――ふと、ウィリアム・シェイクスピアによる『夏の夜の夢』の一節が脳裏を過っていた。
〝どんなにいい芝居も人生を映す鏡に過ぎん。ならば下らない芝居も想像力で補えば決して下らぬとは言えない。〟
「その通りだ」
ウィリアム・ジェイムズ・サイディズ四世。通称四郎は、暗闇で同調した。
「真にくだらない世界も物語もありはしない。誰かの人生が、そこには反映されているのだから。これまで眺めてきた、いや、無数の異世界全てが素晴らしかったのだ。わたしの人生も、初代の人生も無益ではなかった。世界は、自分を通してしか窺い知れないのだから。第三者の誰が、それを決めつけられようか」
鼻先に温もりを感じて、目蓋を持ち上げる。
そこには、全裸の少女の姿をした手の平だいの
四郎の覚醒に驚き、彼女は慌てて飛び立つ。そのまま蝶と一緒に、戯れながら晴れ空へと消えた。
「……わたしは、どうしていたんだったか」
上体を起こすと、四郎はいつもの白衣姿。草花の満ちる丘の中腹で、仰向けに寝ていたようだ。
眼下にはチョイサキ荘園と奥のチョイサキ大草原。反対側には女王都スタアトが望めた。
雪がすっかり溶けた、清々しい春の陽気だった。
「そうだ。特異点になったせいで、苦労したんだったな」
顎に手を当てて記憶を探った彼は、後ろを振り返る。
懐かしい我が家が、変わらず高台の頂きに建っていた。
自らも立ち、そちらに歩いていく。
最上位神ヤルダバオートを倒したものの、彼によって自分は全ての宇宙誕生と関連付けられていた。
いくら全能を超えた天才になったとはいえ、問題自体に己が係わってくるともなれば解決は難しい。しかも非論理的な全能性によるものだ。
ある法則内での常識が通用しない、まさしく特異点的な存在になってしまっていたのだった。
違うのは、ヤルダバオートにはない最強の頭脳があったこと。
それを駆使し、非論理的な全能の扱い方も一から学んでどうにか制御。自分があらゆる世界に悪影響を及ぼさないように繋がりを断ち、ついでに認識できたあらゆる魔王も退けておいた。
重労働が過ぎて、引き換えに全能性も先祖が探していたものも忘れてしまったが、初代ウィリアム・ジェイムズ・サイディズには届けることができた気がする。
最後の余力でどうにか戻ってきた四郎は、もはや、転生した直後の単なる賢いだけのひ弱な科学者だった。
シロウサイディズ・ドライブも、アルクビエレ・ドライブも失われてしまった。
「それでいい。何もなくとも、自分が求めるものは自分で決めれる。わたしは初代ではない。先祖とは探していたものが違ったんだ、異世界で生きることで発見した。神の如き力を手にしたのに、ここに帰還したいと願ってそれを使い切った。わたしの求めていたものは、ここで過ごした日々でもう手にしていたんだ。『ファウスト』的結末だな」
石造りの家の前に立つ。
自身の住居なので、遠慮せずに扉を開けた。
奥の部屋へのドアが開いており、そこでテーブルを囲んでいつかのようにお菓子を食べながら世間話をしている四人が窺えた。
玄関の開閉によって、驚嘆の顔でこちらを向いたのは懐かしい面々。
リインカと太田とクルスとメアリアンだ。
「すまん、自己言及のパラドックスを解消するのに手間取ってな。茶会に遅刻したか?」
僅かな間を挟んで科学者が気恥ずかしそうに笑うと、みな嬉々として駆け寄ってきた。
「うお~ん四郎氏!」まず、太田が笑顔で号泣しながら抱きついてくる。「戻ってきて下さったのでござるか、嬉しいですぞ~! ハーレムでしたが。いつものメンバーで集っても男一人で寂しかったでござる~! ハーレムでしたが!!」
クルスも太田の上から飛び付く。
「遅いよパパおじさん♥ どこでのろのろしてたの、やっぱよわよわのざぁこね♥ もう二歳も年取っておばさんになっちゃうとこだったかもよ、身体はホムンクルスだから若いままだけど♥」
メアリアンも重ねて抱きついてきた。
「よかった。きっと帰って来てくださると、みな信じていましたわ。もうわたくしのお店もできましたのよ。これでやっと、全員そろってメイド喫茶で遊べますわね!」
最後にやや距離を置いたところで、涙目で微笑を湛えるリインカが迎えた。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
と彼女にいちおう挨拶したが、四郎は即座に付加した。
「ってここはわたしの家だ、自分の家かのような歓迎はよしてほしいものだな。やはり駄女神か」
「一言多いのよ、あんたは!」
遅れて駆け寄ってきた彼女と四郎はいつものようなじゃれあいを演じるのだった。
……他方。量子力学的不確定性から予見される、無数の可能性ごとに分岐する平行世界。
うち元世界の一つ。
1944年7月、アメリカ。初代ウィリアム・ジェイムズ・サイディズは、ボストンの小さなアパートで脳卒中により倒れた。享年、46歳であった。
人類史上最高の頭脳を持つとされながらも大成しなかった人物、目立った業績を残せなかったと後世に評価されることになる人物として生涯を閉じた。
一人死に行く彼は、どのような心情であったのだろうか。
誰も知る由はないが、少なくとも、この世界の彼は満足げに笑っていた。
なぜか?
遠いどこか。
どことも知れぬ場所で、何事かをなそうとした自分の意思の片割れが、確かに何かをやり遂げたという成果を、失われる全能性の直前に届けてくれたのを感じることができたからだった。