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第五話『吉次郎に念力』

 困った。


 困っていると言えば年がら年中困っているのだが、今回ばかりは金や体調の事で困っているのではない。この前、部屋の除霊はしてもらったし、仕事はぼちぼちとこなしている。


 そうではない。


 今回は困り事のレイヤーが異なるのだ。


 やや上層的と言うか、ハイレベル? そんな困り事に直面している。


 世界の異変もこの困り事の一端を担っているのだろうが、何せ私の人生でもこんな事態は初めてなので、いくら脳みそを自由闊達に回転させてみても解決法の糸口すら見つからないし、ネットで検索してみても胡散臭いカストリ染みた記事しか引っ掛からない。


 困った。


「困った」と連呼するばかりでは何も解決しない上、下手をすると自己洗脳、自家中毒に陥ってより困ってしまう。


 ――しかしながら。


「ふんっ」


 私は唸った。


 冷蔵庫のドアがガタンと開いた。


「むうっ」


 続けて唸る。麦茶の入ったペットボトルがスゥ~ッと冷蔵庫から出てきて、私の座する丸テーブルまでふわふわと飛来し、着地した。


 私はそれを掴むとキャップを開け、喉を潤した。


 御覧の有様である。


 そして私は窓に向かい手を翳かざすと、「はいぃ」と唸った。


 カーテンが開き、日光が部屋に差し込む。


 まあ、見ての通りである。


 私はついに物理法則を越えてしまったのだ。


 これを仮に『念力』とでも名付けようか。今のところはこのように念力を駆使してもデメリットは感じないが、しかし、物理法則を無視し続けていると何らかの反動が起こらんとも限らないし、何よりも気持ち悪い。何である日起床したら超能力使いになっておるのだ。


 多分に世界の異変も関わっているのだろうし、あのゴッド・ラ・ムウの為せるわざなのかもしれない。よく分からないが、とにかく私は今、この阿呆みたいな力をもて余しているし、ゲンナリとしている。


 まず私のような一介のフリーターになぜ念力などが目覚めたのか。思い当たる節は、まあ無い事もないが、それとて変な御守りだとか、番場猪之吉氏の脅し文句めいた忠告だとか、先日狂人に殺されかけた事くらいである。


 念力。


 多くの余人はこれを欲しがってやまないのだろう。だが、実際に物を動かせるようになってみると何かキショくて仕方がない。物が浮く。箒が勝手に掃除をする。リモコンを触らずに電灯をつけられる。便利っちゃあ便利だが、キショいという感情が先立ち過ぎて、それが便利さを上回っているのだ。そして私は清く貧しく美しく生きる事を旨としているので、悪用しようなどとは考えない。悪用したらしたでまた祟りだの世界の異変だので私に災厄が降りかかるんでしょう? 分かっているよ。


 先日、酒を少し控えようと決意した事も関係あるのかもしれない。そこであの犬を思い出す。元気に生きているといいが。


「ほいっ」


 私は唸ると、麦茶のペットボトルをふわふわ浮かせて冷蔵庫に戻した。横着である。横着を繰り返すとどうなるか? 怠惰が人生を支配し、味気が無くなるのである。これはいかん。良くない。凶兆が私の中でカァと鳴いた。


 よって、私は以降、この念力を封印しようと思う。


 念力に頼らず、人力で己が人生を全うするのだ。私は決意した。そして立ち上がる。


 立ち上がったは良いのだが、特にやる事も無いので伸びをした。肩を動かしコリを取る。そしてまた座ってあぐらをかいた。


 無為である。


 無策である。


 唐突に念力を得た人間はここまで無為無策に嘆かねばならぬのか。


「ひょいっ」


 私は唸って念力でテレビを点けた。


 先程、念力を封印すると決意したばかりだが、決意。それはかくも脆いものである。というかそろそろ手慣れてしまって、意識しないと人力で何らかを行なう事が難しくなってきている。


 テレビでは野球のニュースをやっていた。期待の若手がホームランを打ち、打者の中の打者、キング・オブ・打者として何らかにノミネートされたらしい。そして満面の笑みでインタビューに答えている。こいつがいきなり「スイーツは甘々だからとろけちゃうんですよ」とか言ったら面白いのになぁ。


