私は、日曜日の早朝から公園に佇んでいた。
というよりも、突っ立っていた。
何が悲しくてこんな事をしておるのかというと、まあ、別に悲しくはないのだが、あの
あれは昨夜の事だった。重要な話があるんだ吉次郎。明日の朝に会えないか。と、暑苦しい文面でそのようなメッセージを送り付けられ、本日、私はあくびを噛み殺しながら待ち合わせに指定されたこの公園に来たのである。
健さんは未だに来ておらず、現在時刻は八時五十二分。ちなみに建さんが指定してきた時刻は八時半である。私がここに到着したのは八時二十分。簡単な算数を行なうと、もう三十二分ほど待たされていた。
私は周囲を見回した。
ほとんどの遊具が危険だからと撤去されてしまっている今の時代。
狭い公園だとは言っても広々として見えるが、その広々とした風景がどこか寂しい。家族連れや子供の姿も見えず、ただ、ボケッと突っ立っているは私だけ。世界の異変とは、空から
しかしあのおっさんは何をしているのであろうか。
人を朝っぱらから呼び出しておいて、三十分以上待たせるとは何事か。もう九時になるぞ。
「吉次郎!」
私を呼び捨てる声に顔を上げると、相変わらずのサングラスを掛けた健さんがやっと登場した。フレンドリーに右手を上げてひらひらさせながらこちらに歩んでくるが、私は正直機嫌が悪かった。
「おはよっさんです」
挨拶をして健さんの着ているティーシャツを見る。今日は白地にでかい星形のプリントがしてあった。下は前回と同じジーパンだ。
「待たせちまったな吉次郎! ナンシーが離してくれなくてな!」
ナンシーって何だよ。
わたしは、はあ、と生返事をした。
「そりゃそうと吉次郎、今日はひとつアイデアを持ってきたんだ」
「アイデアを」
「そうだアイデアだ。俺たち師弟はこれからこの狂い行く世界に対抗しなければならねぇ。そのためのとっておきのアイデアだ!」
さて。
いきなりこんな事を言われて納得の行く人間が一体何人居るのであろうか。多分、総人口の九十八パーセントは嫌な予感を覚えるのではないのだろうか。例に漏れず、私も嫌な予感が脳内でサンバを踊り始めた。サンバ隊のディテールを想像した辺りで健さんが言葉を続けた。
「特訓だよ」
「特訓」
「ああ特訓だ。吉次郎、お前の念力を実戦レベルまで鍛え上げる」
そう言う健さんの表情は恍惚としていた。
特訓。
そもそも念力を鍛えようなどと考えた事もなかった。逆にロクな事が起こりそうにないので封印したいくらいの気持ちでおり、現に大量の鰯が空から降った事を忘れはしない。
――だが。
目の前の健さんは、それを鍛えると言う。
鍛えるとどうなるか。それは未知の世界である。
私は問うてみた。
「あのう、具体的に、実戦レベルとはどのくらいを想定しておられるので――?」
健さんが唇をきつく結んだ。そして私の目を見る。
私は健さんのサングラス越しに目を見る。そして黙る。
沈黙が場を支配した。初夏なのに木枯らしがヒューっと吹いた気がした。
「――ふっ」
健さんは、多分自分ではニヒルなつもりなのであろう表情で静かに笑った。
「実戦と言ったら実戦だ。心配は要らねぇよ。地獄の訓練を終えたお前は究極の戦士になる」
返事をしているようでいて、その実、何も答えていないような事を言うと、健さんは「では早速」と何らかを切り出した。
「吉次郎、お前の念力の程度を知りてぇ」
「程度とは言っても――」そして私は怖々と右手を差し出し、ひょいっ、と唸った。地面の上で軽く砂が舞った。「この程度ですね」
うーん、と唸った健さんは腕を組む。
「その力は物体を動かせるだけなのか」
「はい。座ったまま冷蔵庫からビールを取り出したり、箒を操って掃除させたり」
物質を具現化させられるとか、御守りと組み合わせると凄まじい事になって鰯の雨を止められたとか、そういう事は黙っておいた。それはまだ言ってはならない事だと思っている。というかこの健さんなるおっさんが怪しいので。
「吉次郎吉次郎吉次郎吉次郎」
「はあ」
「物を触れずに動かせるのはすげぇ事だ。だがな吉次郎。その力にはもっと先があると俺は睨んでいる」
「もっと先――と言われましても」
「実は先日な、予知夢で見たんだ。俺とお前の前に立ちはだかるデケェ影をな」
「はあ」
「だがな、その影は決して敵意を持っちゃいねぇんだ。公平、かつ超越してるんだよ。ああいうのを神格と言うんだろうな。そして俺らの能力はあのデケェ影の導きじゃねえかと思うんだ」
「私の念力とあなたの予知夢が」
「お前、何かきっかけになる出来事は無かったか?」
そこで、眠たかった私の脳内に電撃が走り、脳みそが自由闊達に回転を始めた。
きっかけと言うと、それはもうあれだ――駅チカのビルの大型ビジョンで踊っていたアフリカ系男性、ゴッド・ラ・ムウ。あれしかあるまい。その後、謎の寺社で御守りを買ってしまった事も。
あの存在は何回私の前に立ちはだかってくるのだろうか。そんな思いを胸に、健さんにそこら辺の事情を真面目に説明してみた。
