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第四話『吉次郎と野犬』

 朝まで熟睡していた。


 あの忌まわしい霊現象――ラップ音を番場猪之吉ばばいのきち氏に祓ってもらってからというもの、快眠が続いている。部屋の空気も清涼になった気がするし、食欲も増進されてきた。さらに毎朝快便も続いている。


 ウヒャ。


 思わず表情を崩す。


 そのまま笑い転げたくなるほどに調子が良い。これマジで今までの人生祟られていたのと違いますのん? と首を傾げるほどに調子が良い。まぁ、問題は、調子が良いのは良いとして、今までの私の人生は何だったのかという事なのだが、朝からそんな気鬱な事を考えているとまた悪霊に呪われるかもしれないのであり、私は黙って朝食のパンを齧り、顔を洗ってバイトに行く準備をした。


 番場猪之吉氏も仰っていた。真面目に生きていかないとまた第二・第三の祟りがあるかもしれないと。ついでに「もう貴方は普通の人生を送れません」とも言われた記憶もあるのだが、そこは聞かなかった事にしておこう。


 私は家を出、電車に揺られ、バイト先の倉庫に到着した。朝の挨拶をして準備体操もそこそこにピッキングや雑用をこなす。ああ充実している。もっと早く家の徐霊を頼んでおけば良かった。そして昼食の不味い仕出し弁当を食べる。このパサパサした弁当ですら味わい深く感じた。だが美味くはない。そして午後。残りのピッキングを済ませ定時まで雑用。今日はヒステリー持ちの事務員や少し気が狂ったような班長に何も言われなかった。何という素晴らしい日であろう。


 そして、電車に揺られてアパートに帰る。まだ外は明るいし、今日は私の中の脳みそや精神が漲っている。


 ――行くか。


 行っちゃうか。


 私は頑張った自分に☆ご褒美☆をあげる事にした。即ち、居酒屋に飲みに繰り出す事にしたのだ。


 シャワーを浴び、バスタオルで景気よく股間をしばくとヨソ行き用の服を着た。普段あまり履かないチノパンなどを履く。財布とスマホを用意してウヒャウヒャと呵呵大笑すると、私は夕方の街に紛れ込んだ。


 たまに飲みに行っている居酒屋、『ちょっくら半兵衛』へと向かってブラブラと歩く。ああ、今日は休日ほども人がごった返していないし、仕事で心地よく疲れた身体に夜風が気持ちいい。幸先良いなぁ、これは今日の酒も進みそうだと歩を進める。そして歩を進めた所で、唐突に「ギャン!」と吠えられた。私は驚いてのけぞった。


 電柱の影に茶色い犬が居た。


 細かく震え、私を睨み付けてウウウと喉を鳴らしている。首輪は装着しておらず、野良の類に見えた。


 自慢ではないが、私は動物が好きである。いずれオカメインコかジャンガリアンハムスターなどを飼ってみたいとすら思っており、動物の持つヒーリング能力を高く評価している。動物を愛すれども、憎んだ事はない。


 野良犬か。お腹でも空かせているのであろうと思ったが、私は食い物やナマモノを持ち歩く趣味はないのでおやつを与えてあげる事もできない。せめて撫でて謝ろうにも噛みついて来そうな勢いである。悲しいが、そっとこの場を立ち去るしかない。


 私は犬が居る電柱から数メートル距離を取って通りすぎた。


 それでも何かが気になって振り向くと、犬は私にいて来ていた。


 おいおい、と思った。


 私が居酒屋で飲み食ろうている間に犬はどうしているつもりなのだろう。もちろんそこまでは考えてはいないだろうが、犬を連れて入店する訳にも行かず、困った。


 しょうがない。私が飲んでいる間に店の裏の残飯でも漁っていてもらうか。現実的にそうするしか方法が思い浮かばず、噛みつかれても嫌なので私はなるべく犬を刺激しないように、キャットウォークでそろり、そろりと歩く。人気ひとけの無い路地で良かった。人が見ていたら、背筋を伸ばし爪先でそろそろと歩いている私はただの阿呆である。


