頼朝の子として生まれたことも、人ならざる者が視える目も何もかも運命として受け入れるしかないのか?
さらにこの時、鎌倉から不穏を告げる使者の訪れが迫っている事を知る由はなく、己の人生を不思議がるしかない貞暁であった。