大きく広がる空を見上げる。果てしなき景色を見つめる事を司る。細められた瞳でもそれは止める事は出来なくて。
「相手に降伏を、俺たちに幸福を」
ギロウは薬を包んだ麻の布を持って岩を上り始めた。尖った岩肌、歪な姿に手足を掛けて、それらを素早く動かすようにと己に言い聞かせながら。
ラニの目が捉えた光景は既に手足を動かし空に近付く姿ではなかった。
「ロウ様、無理はしないで」
「無視をしよう」
既に登り終えている彼に対する心配の言葉など耳に届けど心に澄み渡る前に擦り切れてしまう。
「誘え」
キュウリをひと齧り、飲み込んだ直後に指笛を鳴らした。それは明らかな挑発行為、響きの良い音は暑さにやられて蒸発してしまうことも無くしっかりと周囲を駆け巡り、居場所の痕跡を埋め込んだ。
「来いよ」
喉から無理やり抜け出して来た声は、限界まで顰められた低く地を這う声はギロウの緊張に縮こまってしまっていた。心臓の鼓動が素早く強く濃く、ギロウの身体を痛めつけるように本音を叫び散らしている。
すぐに来るか間を置いて来るか。時間という門を日は潜り抜け続ける。流れる沈黙は緊張を縄のように伸ばして縛り付ける。息苦しさに支配され、肺は焼けつくような心地を与えていた。
どれほど時間が経った事だろう。恐らくゆったりとした拍でリズムを取る童謡を二回奏でると同様の時間を溶かしてしまったのではないか。麻の布に包まれた薬は作戦ではなく己の落ち着きの為に用いるべきだったのではないだろうか。
そんな心配を一瞬で吹き飛ばす足音が聞こえてきた。堂々とした足取りを思わせる力強い足音はギロウの心臓を爆破するには作戦に用いる爆弾よりも余程効果的だった。
動き行く。力強い音は実のところ筋力の不足や運動習慣の欠如、威厳に満ちた態度は見せかけで化けの皮を剥がせば化け物の如き価値観を持つ弱者。冷酷に見えるそれは労働者を守り抜くだけの力や工夫すら出来ない証。
言い聞かせながらギロウは身体の中でカラカラと音を鳴らしながら跳ねる頼りない勇気を振り絞り、気を結び麻の布を構えた。
辺りを見回すように歩く男に向けて麻の布を、包まれた薬を落とす。
空気を切るように立った音に男の目は向くものの、罠を剥くには既に遅い。地に落ちた麻の布からはみ出すように、口から吹き出るように粉が舞い始める。
「今だ」
言葉に従ってラニは火薬の詰まった瓶を放り投げる。薬が舞う事で作り上げられる煙模様。相手の影が示す姿を、銃を構える姿勢を崩して袖で己の顔を覆う姿を捉えながら想像通りの未来を捕える。瓶は銃に当たり、明確な一つの振動を受けて爆発を起こす。轟音は空気を揺らして爆発は薬を巻き込んで炎を起こす。空間は燃え上がり、男を取り囲む。周囲を巡りいつまでも追い回すように炎は渦を巻き、男の口から言葉にならぬ声を排出させた。
手から力が抜け、銃はすり抜け落ちる。戦う手段を手放した男を囲む炎が風に吹かれて散り散りに、力を失うと共にラニは縄を持って男の手を縛り始める。ギロウも岩から降りて加わり手足をしっかりと縛り上げ動きを封じ込める。
「さあ、これで仕事の部下すら守らぬ弱者の時代は終わりさ」
この代で会社も終わり、それを悟った男は目を見開き呪詛を吐き始めた。荒れ地を穢す勢いで吐き散らされるそれは二人の耳の門を叩き、無断で入り込む。心に黒々とした花を添え、誰も彼も何もかもを不幸に陥れようとする。そんな心を拭こうとしてくれる荒れ地の景色はいつまでも優しさを忘れない。
ギロウは男を見つめると共に目を見開き、ラニの手を引いて後ろへと飛び退くように下がった。
「あれは」
男の影が浮かぶように立体となり、実体を伴っているのか男の頬をその手でつかむ。
「何が起こっている」
ギロウの疑問はラニの中では疑問にすらならず、自然と答えを口に出す。
「多分だけど、暗い気持ちが影になってる」
苦しみや悲しみ、絶望を餌にする何者か、それが男の頭を飲み込み一瞬、顔無き顔に喜びの貌を浮かべた様な気がした。
その後すぐさま男を放して影は男の影の中へと沈んでしまった。
ギロウは男の肩を揺らし、目の動きから無事を確かめると共に男に向けて声を尖らせる。
「何をしても償いにはなれないからな」
悪人の負からの帰還に与える賞など何一つありはしない。それがギロウの中の想い。
男は目を白黒させながらギロウを、続いてラニを見つめ、荒れ地の空を眺めて力の抜けた声を零した。
「おまえたちは何者だ」
ギロウは男に対して刃物をも上回る鋭さを誇る視線を突き付け告げた。
「借金の取り立て人だ」
それからすぐに街へと戻り、男の家に積まれていた財産の中からギロウとラニの四か月分の給料だけを頂いて外へ。
それから太陽は落ち、再び昇る。
次の研究調査の仕事を見付けて歩くギロウの隣を歩いている少女に目を向け疑問を投げかける。
「もうあの件は終わっただろう」
ラニは微笑みを咲かせてギロウの手を握り締めて。頬にほんのりと色付いた赤は優しく温かだった。
「私も一緒に研究続けたい」
「たくさん身体とか触ったらしい奴とでも?」
ギロウの問いかけはラニが目を伏しながらゆっくりと左右に振る仕草によって無意味なものへと変えられた。
「ロウ様記憶残ってないし今のロウ様なら」
ギロウの身分を再び確かめるために獲得した紙に記された数字、今のギロウが失った思い出の年数の十七を示す文字を見つめてラニは笑顔をきらめかせた。
「私は十四歳だから三つしか違わないんだね」
その事実にギロウ本人が最も驚いていたのだという。