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第9話 小説の文体

 しばらくの間、担任からは休学届を出して静養するようにと言われたのでそうした。藤原先生の優しさだろう。

 僕は机に向かい、試しに小説を書いてみることにした。そうしたきっかけはとても重要なものだ。彼女——雨の読字の代わりとなるために。彼女のゴーストライターとなることを決意したのだ。パソコンのWordでひたすらに文章を打っていく。

 だが最初にぶち当たった壁は「文体」だった。個性的な文章を作るためにはやはり文法をきちんと守ったうえで自身の個性を具現化しなければならない。そのことが歯がゆいほど困難だ。キーボードを叩いては文章を消し、作っては消しの繰り返し。それに嫌になってきた。少し息抜きで水を飲む。本当はコーヒーなどを楽しみたいが味覚を感じられない以上、そんなものは無駄だ。

 しかしそのことが少し寂しくもある。嘆息をつき、もう一度パソコンの画面を見る。また文章を打ち込んだ。

 チェアから離れ、大きく伸びをした。

 もう今日は執筆は辞めよう。そう思い、自室を出た。

 リビングでは母親が調理をしていた。その様子を傍から見ていると母が声を掛けてきた。


「どうしたの?」

「いや、別に……」

「とんかつ、食べる?」

 その言葉に僕は苦笑いを浮かべた。

「食べたところでだろ。味が分からないのに」

「確かにそうだけど」

「なに母さんは期待してんの? 僕の味覚は一生戻らないし、でもさ」

「ん?」

「僕は雨と料理人の未来を歩くつもりだよ。彼女には相当努力してもらわないといけないけど、彼女は人生において努力の大切さを無下にはしなかった人間だと思う。だからそこは信頼しているんだ」


 一息にそう言うと母親は納得したようだった。

「それなら良かった。あんたは私たちの大切な息子だから。もし料理人なるのが嫌だったら逃げだしていいのよ」

 ――逃げだしていい。そんな言葉に僕は嘲笑を浮かべた。

「馬鹿にしないでくれよ、母さん。僕は一度打ち立てた目標はそう簡単に潰さないよ。なぜなら叶ったその瞬間にしか見られない景色があるから。僕はその境地に達するために頑張るんだ」

 母親は目を丸くし、だがそのあとに僕を抱きしめてくれた。

「あんたは本当にお父さんに似ているのね。なら頑張りなさい。愚痴ならいくらでも聞くわ」

 そして揚げあがったとんかつを僕にくれた。躊躇いながらも咀嚼する。熱さだけが感覚野をしびれさせるが、ただそれだけだ。


 でも、記憶の片隅に残っている母親の特性のとんかつの味を思い出す。まだ記憶にあるお陰で想像では味わえる。

「母さん。美味しいよ」

 母は瞳に涙を浮かべながら、ぐすっ、と鼻を啜った。

 するとスマホの着信が鳴った。そこには電話番号を交換した雨の名前が載っていた。

 階段を再び上がっている最中、母の泣き声が後ろから聞こえてきた。


「母さん……」


 病気は家族をも不幸にする。

 こんなとき、どんなことを思えばいいのだろう。

 右手の拳を何とはなしに眺めて、息を吐く。それから気を変えるように電話に出た。


「はいもしもし」

「あっ、都君。あれからいろいろ考えたんだけど、とんかつの作り方を教えてもらいたいなあって」

「分かった。でもどうしてとんかつなんだ?」

「いや、だって私、都君のとんかつ好きなんだもん。ならまずあなたのとんかつかなって」

「ふーん。お褒めにあずかり光栄です」

「なにその丁重な返し。本当に笑えるんだけど」

 そう言ってクスッと笑う雨。その笑い声は安らかさを讃えていた。

「まあ、だったら今日の昼三時に家に来いよ。みっちり腕を仕込んでやるよ」

「分かった。楽しみにしてる」

 電話が切れた。チェアにもたれかかる。

 そして少しうたた寝をした。





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