「スイーツは甘々だからとろけちゃうんですよ」


 私は自分の視覚と聴覚を疑った。


 テレビの中の野球選手が私の念じた通りの事を喋ったのだ。


 インタビュアーは少し黙って、「は?」と素で言った。


 野球選手は自分の口を手で押さえ、「え、僕は今何と?」と動揺した。


 私は開いた口が塞がらなかった。


 私は頭の中で念じた。そしたらば野球選手がその通りの事を喋った。


 これは由々しき事態である。


 テレビの向こうの、私がスッポンだとしたら月くらい有名人のスポーツ選手が、私の念じた通りの事を喋ったのだ。これはつまり、相手の知名度に関わらず、念力で相手を自在に操れるという事であり、今回はたまたま無害? なスポーツ選手であったから良かったようなものの、例えば緊張走る会見の場で一国の首相などに「ファッキューメーン」などと言わせてみて御覧なさい。多分とんでもない事態になる。下手したら戦争が起こるんじゃないのかな。


 兎角、私は震えた。


 思えば、チンケな人生だった。


 普通のレール、いやさ普通のレールとは何だという話だが、ひたすらそれに乗り続けるために足掻き、酒を覚えて大学を中退し、実家を飛び出し都会ここに越してきてフリーターを始めた。私自身は満足しているのだが、時々脳内の何者かは満足しておらぬような気配を感じていた。そしてゴッド・ラ・ムウとの邂逅や狂人に殺されかけるなど稀有な体験をし、挙句、念力使いとなってしまった。こんなもんが世間様にバレたら良くて珍獣扱いか、悪くて国家に拉致されそうである。


「あぁーもぅ!」


 声に出して唸ると、床の上で仰向けに寝転んだ。


 この能力は危険過ぎる。よって封印すべきである。ごく簡単な理屈だが、封印の仕方が分からんから困っている。とりゃっ、ほら今度は枕がふわふわと飛んできた。それを頭の下に敷く。そして天井をば眺める。何でこんな事になってしまったんだ。


 世界が静かだ。静寂。それは己のこころと向き合う時間でもある。


 私は目を閉じると、静寂に身を委ね、自分のこころに――。


 ヴヴヴヴヴヴヴヴ!


 スマホが物凄い勢いで振動し、鳴り始めた。


 何ぞ何ぞと上半身を起こし、スマホを手に取る。画面には、『緊急警報』と表示されていた。


 緊急警報? 何の? と思って画面をタップした。


「空から無数のいわしが降ってくるでしょう。警戒地域の方は備えて下さい」


 そんな文字列が太字のフォントで表示されていた。


 鰯。


 しばらく食べていないが、はあ、それが空から降ってくる。だから警戒地域指定されているうちらも備えろと。


 ふざけとんのか。


 無性に腹が立ってきた。


 世界の異変もここまで進行すると異常である。常とは異なっている。空から無数の鰯が降ってくるでしょう。じゃないんだわ。備えろったってどうするんだよ。地引き網でも持って立っておけばいいのか。


 もう、うちに引っ込んでおく事にした。しょうもない上に身体から力が抜けている。脱力は消力へと転じ、私は再び床の上で仰向けになった。


 鰯でもぶりでも勝手に降ればいいのである。大漁大漁。そしたらば、スーパーの鮮魚コーナーには鰯が並び、価格も安くなるだろう。鰯をツマミに日本酒をるのも乙かもしれない。ああ。先日あの犬と別れて以来酒を控えていたが、飲みたくなってきた。でも買いに行くのも面倒臭い。空から鰯が降るらしいし。いきなりテーブルの上に徳利とっくりと鰯の酢じめでも並んでいれば最高なんだが。


 ごとり。


 テーブルの上で何か音がした。


 嫌な予感がした。


 私は恐る恐る、腹筋を嗜むボディビルダーのようにゆっくりと上半身を起こした。


 ――そこには。


 徳利と、皿に乗った鰯の酢じめが並んでいた。


 私はしばし、真顔でそれらを眺めた。


 確かに今、私は鰯の酢じめで日本酒を飲りたいと願った。願うという事は念じる事に願望をコンバートする行為・思考である。そして、私は現在、念じると、それが現実になる怪能力に悩まされている。


 しかし。


 それはあくまで手で触れず物を動かせたり、ちょっと飛躍してテレビの向こうの人間に何らかを喋らせたりできる程度の、イタズラとも言える可愛らしい範疇の能力であったはずだ。