 爪先でそろりそろりと歩く。振り向く。犬は尾いて来ている。


 そろそろ歩きを少しスピードアップさせた。振り向く。犬は早足で尾いて来る。


 私はなりふり構わずダッシュした。振り向く。犬は駆け足で私に尾いて来ていた。


 ワンワンと嬉しそうに吠えながら尾いて来る犬を背に、私は駆けた。駆けたといえば小学生のみぎりに運動会の駆けっこでスッ転んだ事がある。膝を擦り剥きずいぶんと痛い思いをしたのだが、それ以上に恥ずかしかった。恥。かつて武士は恥のために果てたという。別に武人でもない私が恥のために死ぬ必要もないのだけれども、まあ、あの時は消えて無くなりたいほどに恥ずかしかった。以来、私は見栄を張り、別に本気なんか出してねーよと冷笑する事を覚え、つまらん大人になってしまった。そんな私が今、犬から逃げるために全力疾走をしている。かなり久し振りに全力を出している。


 振り返る。


 犬は舌を出し、ハッハッとまだ尾いて来ていた。


 振り向いたまま走る速度を上げる。ギアを二つほど上に入れた。トップギアである。人間というか私、加納吉次郎の脚力の限界である。


 ――その時。


 何らかに、どん! とぶつかった。


 衝撃で私は跳ね返され、尻餅をつく。うわあ、と悲鳴が聞こえた。どうやら私は歩行者にぶつかったらしい。こんな人気の無い路地に歩行者が居るとは思わなかった。完全に私の油断である。相手も尻餅をついていた。小太りの眼鏡の男性であった。


「すみません、大丈夫でしょうか」


 よろけて立ち上がりながら、恐る恐る相手に声をかけた。


 相手はひきつったような顔で私を見ている。


「立てますか?」


 私は右手を差しのべた。


 ――すると。


 相手はピシャリと私の右手をはたいて払ったのである。


 ううむ、いきなりぶつかられたのだから激昂するのもしょうがない。どうしたものか。どうしたものか。私が戸惑っていると、男性はヨッと立ち上がり、尻を手でパンパンと叩いた。そして私の顔を見据える。


「このキ、キ、キ、キチ◼️イ野郎!」


 甲高い声で、男性はそう怒鳴った。


 私は呆然とし、言葉が出なかった。


「お前のようなキチ◼️イのせいでボクの人生は目茶苦茶だ!」


 私の名誉のために言っておくと、確かに私は犬から逃げるべく不用意にダッシュしてこの男性にぶつかってしまった。しかし、それはあくまで偶発的な物理干渉であって、私はこの男性から金銭を奪ったり、名誉毀損じみた文言を言い触らしてはいない。というかこの人がどこの誰兵衛さんなのかも知らない。であるにも関わらず、唐突に気が触れた野郎呼ばわりされ、人生の責任を負えなどと怒鳴られても心外というか、対処しようがない。てか逆にこの人から少しヤバい匂いがしてきているのだが。


「ボクの人生はいつだってそうだ。お前のような奴に青春を奪われ、ママには雁字搦めにされ、ソシャゲにはもう二百万は突っ込んだ!」


 はあ。ヤバい人だわ。


 私は早くこの場を立ち去りたかった。だがこの眼鏡の小太りは口の端から泡を吹かんばかりにワナワナと震えている。これで手でも出されたら殴られ損である。


「だからボクはお前のように不愉快な奴は殺す事に決めたんだ!」


 男性は手を出すどころか、懐から包丁を取り出した。殴られ損っていうか、このパターンは殺され損である。


 ――逃げよう。


 この場合、逃走経路を確保するのが最優先だ。とは言ってもこんな狭い路地ではきびすを返して逃げるか、男性の脇を掻い潜って逃げるかの二択しか無いのであり、そして包丁を持ってゼェゼェ息を荒げているこの男性の脇を掻い潜るのは至難の業である。多分刺される。反転して逃げよう。


 私は少し後じさると、くるっと背後を向いた。


 犬が間抜けな顔をして、立ち塞がるかのようにハッハッと舌を出していた。


 すっかり忘れていたが、この犬は別に私を噛むつもりではなく、遊んでくれていると勘違いして追いかけて来ていたのだろう。それならそうと早く言え。


 私はダッシュした。


 吉次郎、命を賭けた全力疾走。


「逃げるなあああ! 止まれキチ◼️イ野郎おおお!」


 走りながらちらと振り向くと、眼鏡の小太りは包丁を腰だめに構えてウオオオオと突進して来ていた。キチ◼️イは貴方でしょうと思ったし、犬も嬉しそうに舌を出して私を追うて来る。


