それから数日後、旅立ちの日がやってきた。
「それじゃ、達者でな。また近くに来た時は顔を見せてくれよ」
「はい。色々とお世話になりました」
俺と橘さんはグリッドさんにお礼を言い、ニラードの街をあとにする。目指すは、王都プレンティスだ。
「た、
「こ、こちらこそ」
そんなぎこちない挨拶を交わしてから、俺たちは街道を東に向けて歩き始める。
この大陸の地図は、すべて
◇
……時折短い会話をしつつ、草原を突っ切るように作られた街道をひたすらに進むこと、約半日。
太陽の位置もだいぶ高くなり、じんわりと汗をかく。
隣の歩く橘さんの顔にも、疲労の色が見えていた。
いくらスキルが使えるようになったとはいえ、俺たちはついこの間まで、現代社会の交通インフラに頼り切った生活をしていたのだ。体力にはまったく自信がなかった。
橘さんによると、王都プレンティスに行くには、まずルーケンという村を目指し、そこから山を超える必要があるそうだ。
その村までも徒歩で最低三日はかかるらしいし、ここは無理をしても仕方がない。
「橘さん、少し、休憩しない?」
「そ、そう、だね……」
声をかけると、彼女は待っていたとばかりに頷き、周囲を見渡す。おあつらえ向きに大きな木があり、木陰ができていた。
「あそこに座って水でも飲もうよ。アイテム収納庫使うから、手を出してくれる?」
「うん。いいよ」
橘さんは疲れた顔で言って、右手を差し出してくる。
俺も特に躊躇なくその手を握り、合体スキルを発動した。
少し前まで、手をつなぐことには抵抗があったはずなのに。今やすっかり慣れたものだった。
「えーっと、水と……橘さん、お腹は空いてない?」
『あ、少し空いてるかも』
「なら、このルーリエの実も食べようよ。市場で試食させてもらった時、ブドウとミカンの中間っぽい味がして美味しかったしさ」
『うん』
そんな会話をしながら、アイテム収納庫から水と一緒に拳ほどの大きさがある果実を二つ取り出す。
『……あれ、なんか、使えない機能があるね』
その時、橘さんが唐突にそう口にした。
「使えない機能?」
『うん。ほら、これ』
直後、俺の視界に半透明のウィンドウが開く。そこには『通話機能』と書かれていたものの、鍵マークがついていた。
「この前の召喚術みたいに、実績解除しないといけないのかな」
『実績……?』
「ゲーム内での条件みたいなものだよ。決められた数の魔物を倒すとかさ」
『そんなのがあるの? ゲームの世界、奥が深いね』
例を出して説明するも、橘さんはそんな言葉を返してくる。
姿は見えないけど、口元に手を当てて、眉をひそめる彼女の姿が容易に想像できた。
『そうだ。こんな機能も見つけたよ。会話の記録』
「会話の記録?」
次に橘さんが見せてくれたのは、無数の文字がびっしりと並ぶウィンドウだった。
そこには、俺たちがこれまで人々と交わした会話が一語一句違わずに保存されていた。
「……ログだ」
『ろぐ?』
「これまでの会話を見直すことができるんだ。ゲームだと、次に行く場所を忘れた時とかに使うんだよ。こんな機能もあるのか」
『わたしにはよくわからないけど、便利そうだね』
「うん。いざという時に使えそうだから、覚えておこう」
そう口にしてすぐ、俺たちは合体スキルを解除。
隣に現れた橘さんにルーリエの実と水を手渡して、小休止することにした。
◇
その休憩を終え、再び歩き出す。しばらくして、橘さんがぴたりと歩みを止めた。
「あれ、どうしたの?」
「あのね、この先の茂みを抜けると、泉があるの」
不思議に思って尋ねると、彼女は街道脇の草藪を指し示す。
細い指の先を目で追ってみるも、俺より背の高い草がうっそうと生い茂っていて、泉は確認できなかった。
「昨日読んだ本によると、水質も良好で、周囲に魔物も滅多に出ないんだって」
「そうなんだ。水はまだ余裕あるけど、汲んでいくの?」
「そ、そうじゃなくて。ちょっと、水浴び、したくて……」
顔を赤らめながら、橘さんの声は尻すぼみになっていく。俺も自分の顔が熱くなるのがわかった。
「は、入ってきたらいいよ。俺、ここで待ってるから」
急に恥ずかしくなり、俺は橘さんに背を向ける。
「……ぜっっったいに、覗かないでね」
「もちろんです」
橘さんらしくない語気強めの声を背中に投げかけられ、俺は背筋を伸ばし、敬語で返す。
それを聞いて安心したのか、橘さんは草藪の奥へと入っていった。
「はあぁ……」
思わず脱力するも、すぐに気を引き締める。
橘さんいわく、魔物は滅多に現れないそうだけど、一応警戒はしておかないと。
俺は神経を研ぎ澄ませ、耳をそばだてる。
幸いなことに、周囲に音を発するようなものはない。何か生き物が動けば、すぐにわかるはずだ。
……そんなことを考えた矢先、背後で聞こえていた草を分ける音が止んだ。
続いて、布が擦れるような音が聞こえてくる。
「……!?」
その音の正体は橘さんが服を脱ぐ音だと気づき、俺は固まる。
周囲の音が少ないということは、橘さんが起こす音が非常によく聞こえるというわけで。
俺だって健全な男子高校生だ。布擦れ音なんて聞いていたら、色々と想像してしまう。
制服だとわかりにくかったけど、橘さんスタイルいいし……。
って、何を考えているんだ。見張りに集中しろ、俺。
「……はぁ、気持ちいい」
両頬を叩いて気合を入れた直後、ぱしゃぱしゃという水音と、橘さんの安心しきった声が聞こえた。
うがーー! 集中できるかぁーー!
心の中で叫び、ガリガリと頭を掻く。
「そういえば、水浴び中のヒロインが魔物に襲われて、主人公がやむなく助けに行く……なんてイベント、ゲームだと定番だよな……」
自らフラグを立ててしまった気がしないでもないけど、どのみち魔物が現れた場合、橘さんと合体しなければ戦えない。
それはつまり、否応なしに水浴び中の彼女のところに飛び込まないといけないということだ。
……ぜっっったいに、覗かないでね。
その時、直前の橘さんの言葉が思い出された。
「これは……魔物が出た場合、どっちに転んでも無事じゃ済まないよな……」
そんな結論に至った俺は、魔物が出ないよう、この世界の神に必死に祈ったのだった。