 ――なのに。


 これは駄目だろう。いくら何でもダメダメ。だって、念じたら念じた物が出てくるって明らかに逸脱しすぎであるし、もし、いや、念じない、念じないけれども、私がもし「札束が欲しい」と念じたら――どうなるのか。そして、その札束は、どこから来たものなのか。


 想像するだけで背筋が震えた。


 念力、何でパワーアップしていってるんだよ。


 私は恐る恐る、徳利の中の匂いを嗅いだ。麗しく高価そうな日本酒の匂いがする。これは甘口かな。そして鰯の酢じめを見た。こちらからは食欲を刺激する酸っぱいフレーバーが放たれている。


 お腹がグゥと鳴った。


 私は「みゃーん」と唸った。


 食器棚が勝手に開き、中からふわふわと割り箸が飛んできた。


 それをキャッチすると、私は「ちょっとだけ。ちょっとだけだから」と自分に言い訳をし、鰯の酢じめを一口食べた。


 頭が爆発し、喉から胃の腑にかけて黄金郷エルドラドが築かれた。


 美味い。こんな美味い魚料理は初めて食べた。


 続いて、徳利をちょいと持ち、口を付ける。


 頭がもげ、喉から胃の腑にかけて理想郷ユートピアが花開いた。


 美味い。こんな美味い酒はそこらのリカーショップで数万円はするものだろう。


 夢中になって、しかし丁寧に私は飲み食いした。


「ごっつぉさん」


 箸を置くと、多幸感に満ち満ちていた。


 お腹の幸せを撫でつつ、はにゃーっと表情が緩む――緩んだその時。


 私の自由闊達な脳みそが猛回転を始めた。


 これは危険を報せる回転だ。


 何が危険なのか? 私は脳内の人称に訊ねた。


 私は念じると何でも叶える事ができる。美味い酒とツマミだって念じたら出てきた。つまり、つまりだ。


 もう働く必要がない。


 そう。私は飲み食いしながら、薄らぼんやりとそんな事を考えていたらしい。それに対して脳みそが猛抗議をしてきたのだ。


 あかん、それはあかん! と。それを行なうと堕落と退廃の一方である。と。


 私は驚愕した。


 無意識下に、私は地獄への第一歩を踏み出そうとしていたのだ。


 頭をトンカチで殴り付けられたような衝撃を受けた。


 或いは凍ったシメサバでフルスイングされたような衝撃を受けた。


 あ。


 シメサバで思い出したが、そう言えば鰯が降ってくる件はどうなったのであろうか。


 窓から外を見る。


 ボタボタと鰯が降っていた。


 ほんまに降り始めた。鰯が。次から次へと。


 外界では人々がウワー、或いはキャー、と言いながら駆け回っていた。それはそうだ。空から唐突に生魚が大量に降ってきて冷静に居られる訳がない。ただ、逃げ惑い、慌てるしかできないのだろう。私だってそうする。


 ――私だって。


 そこで、ハッとした。


 今しがた「私だってそうする」と考えたが、それは私が無力で自堕落で金も無いフリーターであるという事が大前提で、そんな控え目に言っても社会的弱者が、空から鰯が降ってくるという異常事態に対処できる訳がない。せいぜい道路でピチピチと跳ねる生魚を見ながらヘラヘラする事しかできないだろう。


 だが、少し待っていただきたい。


 私は現在、この身体に念力を宿しているのだ。


 願うだけで何でもできる悪魔の念力を。


 ――ならば。


 この世界の異変、空から鰯が大量に降り注いでくるという異常事態に一矢報いる事も可能なのではなかろうか。


 何せ人々は困って――まぁ、あまり困っているようにも見えないが、場合によっては鰯のせいで交通麻痺が起こったり、しなくてもいい仕事が増えたりするかもしれないので、やはり人々は困るのであろう。困っている人々を助ける事もできる。