 脳汁がどんどん分泌され、ヤバいヤバいヤバいと切羽詰まる。全力で駆ける足にパワーが漲る。何で、ただ居酒屋に行こうとしただけで犬と狂人に絡まれなければならんのだ。


 ――そこで。


 私はふと先日の番場猪之吉氏の言葉を思い出した。


 ――貴方はもう、普通の人生を送る事はできません。


 えーと、普通の人生を送れないというのは、宝くじで百億当たるとかそういう話ではなくて、夕闇の中、犬と狂人に追われるとか、そういうケースの事を仰っていたのだろうか。ゴッド・ラ・ムウの加護だかうつわだか、その話はどこに行ったんだよ。


 息が上がりそうになってくる。


 いくら軽作業バイトで身体を動かしているとは言っても、全力疾走には限界というものがある。してや私は毎日飲酒をし、あまり健康とは言えない生活を送っているのだ。


 私は再度、ちらと背後を見た。


「ヒッ!」


 すぐ真後ろまで眼鏡の小太りは突進して来ていた。何だよこの突進力は。何が貴方をそこまで突き動かすんだ。突き刺されそうになっているのは私だが。


 そして、驚きのあまり足がもつれ、私はズザザーっと転んでしまった。小学生以来の転倒である。


「ウヒィ、ウヒィ」


 眼鏡の小太りは肩で息をしながら私を見下ろす。包丁が禍々しく光っている。


「これでもう終わりだねキチ◼️イ野郎め。ボクの人生をメチャクチャにした報いを受けなさい」


 貴方の人生をメチャクチャにした覚えはないのだが、むしろ今現在人生をメチャクチャにされそうなのは私の方であり、言い掛かりも甚だしいと思いつつ、私は尻で以て後じさる。


「少し考え直してみては如何でしょうか」そんな言葉が私の口をついた。「その手に持った包丁で私をメチャクチャにするのは簡単でしょう。しかし。私をメチャクチャにした場合、貴方も無罪放免という訳には行かず、官憲に捕まり、下手をすれば実名・顔写真付きで全国に存在をアピールされるかもしれない。それは私の望むところではないし、貴方もそれを望まないでしょう。ええ。望まないのは分かっています。ならば今貴方は何を望んでいるか。そう、人間は望みがあるからこそ生きられます。私などは美味しい酒と後は札束くらいです望んでいるものは。みみっちい人間だと思われるかもしれません。浅ましい人間だと思われるかもしれません。だが! 私が唯一誇れるのは、望みのために決して人を殺傷したりはしなかった事です。確かに酔っぱらって毒づいた事もありました。飲み屋の看板に蹴りを入れた事もありました。しかし、私は心のどこかで信じていたのです――人間の善性を! 博愛を! だから貴方もまずその包丁を収め、別の望みを探してみては如何でしょうか。私のごとき小市民を殺めたとて、残るのは虚しさです。何なら今、私は持ち合わせもほとんど無く――」


「うるさいつまりお前はクズだ」


 私の言葉はあっさり遮られた。


 駄目だ、この眼鏡の小太りには人間の言葉が通じない。通じるような状態ではない。そう思えば妙に鼻の穴がフンフンしている。つまり極度の興奮状態なのであろう。人間、極度に興奮するとどうなるか? 法や倫理というものを平気で無視し、飛び越えるのである。飛び越えた結果そこには、私の死体が転がる事になる。


 改めてゾッとした。


 大声を出そうにも声帯がブルってしまって声が出ない。足腰には力が入らず、通りがかりの通行人も居ない。これを人生最大のピンチと言わずして何と言うのであろうか。


 ――ギュルギュルギュル。


 あっ。


 頭の中で何かが動く音が聴こえた。


 そう。私の自由闊達な脳みそが高速回転を始めたのである。


 それはそうだろう。宿主が死に瀕しているのである。脳みそは凄まじい勢いであらゆる可能性を演算し始めた。その間約一秒。


 ――そして。


 私の自由闊達な脳みそは、ひとつの“ビジョン”を提示したのである。


 私はかつて無職で暇だった時、時代劇やチャンバラ映画を昼間によく観ていた。チャンバラが好きだという訳ではなく、たまたまそういう作品しか日中にテレビでやっていなかったからである。そして、その一場面を私の脳みそは――起死回生の策として提示したのである。すなわち――。


