「人影よ! 彼かもしれない」
一面真っ白なヴェールの向こうから、誰かの声がして気を逸らされた。
固まりそうな身体をどうにか動かして確認すると、複数の人影が窺える。接近していた。
「ま、まさか」うち一人がほざく。「この極地にあのような軽装で瞑想されているとは、さすがは救世主様!」
ようやく全容が露わになった影たちは、全員が処女雪のような白い肌にフード付きな分厚い毛皮のローブを纏い、青いマントを羽織った若い女性たち。みな、トネリコの杖を所持していた。
北欧の巫女ヴォルヴァみたいだな、と聖真は思う。
やっぱり夢としか考えられないが、こんなリアルな寒さは経験がない。だいたい明晰夢なんて見たこともない。
「き、
震える身体からやっと絞った台詞に、相手連中は顔を見合わせ囁きあった。
「なんと仰ったのかしら、
「通じているはずだけど理解ができない、神の言語なのかも」
「
堪えきれずに怒鳴ると、彼女らはそろって勘違いした。
「〝後ろ〟?」
幸か不幸か。次の瞬間、ヴォルヴァ(仮)たちの背後で霞の中から、山のように巨大な氷でできた手が襲い掛かった。
聞き間違えで振り返っていた彼女らは寸でのところでかわし、口々に喚く。
「〝中央の蛮族〟!? 協定を破ったの?」
「救世主様が教えて下さらねば危なかったですね」
「でもどうして、ここまでの侵入は許したのに!」
混乱する仲間たちへと、一人だけが落ち着いた調子で命じた。
「とにかく通行自由協定は破棄されやがったようです、陣形を整えやがりください!!」
『はい、フレデリカ様!』
数十人の集団がそろって返事をし、巨大な腕が出てきた空間に身構える。
フレデリカと呼ばれたのは、どうやら女性たちの代表らしい。青いマントと毛皮のローブ以外は、彼女のものだけが豪華だ。
マントは飾帯や宝石が付けられた立派なもので、黒い羊皮の頭巾を被り、ガラス玉の首飾りを掛けている。胸元には黒く輝く拍車を象ったブローチ。皮袋を吊り下げた帯を締め、犢革の靴を履いていた。ルーン文字が刻まれたトネリコの杖には真鍮の握り。
ウェーブした金の長髪と碧眼を持つ、賢そうな顔立ちで巨乳以外は細身、聖真よりやや低身長で同い年くらいの婉然とした美少女。
それが、フレデリカだった。
氷山のごとき腕の主も、彼女たちと対峙するように風雪から姿を現した。
視認できるのは数体。十メートルから十数メートルほどの疎らな体長。奥にも、同属らしき巨影がいくつか蠢いている。
「やはり、〝
フレデリカが相手を見据え、悔しげに呟く。
北欧神話の巨人族、氷でできた種族の名だ。基本的には神々に敵対し、より起源が古く、かつては神をも凌ぐ力量を有していたともされるヨトゥンなる巨人たちの一種。
どうやら、そういう設定のかつてない程リアルな夢にでも迷い込んだらしい。なのにみんな日本語しゃべるなんて都合よすぎだな。
などと、冷静なら聖真はツッコみたいところだった。
気掛かりなのは、巨人たちに妙な感覚を覚えること。あの、魔術実験が成功らしき結果を示すときに得られる第六感に似ていた。
今はんなことどうでもいいくらい寒く、ガタガタ歯を鳴らすのが精一杯。自身に雪が積もってフリームスルスになる気分だ。
一方で、本物のフリームスルスたる巨獣の毛皮を纏った氷巨人たちの殴りや蹴りや凍てつく吐息を、ヴォルヴァたちは素早く避けている。
「
叫んだ巫女たちがトネリコの杖を振るった。
そこから半透明の塊が飛び立つ。連中はフリームスルスたちに無数の打撃を与え、転倒させた。
ヴィッティルは神より低級だがそれなりの力を持つ、
そうしたものが、聖真には視認できた。これまで超常現象は幻影のようだったのに、はっきりと知覚できる。
緩慢な動作ながら繰り出される反撃の殴りや蹴りでヴォルヴァたちは吹っ飛ばされ、凍てつく吐息では氷像にされる。どうやらフリームスルスは聖真を狙っていて、巫女たちはこれを阻んでいるらしい。
