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第8話 脳震盪

 僕は軽度の脳震盪によって急性味覚障害を患った。次、また自然的に脳震盪を起こせばもう助からない。そう、医師に言われた。

 いつ爆発するか分からない時限爆弾を背負いながら生きることが、どれほど苦痛で不幸なことか。

 これを知っているのは、親だけだ。たぶんあいつらは知らない。

 すると連絡がかかってきた。彰からだ。それに出るとあいつは僕の味覚を雨にさせることを提案してきた。


「僕の味覚なんて、あいつに出来んのか」

「頑張れば、出来るだろう」

「そうか?」

 僕は首元を触りながら、「どうしたもんかな?」とぼやいた。

「まあ試しにやってみろよ。あいつを試してやろうぜ」

 へへっと笑う彰。それに人の感覚の代わりなんて出来ない、ときっぱり答えた。


 退院日。僕は乗っていた車椅子から降ろされて車に乗り込んだ。父親が後部座席のドアを閉める。そして父が運転席に乗り込んで、車のエンジンをかける。


「母さんは?」

「店番だ」

 端的に父がそう答えた。僕はどこか怒り混じりな父親の反応に困惑してしまう。

「どうして怒ってんだよ」

 その言葉に一拍置いて、「自分の息子が事故に遭ったって言うのに呑気でいられる親がどこにいる」と言ってきた。

「ごめん」  

「謝らなくていい。……ちなみに相手方が事故を起こした原因は知っているか?」

「ああ。ニュースで知った。飲酒運転だったんだよな」

「そうだ。それが俺はとても許せない。こんな話、するべきことじゃないってことは分かっているが——」

「父さん。僕を子供扱いしないでよ。分別をわきまえてるって」

 すると父がサイドミラー越しに睨みつけてきた。

「そう簡単に分別とか語るのが餓鬼だって言ってんだよ」


 ごめん。僕はまた謝った。すると父も「すまない。お前のことを考えるとちょっと情緒がおかしくなるんだ」と同じく謝ってきた。その言葉自体が胸が痛くなるほど子供想いな親の本音だった。

 僕は窓を見た。そしたら頬を涙が伝った。ずずっと鼻をすすり涙をぬぐう。


 帰宅すると店内にいた土木作業員のおじさんが、「退院、おめでとう……なのかな」としんみりとした口調で言ってきた。僕はそれに手を振って気にしなくていいよ、と言う。

 そして階段を駆け上がり自室に入る。

 扉を閉めて、ふぅと息を吐く。疲れた。

 すると、机の上にポッキーがあった。それを手に取り、箱を開け、一口齧る。

 咀嚼するが、無味だ。だが鼻を通る匂いはあるので違和感しかない。

 天を見上げた。そうしないとまた涙が零れてしまいそうだから。

 だが、思わずずるずると屈みこんでしまい、嗚咽を漏らす。そんなことは無駄だと思っているのに。もう一本とポッキーを齧ってはまた涙を流す。その涙が口の中に入り、味がするような幻覚が起きる。

「誰かあ、助けてくれよお」

 そう、誰とも聞こえないように口許を押さえながら叫んだ。必死に。苦肉を噛み締めながら。

 こうはしてはならない。前を向かないといけない。

 立ち上がり、もう一度扉を開けた——


 翌日。雨は店にやって来ていた。彼女は自分の母親と何かを話している。その様子を遠目に眺めながら冷を飲んでいた自分。

 時折、笑みを零している彼女を見遣ると、少々苛立ちが募った。

 そんなとき、雨が母親との会話を終わらせ、こちらに来る。「おはよう。都くん」


「うん。今日はどうした?」

「いや、私、あなたの店で働くからその前口上みたいなことを、都くんのお母さんにしていたの」

「ふーん。その前口上っていったい?」

「ふふっ、内緒」


 内緒、じゃねえよ。ったく、イラつくなあ。そんな感覚を肌で感じてそれが不快感で仕方ない。

 僕も性根が曲がったな。これもそれも病気のせいか。嫌なものだ。病気は性格を変えてしまうというがその通りなのだろう。

「なにその諦観する様は」

「ほっといてくれよ。いいだろ別に」

 彰がこいつを僕の味覚の代わりにするとかなんとか言ってきた。それも一つの正解なのかもしれないがだがしかし、面倒だと思う自分もいる。

「ねえちょっと散歩しない?」

「散歩?」


 前を歩く彼女に続いた。店の玄関の引き戸を開けると雨が降っていた。彼女は身に付けていたボディバッグから傘を取り出し開いた。傘の表面に雨粒がぱちぱちと当たる。その音が自然と心地が良いと思ってしまった僕。雨の音は綺麗だ。一切の不純物すらもない。彼女が天気雨の最中のような曇りを帯びた表情を見せてきた。


「私、あなたの味覚になれるか自信がないの」

「――僕も期待してないよ」

 期待してない。そうきっぱりと言うと彼女は悲しげな表情を浮かべた。

 なんでそんな顔、するんだよ。

「私の話だけどね、ディスレクシアの障害は嫌になるほど生活に支障をきたすの。でもそれでもあえて私は困難な道を選んだわ。それがどうしてか、分かる?」

「前に言っていたじゃないか。小説家になろうと決意したのは、三秋縋先生のように『人の人生を左右するような存在になりたい』からって」

「そうなの。覚えててくれたんだ」

「まあな」と言って頷いた。そしたら彼女は傘を少し手前に動かして雨粒を見つめた。彼女の無垢な瞳からは簡単には感じられないほどの哀愁が漂っていた。それは努力の量と言うべきか。彼女が歩んできた苦痛の人生の垣間見える瞬間でもあった。


 僕はそんな彼女から目を逸らしてしまった。見続けることは容易に出来なかった。

 なぜなら、後天的と言えども自分も味覚障害を患った。

 もう、自分は料理人を目指すことは叶わない。それはおろか、食を楽しむことすら叶わない。

 両親の美味しい家庭の料理を味わうことが出来ない。食事が何よりの趣味であった自分にとってそれは悲しい顛末だろう。

 最悪なバッドエンドだ。もういっそのこと死んでしまおうか。生きている価値なんて、今の自分にはないんだし。

 そんなことを思いふけていると、雨が真っ直ぐこちらを見つめてきた。そして僕の頬を触ってきた。

 それは刹那の出来事だった。彼女が僕の唇に口付けをしてきたのだ。思わず僕は呆然としてしまう。

 何が起きたのか。理解できなかった。


「私は、あなたのためだったら身を捧げるつもりでいます。この気持ちを、すぐに汲んでほしいとは思いません。それでも、一緒に夢を追いかけませんか?」

 僕は、このとき何かしら言葉を発さなくてはいけないと思った。伝えなくてはいけない。

「僕に付いてきてくれるのか?」

「いいえ、共に歩んでいきましょう。長い、長い夢の世界を」

 そして共に歩き出した。雨が降る、悲しみと残酷さが隣接しているこの世界を。









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