 ――真剣白刃取り。


 これだ。


 これしかない。


 人間はピンチになると脳汁が過剰に分泌され、超人的な動きが可能になるという。そして私は今ピンチもピンチ、死の瀬戸際に居る。


「さぁ、もう終わりだキチ◼️イ野郎め。地獄に落ちろ」


 眼鏡の小太りは包丁を腰だめで水平に構えた。


 ちょっと待っていただきたい。


 真剣白刃取りという技は、頭上から振り下ろされた刃を両のたなごころで以て受け、武器を奪う技である。ところが目の前の狂人は、どう見ても今から真っ直ぐに包丁を突き刺してくるムーヴを取っている。


 この場合、真剣白刃取りはどうやるのだろうか。そもそもできるのだろうか。はっきり申し上げて無理では。


「オアー!」


 狂人が叫んだ。


「ヒィッ!」


 私は少し漏らした。


 包丁が突き出される!


 ――だが。


 その刹那。


「アオーーーン!」


 勇ましい吠え声が聞こえた。


「ギャッ」


 突き出されようとしていた包丁がポロリと落ち、狂人が首のあたりに手をやりもがき始めた。


 観念していた私は何事が起きたのかと目を凝らした――。


 狂人の首筋に、犬が噛み付いていた。


 野生をそのまま剥き出しにしたかのような勇ましさで食い付いている。


「痛い! 痛いいいい!」


 狂人が叫ぶが、犬はお構いなしに食い付いたままかぶりを振っている。


 狂人が尻餅をつく。同時に口を離した犬はガルガルと唸り、威嚇をした。


 私の前、私を守ろうかとするようなポジションで。


「アォン! アォン!」


 去れ。とでも警告するかのように、犬は狂人に向かい吠え立てる。


 狂人は首から血をダラダラと流し、尻餅をついたまま後じさった。


 全身の毛を逆立て、犬はグルル――と狂人ににじり寄る。


「ひっ、怖い! お母さーーーん!」


 甲高い声で叫ぶと、狂人は足をもつれさせながら立ち上がり、小走りで彼方へ――逃げていった。その後ろ姿がとても小さく見えた。


 私は全身から力が抜け、へなへなとなった。


 へな~っとなったところに、犬が、わん、と軽く吠えた。


 犬の顔を見る。舌を出し、ハッハッと息をしている表情は無邪気だ。そしてとても澄んだ目をしている。


 ――このお犬様が。


 私の命を救ってくれたのだ。


 ほぼ素寒貧の私のどこを気に入ったのかは分からないが、私に対して敵意どころか好意を持ってくれているのが伝わる。ありがとう、犬。犬よ。


 ならば、礼というにはショボすぎるが、何か食べ物でも奢ってやらなければなるまい。コンビニでドッグフードでも買ってやるか。野良をやっている以上はお腹を空かせているのだろうし。


 私は居酒屋へ行くのを取り止め、「ほら、ついて来い」と犬を撫でて、共に歩き出した。世界は異変を起こしており、ゴッド・ラ・ムウの件だの祟りだの色々あったが、今日は本気でヤバかった。この犬っころが居なければ私は今頃どうなっていた事やら。てかこんな調子の混乱・混沌がこれからも続くのかと思うとゲンナリするが、こうした良犬との出会いもある。要するに、すべては私の気の持ち方次第ではないのだろうか。


 当然、リードなんか着けずに犬と一緒に歩いているので、すれ違う通行人がたまにチラチラとこちらを見る。噛んだり吠えたりしないとは思う。多分、この犬は昔どこかで人間と一緒に暮らしていたのではなかろうかと、そんな想像をする。或いは人間以上の存在のもとに居たのかもしれない。世界が異変を起こしている以上は、どんな可能性もゼロではないのだ。


 そしてコンビニに着いた。


 犬を連れて入店はできないので、私は「おすわり、おすわり」と言ってどうにか犬を外壁の端っこに座らせた。そして、ご褒美の美味しいものを買ってくるから待ってろよと言い置いて入店する。