じりじりと、彼女たちの組む円陣が男子高校生を中心に狭められていく。
「このままじゃ負けるわ」
ヴォルヴァたちが、危機感あらわに言葉を交わす。
「かといって、救世主様は様子がおかしい。大規模な技を使えば巻き込んでしまいかねない」
「これほどの衝突なら、察知して援軍が助けに来るはず。持ち堪えるしかないわ」
そこで。どうにか気力を振り絞り、聖真は叫んだ。
「ぞれ以前に!」
フリームスルスもヴォルヴァも、動きを止めた。彼の発言に、よほどの意味があるかのように。
「救世主様が」真顔でほざいたのはフレデリカだ。「なにか仰りやがります!」
こいつが最後の一押しになった。
ありたっけの激情を込めて、聖真は咆哮を上げた。
「それ以前にクソ寒くて死ぬわ!!」
おまけに怒りに任せて、握りっぱなしだった小瓶を足下に叩きつけてしまった。
積雪があまりない氷の部分に、ちょうどぶつかった。氷塊と一緒に、ガラス片と内包していた凍りかけの水が飛び散る。
発作的に自分がしたとはいえ、それではっとして視線を落とした聖真は目撃した。
砕け散る瓶内部に、いなかったはずの悪魔がいるのを。
「やむを得ん、汝の願いを申せ」
吼えたそいつは、
小瓶に合わせたサイズだが、解放されるや巨大化。聖真よりずっと長身、二足歩行の豹人間といった様相に変化した。
「
悠然と語る悪魔の正体を聖真は悟る。
かつて、古代イスラエルのソロモン王が使役し封印したという七二柱の魔神。うち序列六四番、地獄の大公爵だ。
「いかにも」フラウロスは認めた。「して、汝の暖をとればよいのか?」
さっきの悲鳴への問いらしかった。
願いを叶えてくれるというのだろうか。〝小瓶の悪魔〟が成功したというなら、そういうことになる。
困惑のあまり他を見渡せば、同じ心情なのか巫女たちも巨人たちも聖真に環視を注いでいる。
何もわからないが、少なくともヴォルヴァたちは自分を護ってくれているみたいだった。だから
「……いや、巫女たちを助けてやってくれ!」
「承知した」
魔神は大きく頷く。
「このフラウロスが受けた屈辱、巨人どもで晴らさせてもらうとしよう」
悪魔は双眸から業火を噴出した。
火炎は聖真を中心に渦巻く。球状に広がり、ヴォルヴァたちには影響を及ぼさずに拡大。フリームスルスたちだけを融解させる。
生き残った巨人たちは、たちまち蜘蛛の子を散らすように逃げだした。
が、炎のほうが高速だ。
あっという間に、辺りにいた数十体の氷塊巨人全員が蒸発した。
分厚い積雪はまだあるが、一時的に降雪すら止み、束の間の春のごとき暖かさが訪れた。ヴォルヴァたちが唖然として聖真を眺めている。
「簡易契約は済ませたぞ。去らせてもらおう」
フラウロスは一言述べ、火の粉となって掻き消えた。
「あ、ありがとう。けど、ありえない」
今さらながら聖真は呟く。
全てがあり得ないが。さっきのは、魔術が実在したとしてもあり得なかった。
〝小瓶の悪魔〟は、本来人間が代償を払って助力をもらえる契約を無視し、悪魔を騙して瓶に閉じ込め、出すのを条件に協力を得る反則技。そんなものに引っかかるのは敵に怪我をさせるのがせいぜいな低級悪魔のはず。
あんな強大な魔神を捕らえられるはずがない。
んなことができるとすれば、まさしくフラウロスらを無条件で従わせる神から授かった指輪を持っていたというソロモン王くらいのもの。
「あんな、親がスーパーで買ったジャムの空き瓶でどうして……」
なぜだかどっと疲れが押し寄せてきて、気が遠のく。スローモーションのように倒れる自分が、他人事のようだった。
雪はまた降り始め、足元のものも溶けきってはおらず、そこに埋まる。
朦朧としていく思考で、彼の心は闇に途絶えた。