 よっしゃ。一丁世界を救ってやるか。


 自分に気合いを入れると私は立ち上がった。


 やる事は単純。念力で空から降り注ぐ鰯を止めるだけである。


 ヒロイックな気分に酔いながら窓に近づいてヨッホヨッホと笑う。


「とりゃー」


 私は鰯よ消えろと念じながら唸った。


 外界で鰯がより一層ドカドカと降り注ぎ始めた。


「はあ!?」


 私は驚いた。何で急に逆効果になるんだよ、念力。


「止めっつってんだろ鰯」


 私は毒づいてもっと強く念じた。例えるなら競馬のゴール直前のように。例えるなら宝くじでピンポイント買いをする時のように。


 だが、鰯は止まない。


 私は疑問に思って「はわっ」と室内のさっき酢じめを食べた皿に念じた。


 皿はふわふわと浮かんだ。


 はて。念力が消えた訳ではない。


 ならば、この鰯雨に念力が効かない理由とは一体何だ。まさか私が貧乏で普段あまりにも魚を食べないからという訳でもあるまい。


 はっ!


 念力すら効かぬ強大な存在――私は、あの筋骨隆々たる踊るアフリカ系男性の姿を連想した。


 ――ゴッド・ラ・ムウ。


 まさか、この天変地異にもあの存在が関わっているのであろうか。それとも考えすぎか。


 あっ!


 私の自由闊達な脳みそはぎゅるんぎゅるんと回転を始め、そしてあるアイテムの姿をぽーんと脳内に展開した。


 あの金色のふざけたフォントが刺繍された御守り。四千円した御守り。


 ――ゴッド・ラ・ムウの御守り。


 わたしは「来い!」と念じた。


 丸テーブルの上に置いてある御守りがふわふわと飛んでくる。そして片手でそれをキャッチした。ほのかに熱く感じた。


 私はそれを握り締め、改めて外界を見る。鰯は大量に降り続けていた。


 おい。お前。四千円もしたんだからたまには役に立て。


 小市民じみた願いと共に、私は御守りを握る手に力を入れながら、念じた。


 今回は少しだけ真面目に念じた。


 もし、この異変にゴッド・ラ・ムウが関わっているなら、この御守りなる呪物を用いる事で何らかの作用があるかもしれない。まったく根拠は無いが、散々人の人生に介入してきてるんだからたまには御利益があってもいいだろ。では念じるぞ。ゴッドォ!


 手の中の御守りがカッと熱くなった。


 握ったてのひらを開くと――御守りが光っていた。


 とてもまばゆかった。


 私はそれを窓の向こうに向けてみた。光が光線となり、遠くのビルへと飛んでいった。


 あっ、あれは駅チカのデカい映像ビジョンが設置されているビルじゃん。ゴッド・ラ・ムウが踊っていた、あのビル――。


 そして光線がビルへと直撃し、その巨大な建築が光り輝いた。


 やがて、世界が光のグラデーションに包まれた。


 私は口を半分開けたままそれを見ていた。目が灼けそうだ。まぶたを閉じる。


 まぶた越しの世界の光量が元に戻るまで、大体五秒。


 私はそっと目を開く。


 空が晴れていた。当然、鰯なぞもう降ってはいない。


 路面を見下ろすと生きた鰯が大量にピチピチと跳ねているし、道行く人々はそれを嫌そうに避けているが、ひとまず、この天変地異は終結を迎えたと思っていいだろう。


 ――しかし。


 何だったんだこの現象は。


 空から鰯が降り注ぐのもあれだし、私の念力と御守りがこんな凄まじいシナジーを発揮するとも思わなかった。世界が混沌に向かって異変を起こしているとは言っても、ものには限度があろうしそもそも何で私がこんなヒーローみたいな事を。


 念力を用いて阿呆のようにうすらぼんやりと「もう働かなくて済むなあ」などと考えていた私に対する当て付けか。ええ、ゴッド・ラ・ムウさんよ。


 兎に角、だ。


 ひとまず天変地異は終わった。


 そしてこの念力と、或いは自らと向き合わねばならない。


「よほっ」


 私は唸ると、念力でふわふわと御守りを丸テーブルの上に戻した。


 うーん。


 力と向き合うっつってもさぁ、どうすれば――。


 こんなオカルトに詳しそうな知り合いも居ないし――。


 あっ。


 番場猪之吉氏――。


 あのおっさんだ、ほら、あの自称泣き虫退魔師の。そういやゴッド・ラ・ムウの事を何か知っているような仄めかしをするだけして帰っていったな、あのおっさん。今度は問い詰めたろ。