 店内はどこかうら寂しく、私はドッグフードやジャーキーを抱えると、レジに並んだ。


 何とも言えない気分である。今日は命の危険があった。しかし犬に救われ、感謝の念に打ち震えている。思えば感謝などしばらくしておらず、毒づくだけの毎日だった気がする。


「お客様どうぞ」


 ハッとした。コンビニのバイトらしき店員がこちらを不思議そうに眺めている。名札に『犬田』と書かれていた。私は商品をレジに置くと、財布を出しながら犬田の顔を窺った。いかにも犬田という感じの顔である。ここでも犬。犬につくづく縁がある日だ。そして商品を袋詰めしてもらうと、私はそれを持ってコンビニから出た。


「おーい」


 自然と声を出して犬を呼んでいた。


「犬ー」


 キョロキョロと周囲を見渡す。しかし先程おすわりしていた場所に犬は居らず、辺りにも見当たらない。コンビニの裏や、道路まで行って私は犬を探した。


「犬」


「おい犬ー!」


「犬ー!」


 しかし、犬はもうどこにも見当たらない。


 私は溜め息を吐き、こうべを垂れた。


 犬は気ままにどこかへ行ってしまったのだろうか。それとも私に捨てられ、もう遊んでもらえないと考えたのだろうか。ただ、私は礼をしたかっただけなのに。


 私は小一時間ほどコンビニ周辺をうろうろしてみたが、結局あの茶色い犬と再会する事は叶わなかった。せめて、腹一杯食べて、たくましく生きていけよ。そう祈って、私は消費するアテのなくなったドッグフードとジャーキーを抱えて帰路に就いた。


 ――哀しいな。


 哀しい。哀しかった。もう夜になっており、満月は平等にすべてを照らしている。また会えるといいな、犬。


 アパートに着くと、玄関の鍵を開けた。真っ暗な部屋の電気を点ける。


 一人暮らしには慣れたものだが、今日は何故か一人なのが寂しかった。


 持って帰ったドッグフードを見る。製品の袋に 茶色い犬の可愛い顔がプリントされている。あの犬とよく似ていた。


 ――その時。


 プリントされている犬が、ウィンクをした。


 私は大変驚いて目をごしごしと擦り、まじまじとプリントされた犬を見た。何の事はない、ただのプリントであった。


 ――気のせいか。


 気のせいであろう。いくら世界が異変を起こしているとは言っても二次元が動く訳がない。


 先日、番場猪之吉氏は私に真面目に生きなさいというような事を言ったが、今日の事件、あれは真面目に生きて来なかった事のツケだったのかもしれない。そして、犬に救われたのは、私の中の動物好きな心がもたらした恩恵――或いはゴッド・ラ・ムウの采配であったのかもしれない。


 ややこしい事を考えていると酒を飲みたくなる。そして冷蔵庫を開けた。だが、私は一端開けた冷蔵庫を黙って閉めた。今日、居酒屋に行き損ねたのも、そろそろ深酒を止めろというある種のメッセージであるのかもしれず、全力疾走で狂人から逃げた際にアルコールがどれだけ自分の身体にダメージを与えているのかもよく分かった。


 しかし、酒が無いなら無いで夜は寂しい。


 さっさと風呂に入って寝るかと思い、私は風呂場へ向かった。シャワーが気持ち良かった。


 さっぱりして丸テーブルの上に相変わらず置いたままのゴッド・ラ・ムウの御守りを見る。このアイテムは私に何を伝え、何をさせたいのだろう。私を見初めたとか番場猪之吉氏から聞いたが、今日は死にそうになったじゃねぇかとつくづく震え上がる。しかし、私を守護まもるのは極論、私自身しか居ないのである。あの犬はたまたま――本当にたまたま私を救ってくれたのだ。今頃、暖かい寝所にありつけていると良いが。


 世界の異変はそろそろ私の健康・財産・生命を脅かすまでに変動してきた。その結果はどうなるのであろう。今のところは私のような小市民に混沌をもたらしているようにしか思えないが、他にも異変を察知している民草も居るかもしれないし、そして彼ら彼女らは何らかの対応策を講じているのかもしれない。一方、私はバイトに行って適当に仕事をして日銭を稼ぎ、深酒を飲み食ろうている。


 何だか今日はセンチな気分である。死にかけたし、短い間だったが共に過ごした犬とも別れた。


 布団に入り、電気を消した。


 あまり眠れそうにはないが、静かだ。酒を控えるとこんなに感覚が研ぎ澄まされるのかとちょっと感激した。そして意識は溶暗し、私は夢の中にまろぶ。


 夢の中で私はあの犬を連れて、どこまでも散歩をしていた。

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