目を開けた。大きな空が広がっていたはず、その景色は何かに覆われてあまり見られない。
「ロウ様やっと目を覚まして」
頭を掻きながら、視界の半分以上を覆う少女へと目を向ける。ねこを思わせる目に収まる緑がかった青い瞳と後ろに流された艶やかな金髪の持ち主。それは見覚えのない人物。知り合いだという事が信じられなかった。
「誰だ」
その一言に対して少女は目は大きく見開かれ口は驚きに波立って。感情が丸見えだった。
「忘れるなんて酷い」
少女は落胆を声に乗せながらも微笑みを形作りながら手を差し出し、空白の間が開く事二拍程度。手をつかんで無理やり起こしていく。
続けて少女は自身の胸に手を当て通りの良い声を靡かせる。
「私はロウ様と一緒にここら一帯を歩く影の調査に同行してるの」
彼女の声は初めて聞いたはず。知らないはずのそれだったものの、耳が覚えていた。記憶のどこかで火花を散らして感情を温めていた。
「本当に覚えてないの?」
訊ねられたところで頭の中から彼女の事を引っ張り出す事など到底できない。
「給料四か月分、ちゃんと払ってもらうから」
どうやら踏み倒していたよう。記憶の欠けた部分に収まるピースは出来る限り見つめたくないものだったよう。
「実地研究の単発仕事の雇い主ギロウ」
ギロウ、それが彼の名前なのだと知ったその時、何一つ実感が湧かなかった。
「単発仕事毎回滞納でもう銅貨四千五百枚分」
「すまない、ちゃんと払うから」
「ロウ様は説得力って知ってる? 知ってるよね」
ギロウには彼女がロウ様と呼んでいる彼だった頃の記憶など残っていなかったものの、それでも分かってしまった。
「何故そんなに滞納を」
余程堕落した生活を送っていたのだろうか。贅沢という言葉に操られて必要以上の出費をしてしまっていたのだろうか。
「俺には記憶がない、影にでも食われたのか」
推測、実際のところは何も分かっていないものの彼女の言葉の中から、拾い上げたそれを元凶として用いてみた。
「影については何も分からないからそうかもね」
この少女は気が付いていないのだろうか。ギロウが求めている事にたどり着く気配すら感じさせなかった。
「記憶失くしたから、あなたの事は美女でしかないんだ」
途端に顔を赤くしながら睨み付ける。その目に宿った感情に刺されて思わず後ずさりをしてしまう。
「酷い、私の気持ちも考えずに毎日抱いてた事もキスを求めたことも覚えてないんだ」
どこまでも深い地の底に落とされた気分だった。自分の行いでここまでの不快を覚える事があるのかと驚かされてしまう。
「名前、教えて」
「それも覚えてないの?」
今までの会話やこの表情から記憶の中のギロウとは大きく異なる姿を見て取ったのか、一度咳払いをして少女は自己紹介を始めた。
「私はラニ、ロウ様と同じく苗字は無いよ」
苗字という言葉には覚えがあった。ある程度大きな一族が持つ身分の証明。その名を語る事で偉大なる家の名を轟かせるのだとか。
「この辺の人たちは住む場所や職業を苗字のように使うから不思議だよね」
川の、大きな畑主の、靴屋の、といった具合いで名乗る風習。恐らく名前だけでは不便を感じたのだろう。苗字が生まれた経緯などを調査してみるのも面白そうだとギロウの頬の緩みや横に引かれる口が声も無く語っていた。
「ロウ様の次の調査それにするの?」
「興味が湧いてきた」
そんな言葉を返されてラニは顔を曇らせ日差しは顔を照らす事を放棄している。
「本当に記憶失くしてるの?」
傾いた顔は疑問の重みだろうか。クエスチョンマークが乗った頭はそれほど重いものだろうか。ギロウの記憶は確かにどこかへと飛んで行ってしまっているのだが、それ程までに以前の印象と合致してしまったのだろうか。
何も語る事は無く、ラニの姿を背にギロウは歩き出す。トートバッグから取り出した地図と方位磁針に資料の数々と睨めっこしながら調査対象の影がどこに現れるのか推測しながら歩き続ける。
そんなギロウの姿を見つめ、ラニは爽やかな笑顔を見せながら跳ねるように歩いて隣に並ぶ。
「確かに記憶失くしてるみたい」
「信じてもらえてよかった」
「前のロウ様ならずっと身体触りながら歩いてたし」
信用の無さ故に真面目な行動で信用を得るという。聞きたくも無い話を耳にして思わず顔を下ろしてしまう。ラニの綺麗な顔に苦しみの感情を乗せたくなくて過去の見知らぬ己を深く嫌悪してしまった。
「全額払ったらもうラニとはお別れだからそれまで我慢して」
話を聞く限りラニはギロウの事が好きでついて行ったわけではないはず。金の事だけ。どれ程の苦しみが付き纏っているのか計り知れない。
「他に雇ってくれる人がいるなら」
「そうか」
仕事を得られるかどうか分からない。毎日が綱渡りの人生はあまりにも息苦しい。きっとラニも必死なのだろう。
「ロウ様が昔みたいに真面目になってくれれば」
言葉ではそういうものの、既に手遅れだと気が付いていた。過去の失敗を取り返すにはあまりにも遅すぎたのだ。
そんな想像に寄り添うように一つの影が目の前に立ちはだかる。