 番場猪之吉氏に連絡を取り、今回の件を正直に伝え判断を仰ぐ事にした。


 思い立ったが吉日、良き日だ。まぁ、今日は鰯が降るなどという天変地異があったんだけどね。


 私は「ちゃあっ」と唸るとスマホをふわふわと浮かせ手に取り、番場猪之吉氏の事務所に電話をかけた。


「ハァイこちら番場除霊事務所」


 やたらフランクな喋り方の女性が出た。多分受付の人であろう。


「以前お世話になった加納吉次郎と申します。折り入ってまた番場猪之吉先生に相談したい事があるのですが」


「ちょっと待ってね。えーと、ああ加納さん! はいはい、どういったご用件でしょうか? 伺います」


「実はですね、このたび、念力に目覚めまして」


「念力」


「はい。それで今日空から鰯の雨が降ったじゃないですか。面倒臭いから詳細は省きますけど、念力であれを止めまして」


「なるほど。念力で」


「こういう現象の数々にほとほと困っておるのです。以前番場先生のお世話になった時、また何かあればと聞いたので相談をさせていただければと思うのですが」


「ハイハァイ。予約を取りたいという事ですね。少々お待ち下さいね」


 意外とスムーズに話は進んだ。


「ハァイ。お待たせしました。今週日曜午後なら番場の予約が可能ですが」


「ではそれでお願いします」


「今回は除霊ではないので事務所にお越しいただく形になります」


「はい分かりました」


 そして番場猪之吉氏へのアポイントメントは終わった。


 ひとまず、安心していいのか。


 念力とか言うと阿呆と思われそうなものだったが、相手方も手慣れているのかスムーズに話が進んだ。もしやこういう相談が多いのかもなと考える。


 さて番場猪之吉氏に会うまで、なるべく念力は控えよう。


 特にこの御守りとのコンボは凄まじすぎる。


 一介の小市民たる私がこんな力を手にしてできる事と言えば、なるべく悪さをせず、控えておくだけだ。いつかこんな念力でも役に立つ時が来るだろう。確かに予感がある。実際私は鰯の雨を止められたのだ。


 ――しかし。


 世界の異変は、日に日に激しくなってきている。


 始まりはあの腐れらぁめん屋だった。『不滅』というふざけた名前の。


 紆余曲折を経て、私は日常とは随分とかけはなれた場所へ来てしまった。


 その中心軸には――あの謎の存在、ゴッド・ラ・ムウが居る。


 いつか私はその謎を解き明かし、真実に至る事ができるのであろうか。あの何でもない日常を取り戻す事ができるのであろうか。


 何でもない日常。


 でも、私が生きてきたこれまでの日常は本当に何でもなかったのだろうか。ただぼんやりとその日暮らしをし、酒を飲み現実から逃避し夢の中に生きてきただけではなかったのだろうか。周囲をもっとよく見れば、何かがあったのではないのだろうか。何があったのかは分からない。ほら、あれだ、あの、とにかく何かが。


 予兆めいた出来事には何も気付かず、そして準備もできず、世界は異変を起こし始め――私は混沌の坩堝に放り込まれた。挙句の果てに、空から降ってくる大量の鰯を念力で止める始末である。


 何なんだこの事態は。


 私、吉次郎はただのフリーターだが?


 しかし、そうは言ってもあのゴッド・ラ・ムウ――すべてを超越したる存在――とやらは聞く耳を持っていないのだろう。そして番場猪之吉氏は私がうつわであるとも言っていた。そこら辺を今週末に聞いてみたい。


 うい。


 それにしても、今夜の晩飯は何にしようか。


 もう魚はいい。


 何か元気が出るものを食べたいし、酒はなるべく控えている。


 しかし気力が萎えている。ならば念力でチョチョイっと――駄目だ。これが地獄への第一歩なのだ。私は着替え、スマホと財布を持ち、コンビニへと自分の足で歩いて食料を購入すべきなのだ。戒め戒め。戒めておかないと世界の異変で次はどんな混沌に巻き込まれるか判らないからね。


 私は着替え、用意をするとアパートを出た。


 道路ではいまだにピチピチと大量の鰯が跳ねている。それを踏まないようにひょいひょいと避けて歩いた。道行く人が皆、嫌そうに鰯を避けて歩いている。


 凄まじい光景である。にも関わらず人々は日常を過ごしている。


 私は日常から大きく逸脱してしまった。


 せめて、今夜くらいは腹を満たして眠ろう。



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