「ほぉん」
真面目に説明したのに、ほぉん、の一言で済まされ正直むかついたが、顎に手をやり何かを考える健さんを眺めたまま、私は黙っていた。
「吉次郎」
「はあ」
「お前、やっぱ特訓すべきだよ。多分だが俺の予知夢に出てきた超越的存在もそのゴッド・ラ・ムウだと思うのよ。もしかして、あの存在は俺たちに何かを伝え、そして次のステージに導こうとしてるんじゃねぇのか?」
急にカルトな事を言われ、私は返事ができないでいた。
「だからさ、さっさとやっちまおうぜ、特訓」
「特訓と言われましても何を――」
「吉次郎、お前とりあえず空を飛べるようになれ」
私は黙って健さんの目を見た。冗談と本気の区別が付かなかったためである。
「空を」
「ああ。超越的存在というのは大体天空に居ると相場が決まっている。だからお前、空を飛んでちょっくらゴッド・ラ・ムウに真意をうかがってこい」
「ほんで、どうすれば空を飛べるようになるので?」
「吉次郎、お前ちょっと腰を落として構えてみろ」
はあ、と、私はまた生返事をしてへっぴり腰のような姿勢になった
「そして両腕を上げてみろ」
両腕を上げたわたしは特撮プロダクションのヒーローが宇宙に帰る時のようなポーズになった。
「じゃあ飛べ」
おっさん、「じゃあ飛べ」じゃないんだわ。
人間が空を飛ぶ理屈を煮詰め、研究し、実践できる過程を経て、反復練習などを行なうのが「特訓」なのであって、この健さんが今抜かしくさっているのはただの放言でしかない。「じゃあ飛べ」って、このポーズからどうすれば良いんだよ。念力を臀部にでも集中させれば良いのか。
「吉次郎。ケツに念力を集中させてみろ」
腕を組みながら健さんが言った。
「いやあ」私は間抜けなポーズを取ったまま首から上だけを健さんの方に向けた。「無理があろうと思われますが」
「やってみなきゃ分からねぇだろ。この狂った世界に立ち向かうには俺たちも狂うしかねぇンだ」
もう帰ろうかと思った。
臀部に念力を集中って言ったってなあ。
はあ――。
溜め息を吐いたその時。
少しだけ私の身体が――浮いた。
「おおおっ!?」
健さんが頓狂な声を上げ、驚いた。
私は、おっ、おっ、と言いながら地面から一センチほど浮いてゆらゆらする自分の身体を持て余していた。深酒して一人で笑ってる時みたいな感覚で、世界が揺れてキショい事この上ない。
「吉次郎! もう少し
ふん、と鼻息を荒くした。すると世界が余計に揺れた。地面から浮いた私の身体がブレまくっているのである。
「吉次郎! ここが踏ん張りどころだ! お前の念力を! 生命を! 全存在を今、賭けてみろ!」
勝手な事を抜かしている健さんを尻目に私はもう少し念力に意識を向けてみた。ふーん、ふん! と自然に鼻の穴が広がった。
身体のブレが激しくなった。というかバイブレーションを起こしていた。
「あっおっおっおっ!」
バイブ中の私を見ている健さんが、キショい声を出して興奮している。
「ふん!」
ここで一発、気合いを入れて念じてみた。
このバイブレーションをもっと激しくしたらどうなるか。念力の行き着く先はどこなのか。多少の知的好奇心を持って、子供の悪ふざけのようなノリでそう考えた。だがそれはそうと視界がブレまくっていた。当然である。私が物凄い勢いでブレているのだから。
頭が痺れてきた。
全身がふるふるしてきた。
気分はロックンロールだった。
「アへ」
思わず私は声を漏らした。
――その時。
脳内に、あの筋骨隆々たる謎の踊るアフリカ系男性――ゴッド・ラ・ムウのビジョンが浮かんだ。両脇にこれまた踊るブロンド美女を従わせ、とても澄んだ瞳で私を、否。私の中の全存在を見つめていた。
ゴッド・ラ・ムウ。
あなたは一体、私に何を求めているのか。
私は激しくバイブレーションしながらゴッド・ラ・ムウに問い掛けた。
返事は無い。
その代わり興奮した健さんの大声が聞こえてきた。
「今なら飛べるぞ吉次郎! 飛べ! 叫べ! 太陽に向かえ! 吠えろ!」
うるせえ。
頭の芯が痺れてきた。自由闊達な脳みそが急激に回転しているのが分かる。
そして、脳内に七光りが刺し、虹色の雲を縫って飛んで行くアホウドリの幻影が見えた。
「うおおおおお!」
私と健さんが同時に叫ぶ。
――刹那。
視界が暗転し、続いて異次元の色彩を放った。
私はよく分からない空間を泳いでいた。
健さんと公園を背に、私は何処かへ――いや何時かの時間へと飛び立った。
あっ、これ知ってるぞ。アニメとか漫画でよく見る『タイムスリップ』だわ。
そんな事を思いながら私は流され、アへ、と笑った。笑うしかやる事がないのだ。
そして世界は暗転する。
続いて背中に衝撃を味わう。
ん?
痛い痛い。私はどこかに落下したのだろうか。目を開くと青空が広がっている。
ガバリと上半身を起こす。
ここ、何処だよ。
周囲にはのどかな田園風景が広がっていた。
私は、何処かへとテレポートしてしまったのだ。